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ナイキの知られざる誕生秘話はここまで熱い 2018年の今だからこそ響く創業者の言葉

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2018/02/12 13:00 印南 敦史
ナイキ創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』は小社より発売中(撮影:今井康一) © 東洋経済オンライン ナイキ創業者フィル・ナイトの自伝『SHOE DOG』は小社より発売中(撮影:今井康一)

 思っている以上に時間は短く、人生は朝のランニングのように束の間であることを、私は痛切に感じていた。だからこそ自分の時間を意義あるものにしたかった。目的のあるもの、創造的で、重要なものに。そして何より……人とは違ったものに。

 私は世界に足跡を残したかった。

 私は勝ちたかった。

 いや、そうじゃない。とにかく負けたくなかったのだ。

 そして閃いた。私の若き心臓は脈打ち始め、ピンクの肺は鳥の翼のように膨れ上がった。木々が緑に染まるのを見ながら、私は自分の人生もスポーツのようでありたいと思った。(4ページより)

未来への野望

 ナイキの創業者であるフィル・ナイトによる著作『SHOE DOG(シュードッグ)』(フィル・ナイト著、大田黒奉之訳、東洋経済新報社)は、24歳だった彼が夜明け前のオレゴンを走りながら思いを巡らせる、このような描写からスタートする。

 この冒頭の数ページで心をわしづかみにされてしまうのは、未来への野望でいっぱいになった著者の思いがはっきり伝わってくるからである。並走しながら澄んだ空気を吸っているような、さわやかで、熱いリアリティがあるのだ。

 そしてこの日を境に、彼は“馬鹿げたアイデア”の実現のため動き出す。オニツカという会社のブランド「タイガー」のかっこよさに魅了されていたため、神戸のオフィスへ赴き、タイガーのシューズをアメリカで売りたいと交渉するのである。

 「みなさん、アメリカの靴市場は巨大です。まだ手つかずでもあります。もし御社が参入して、タイガーを店頭に置き、アメリカのアスリートがみんな履いているアディダスより値段を下げれば、ものすごい利益を生む可能性があります」(39ページより)

こうした部分だけを引き抜くと、当時からいかにも優秀なビジネスマンだったように思えるかもしれないが、このエピソードには最初からオチがある。なぜならこの時点で、著者にはビジネスの経験がなかったのだから。当然ながら自分の会社もなかったわけだが、そのことを指摘されても、なんとかハッタリで乗り切ってしまう。

 「ミスター・ナイト、何という会社にお勤めですか」

 「ああ、それはですね」と言いながら、アドレナリンが体中を流れた。逃げて身を隠したい気分になった。

 私にとって世界で最も安全な場所はどこだろう。そうだ、両親の家だ。数十年も前に裕福な、両親よりもずっと裕福な資産家が建てた家で、家の裏には使用人の家もある。そこが私のベッドルームになっていて、野球カードや、レコード、ポスター、本で埋め尽くされている。私にとって神聖なものばかりだ。陸上競技で勝ち取ったブルーリボンも壁に飾られている。人生で胸を張って自慢できるものだ。どうしよう。

 「そうだ、ブルーリボンだ」と私はつぶやいた。「みなさん、私はオレゴン州ポートランドのブルーリボン・スポーツの代表です」

 ミヤザキ氏が微笑んだ。他の重役たちも微笑んだ。テーブルでざわめきが起こった。「ブルーリボン、ブルーリボン、ブルーリボン」。彼らは腕を組んで再び静まり返り、私に視線を向けた。(38ページより)

にわかには信じがたい話ではあるし、それだけ世の中が穏やかだったとも考えられる。しかしいずれにせよ、ブルーリボンはオニツカと契約。売り上げも大きく伸びていくことになったのだった。

 とはいえ、もともと潤沢な資金があったわけではない。それどころか、銀行に借金を繰り返さなければ、事業が回らない状態だったのである。資金がなければ話にならない。この時点で心が折れたとしても、まったく不思議ではないだろう。

大地を蹴り続けるランナーのような押しの強さ

 しかし、著者は違った。興味深いのは、次々と押し寄せるビジネスのトラブルを、ランナーとしてのマインドを武器にしながら乗り越えていったことだ。普通の感覚でいえば、それは“ありえない話”である。だが、その点においてまったく迷いがなかったであろうことは、危険なビジネスにブレーキをかけようとする銀行員とのやりとりからも明らかだ。

 初年度に売り上げた8000ドルを銀行に預けた後、翌年度は1万6000ドルの売り上げを計画していたのだが、その銀行員によると、これは厄介な傾向だそうだ。

 「売り上げの100パーセント増加が厄介ですって?」

 「会社の資産の割に成長が速すぎます」

 「こんな小さな会社の成長が速すぎる? 成長が速ければ、資産も増えるでしょう」

 「原理は同じで、会社の大きさには関係しません。バランスシートを超えた成長は危険です」

 「人生は成長であり、ビジネスも成長です。成長するか死ぬしかありません」

 「私どもはそうは考えません」

 「ランナーにレースで飛ばしすぎるなと言うようなもんでしょう」

 「それとこれとは話が別です」

 話をややこしくしているのはそっちだ、と言ってやりたかった。(109ページより)

銀行員の言い分もわからなくはないので、思わず笑ってしまった。しかし、大地を蹴り続けるランナーのような、この押しの強さこそが著者のポテンシャルなのだ。だからこそ、彼はいくつもの奇跡を起こすことができたのだ。

 ただし、奇跡を起こすためには幾多の障害を乗り越える必要があったともいえるわけで、たとえば資金繰りの苦労はその典型だ。しかもそれだけでなく、好調な売り上げ実績を軸に良好な関係が保たれていたはずのオニツカとの関係は、やがて決裂しはじめる。

 新たに日商岩井とのビジネスを進めようとしていた矢先、オニツカの担当であるキタミが、ブルーリボンから別の代理店に乗り換えようとしていることが判明したのだ。

 私は厄介な電話をもらった。東海岸の販売店がオニツカから直営の販売店にならないかと打診を受けたそうだ。(中略)私は体が震えはじめ、心臓が激しく鳴っていた。新たに更新の契約を結んだオニツカが、それを破棄しようとしているのか。(235ページより)

残念ながら交渉はうまくいかず、結果的にブルーリボンはオニツカから最後通告をたたきつけられることになる。ちなみに、このとき憔悴する著者に手を差し伸べたのは日商岩井のスメラギだった。

 「質のいいシューズを作るメーカーは日本にたくさんありますから、そこを紹介しましょう」

 そう声をかけてくれたスメラギとの、そして日商岩井との関係は以後も続くことになる。しかし、オニツカという後ろ盾を失った著者が選択したのは、ほかのメーカーを紹介してもらうことではなく、新たなブランドを立ち上げて独自のシューズを作ることだった。

ナイキ誕生の瞬間の貴重な記録

 かくして1971年、ナイキが誕生することになる。シューズが完成し、流線型のおなじみのロゴができ、次は名前だ。参考までに書き添えておくと、数十種のアイデアの中から選び抜かれた最終案は「ファルコン」と「ディメンション・シックス」だったのだそうだ。そのどちらかに決まっていたとしたら、現在、そのブランドは存続していただろうか? 少なくとも個人的には、ファルコンなんていう名前のブランドには心惹かれないような気がする。

 決定の日が来た。カナダはすでにシューズの生産を始めていて、日本にいつサンプルが流出してもおかしくない。発送の前に私たちは名前を決めなければならない。しかも搬送の日に合わせて広告を出す予定だから、グラフィックアーティストにも名前を伝えなくてはならない。最終的にはアメリカ特許局に書類も提出しなければならない。

 ウッデルがオフィスにやってきて「時間切れだ」と言った。

 私は目をこすった。「わかってるよ」

 「どうなるんだ?」

 「さあね」

 私は頭が割れそうだった。全部の名前が頭の中に入ってごちゃ交ぜになっている。ファルコンベンガルディメンションシックス。

 「実は……もう1つ案があるんだ」とウッデル。

 「誰の?」

 「今朝ジョンソンから電話がかかってきた。昨晩夢の中で新しいネーミングが浮かんだらしい」

 私は目を丸くした。「夢だって?」

 「彼はまじめだよ」とウッデル。

 「いつだってそうさ」

 「真夜中にハッとしてベッドから起き上がると、目の前に名前が浮かんでいたんだって」

 私は身を乗り出して聞いた。「何て名前だ?」

 「ナイキだ」

 「はっ?」

 「ナイキ」

 「綴りは?」

 「NIKE」とウッデル。

 私は黄色いリーガルパッドにそれを書いた。

 ギリシャの神、勝利の女神の名だ。アクロポリスの丘、パルテノン神殿、アテナ・ニケ神殿。私は旅を振り返った。簡潔で短い。(260ページより)

引用が長くなってしまったが、このやりとりは簡略化することができない。私たちにとっても重要なブランドである、ナイキ誕生の瞬間の貴重な記録だからだ。

 とはいっても、ストーリーがここで終わるわけではない。それどころか、社名がブルーリボンからナイキに変わり、大きな売り上げをたたき出してもなお、資金不足が解消されることはなかったのだ。

極めて現代的なビジネスマンだ

 そこで創業メンバーたちは、「バットフェイス(ブサイク)」という名のミーティングを繰り返し、その結果、1980年にナイキは株式公開を果たす。ここで明らかにされているのは、その時点までのプロセスだ。よって終章では振り返りも多くなってくるが、そんな中でも印象的なのは「ビジネス」について語られた部分である。

 “ビジネス”という言葉には違和感がある。当時の大変な日々と眠れぬ夜を、当時の大勝利と決死の闘いを、ビジネスという無味乾燥で退屈なスローガンに押し込めるには無理がある。当時の私たちはそれ以上のことをしていた。(中略)一部の人間にとって、ビジネスとは利益の追求、それだけだ。私たちにとってビジネスとは、金を稼ぐことではない。(中略)

 勝つことは、私や私の会社を支えるという意味を超えるものになっていた。私たちはすべての偉大なビジネスと同様に、創造し、貢献したいと考え、あえてそれを声高に宣言した。何かを作り改善し、何かを伝え、新しいものやサービスを、人々の生活に届けたい。人々により良い幸福、健康、安全、改善をもたらしたい。そのすべてを断固とした態度で効率よく、スマートに行いたい。

 滅多に達成し得ない理想ではあるが、これを成し遂げる方法は、人間という壮大なドラマの中に身を投じることだ。単に生きるだけでなく、他人がより充実した人生を送る手助けをするのだ。もしそうすることをビジネスと呼ぶならば、私をビジネスマンと呼んでくれて結構だ。

 ビジネスという言葉にも愛着が湧いてくるかもしれない。(499ページより)

そういう意味においては、著者は間違いなくビジネスマンである。しかも、極めて現代的な。

 効率や生産性ばかりが重視されていた1970年代にあって、その立ち回りはエキセントリックなものだったかもしれない。しかし2018年のいま、「貢献」「サービス」「幸福」「健康」「安全」「改善」など、著者が記した言葉は、そのどれもが現代における重要なキーワードになっている。

 だからこそ本書は、現代の読者に訴えかける極上のビジネス書だといえるのである。しかも、それだけではない。同時にこれは、ひとりの青年の成長を描いたすばらしい青春物語でもあるのだ。そして、「アメリカで反抗を知らないただ1人の若者」だった著者のたどってきた道のりには、読者一人ひとりの経験のいくつかと重なるかもしれない。

 読んでいると、少しばかり甘酸っぱいような気持ちになってくるのはそのせいだ。

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