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ピンチをチャンスに変えてきた――旭酒造・桜井会長が振り返る「獺祭」と歩んだ日々

ITmedia ビジネスONLiNE のロゴ ITmedia ビジネスONLiNE 2018/09/13 08:45

 日本酒「獺祭(だっさい)」を製造する旭酒造(山口県岩国市)の桜井博志会長は9月11日、東京工科大学(東京都八王子市)で行われた特別講義「ピンチはチャンス! 山口の山奥の小さな酒蔵だからこそできたもの」に登壇した。教室に詰めかけた学生や近隣住民に向けて、「獺祭」を世界的なブランドに育てる上で味わった苦労や、酒づくりに対するこだわりなどを語った。

●「獺祭」が売れたのは「業界が廃れたおかげ」

 桜井氏が社長に就任した1984年当時、旭酒造の売上高は、現在の150分の1程度の9700万円にすぎなかった。また、消費者の趣味嗜好の変化などにより、日本酒マーケット自体も縮小傾向にあった。

 こうした状況にあって桜井氏が業績をV字回復させ、「獺祭」を全国的に有名な商品に育てることができた理由は、「業界が廃れたおかげ」だという。

 当時の旭酒造は、山口県内の同業他社と同じく「自社でつくった酒類を県内の酒屋に納入して売ってもらう」というビジネスを展開。「県内の狭い市場で競合に打ち勝ち、40~50%のシェアを狙う戦い方をしていたが、あまり売れていなかった」そうだ。

 そこで桜井氏は、「廃れつつある業界で、他社と同じことをしていては業績が落ち込む一方だ」「狭い市場で競争していると、資金の差が勝敗に直結するため、資金力に欠けている旭酒造には不利だ」と判断。他社とは違った施策を打つことで逆転を試みた。

●大きな市場で小さなシェアを

 桜井氏が選んだのは、より大きな東京の市場で、1%前後のわずかなシェアを獲りにいくという、お金がなくてもできる“弱者の戦略”。それが奏功し、90年ごろから東京で「獺祭」の人気に火が付き、一躍ヒット商品となったのは周知の通りだ。

 桜井氏は「健全に成長している業界では、手を打たなくても『昨日と同じ今日』が訪れる。だが、縮小している業界ではそうではない。それに気付き、変わろうとしたことで成長できた」と振り返る。

 ただ東京で成功した旭酒造に対し、山口県内の酒屋などからは、「地元を無視するな」「地元を大事にしない商売人に、成功した人はいない」などと批判の声も出たという。

 だが桜井氏は、「地元で売れなかった“負け組”だから、他の市場を探すしか道がなかった。だが、他社と同じ道を選ばなかったからこそ、他の市場を選ぶことができ、今の旭酒造がある」と意に介していない。

●原料を仕入れられず、多額の損失を計上し、職人も去った

 しかし、ビジネスが軌道に乗り始めた旭酒造をさらなるピンチが待ち受けていた。「獺祭」の原料としている高級米「山田錦」の提供を、地元・山口県の農業協同組合が拒んだのだ。

 桜井氏が何度依頼しても、農協は「もう種もみがない」「理由はいえないが、とにかく無理だ」などと主張。地元に根付いたビジネスモデルを捨てた同社に対し、コメの提供をかたくなに拒否したため、旭酒造は原料が手に入らなくなったという。

 ピンチはこれだけではない。旭酒造は90年代後半、さらなる飛躍をとげるため、当時の売上高(2億円)を上回る2億4000万円を投じて“地ビールレストラン”を開業した。だが客は入らず。3カ月で閉店を余儀なくされたほか、愛想を尽かした日本酒づくりの職人、杜氏(とうじ)が一人残らず会社を去ってしまったという。

旭酒造の桜井博志会長 © ITmedia ビジネスオンライン 旭酒造の桜井博志会長

 原料を仕入れられず、多額の損失を計上し、職人もいなくなる――。一般的な酒メーカーであれば倒産しているような状況だが、桜井氏は闘志をたぎらせていたという。

 「人生が終わっていてもおかしくない状況だが、『この先は、やりたいことしかやらない』と肝に銘じた。人に遠慮することはやめた」

 そう決めた桜井氏は、岡山県や兵庫県の「山田錦」を栽培する農家に直談判。農協を介さずに直接コメを仕入れる契約を締結し、17万6000トンに上る「山田錦」の調達網を開拓した。

 また、杜氏に頼らず、酒づくり以外の仕事を任せていた一般社員と一緒に酒をつくることを決断。酒づくりを徹底的にデータ化・マニュアル化し、社員に共有したことで、高品質な酒をつくれる社内体制も構築した。

●職人が去ったことで“若返り”に成功、蔵に温度管理システムも

 杜氏は60代前後の人が多く、後継者不足が課題となっているが、旭酒造の社員の平均年齢は約26歳。職人がいなくなったことで若返りに成功したのだ。現在の社員数は、一般的な酒メーカーの2~3倍に相当する約120人に上る。

 また、杜氏は「日本酒づくりに適した気候である冬季にしか稼働せず、夏季は地元に戻って百姓として働く」との伝統的な働き方を続けていたため、夏場は酒づくりに携われないというデメリットもあった。

 そこで、彼らが去ったことを逆手にとり、桜井氏は蔵に温度管理システムを導入。年間を通して内部を低温に保ち、季節を問わず「獺祭」の製造・販売を行うことで、需要に対応できる体制を整えた。

 桜井氏は「本当においしいお酒をつくるには、高品質な原材料、優秀なスタッフ、そして設備が欠かせない。『常識外れだ』といわれることもあるが、当社は酒づくりへの投資は惜しまない」と自信を見せる。

●「量を売るための酒ではなく、味わう酒を目指す」

 こうしてピンチをチャンスに変え、旭酒造の体質を抜本的に改善した桜井氏には、獺祭を売る上でもう1つこだわっていることがある。それは「量を売るための酒ではなく、味わう酒を目指す」ことだ。

 「大量製造・大量販売の論理を捨て、お客さんの幸せを第一に考えることにした。他社は値引きしたり、景品を付けたりし、たくさん売ることを目標に掲げているが、当社は酒の品質を高め、必要としてくれるお客さんに必要な分だけ売れればいいとの考えに至った」

 現在も旭酒造は、中間流通業者を使わず、「獺祭」のコンセプトを丁寧に説明し、酒づくりのコンセプトに賛同した酒屋とだけ取引する方針を貫いている。品質とブランド力を保つため、コンビニやスーパーなどとは取引しておらず、基本的にはテレビ広告や新聞広告も出さないよう徹底している。

 この方針だと、中間流通業者にマージンを支払う必要がないほか、マーケティングへの投資も必要ない。そのため、浮いた資金を、社員教育や設備投資などに回すことが可能となり、酒の品質を保つことができているのだ。

 「おいしさという“実質的な価値”がある酒は、マーケティングにこだわらなくても、どんな場所でも通用する。実際に、パリやニューヨークで『獺祭』を提供した時も、日本酒を一切知らない多くの外国人客が『おいしい』と評価してくれた」

 独自のブランド戦略で培った自信を胸に、旭酒造は今後、フランスや米国でも「大きな市場で小さなシェアを狙う」作戦を推進していく。

 18年4月には、パリのエリゼ宮の近隣に、有名レストランとコラボした料理店「ダッサイ・ジョエル・ロブション」をオープン。米ニューヨーク州ハイドパークに、試飲ができる販売店と精米工場を建設する計画も進んでいる。

●西日本豪雨での被災も乗り越えた

 地域社会のしがらみや、業界の縮小といったピンチを乗り越えてきた旭酒造だが、実は最近も「天災」という苦難に見舞われていた。

 同社は18年6月末~7月上旬に発生した西日本豪雨によって浸水と停電の被害を受け、7月上旬~7月末にかけて操業を停止。排水処理施設がダウンし、被害総額が約15億円に上るダメージを受けた。

 さらに、停電の影響で、当時約70万本が発酵途中だった獺祭のうち、58万本の温度管理が不十分となり、出荷できない状態となった。

 だが旭酒造は、そんな状況をもチャンスに変えた。漫画「島耕作」シリーズ(弘兼憲史作)に「獺祭」がモチーフの酒が登場する縁で、同作品とのコラボが決定。品質が出荷基準に満たなかった酒のラベルに「島耕作」を描き、「獺祭 島耕作」と名付けて1200円で販売したのだ。

 その結果、「獺祭 島耕作」は直営店で完売。1本当たり200円を被災地への義援金に充てたため、岡山、広島、山口、愛媛の4県に総額約1億1600万円を寄付することにも成功した。

●人生は「ギブアンドテイク」

 自社が被災したにもかかわらず、被災地の支援を行った理由について、桜井氏は「人生はギブアンドテイクが大事。まずは他者に与えなければ、何かを受け取ることはできないからだ」と語る。

 「被災したからといって、支援などに頼っているようでは業界では生き残れない。どんな時も、お客さんを大切にする姿勢でやってきたからこそ、ここまで酒造を続けることができた」

 被災した影響で停止していた「獺祭」の出荷は、9月13日に再開される。桜井氏は「今後も旭酒造は、社会に何ができるかを考えていきたい」と力を込め、講義を締めくくった。

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