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企業に「社員教育を強制」するイギリスの思惑 最低賃金引き上げに「スキルアップ」は不可欠

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2019/03/15 06:50 デービッド・アトキンソン
「社員教育の先進国」での取り組みをご紹介します(撮影:尾形文繁) © 東洋経済オンライン 「社員教育の先進国」での取り組みをご紹介します(撮影:尾形文繁)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。退職後も日本経済の研究を続け、『新・観光立国論』『新・生産性立国論』など、日本を救う数々の提言を行ってきた彼が、ついにたどり着いた日本の生存戦略をまとめた『日本人の勝算』が刊行された。

人口減少と高齢化という未曾有の危機を前に、日本人はどう戦えばいいのか。本連載では、アトキンソン氏の分析を紹介していく。

なぜ「最低賃金の引き上げ」が不可欠なのか

 1月に開始した本連載も、いよいよ佳境に入ってきました。人口減少時代にふさわしい、新しい日本経済のための仕組みを皆さんと一緒に考えることができ、非常に多くの刺激を受けました。感謝申し上げます。

 一部の読者の方がコメント欄で予想されていたとおり、生産性の革命には「教育改革」が不可欠です。この件に関して、今回と次回の2回にわたって検討を進めていきたいと思います。今回は海外の事例を紹介します。

 その前に、まず、本連載で進めてきた議論を簡単に総括してみます。

 GDPを分解すると「GDP=人口×生産性」となります。日本の人口が減る以上、今のGDPを維持するためには生産性向上が不可欠です。高齢者は減らないので、GDPを維持しないという選択肢もありえません。

 人口増加時代から人口減少時代に移行するにあたって、生産性の向上は絶対に不可欠ですが、人口が減少する以上、一部の企業が生産性を向上させるだけでは足りません。全国津々浦々の企業が生産性を向上させるよう努力する必要があります。

 しかし、今の日本では規模が非常に小さい企業が多すぎて、人口減少時代を生き延びるのに必要な最先端技術の活用が進んでいないのが現実です。活用するのもままならないほど、規模が小さい企業が多すぎるからです。企業の規模を拡大させていかないと、たとえ最先端技術があったとしても、その技術は普及しません。

 とはいえ、「人口減少に対応するために企業の規模拡大が必要です」と言うだけでは、「わかりました、ほかの企業と統合します」と素直に実行する経営者は少数派でしょう。現時点の産業構造から、人口減少時代に対応するための産業構造に転換させるための「インセンティブ」を考える必要もあるのです。

 「企業統合を促進して企業数を減らすべきだ」と主張すると、すぐに「リストラで失業者が増える」という反論がわき上がりますが、それは人口増加時代の考え方であり、人手不足がますます深刻化する今後の日本には当てはまりません。

 人口減少時代を生き抜くための必須事項である生産性向上を、企業に強制的にやらせるために、私は最低賃金を継続的に引き上げないといけないと考えています。なぜならば、最低賃金が生産性と最も相関関係が強いからです。最低賃金を毎年約5%ずつ継続的に引き上げていけば、生産性向上を強制することが可能になります。

 最低賃金の引き上げは、あくまでも経営者にショックを与えるレベルにとどめ、パニックを引き起こさないようにするのが重要です。昨年、最低賃金を16.4%も一気に引き上げた韓国では、パニックが起きてしまいました。同じ轍を踏まないように、引き上げ幅は毎年5%程度にするべきです。

 最低賃金が毎年高くなるということは、人件費が毎年上がることを意味しています。そうなれば、経営者は知恵を絞って、人件費の増加分を捻出しなくてはいけなくなります。例えば企業のあり方を変えたり、新しい商品を開発したり、より付加価値の高い商品とサービスを提供するなどの工夫が必要となります。

 つまり、高生産性・高所得経済モデルに移行しなくてはいけなくなるのです。

 この移行の途上にあるのが、観光戦略です。例えばホテルや旅館などの宿泊施設は、かつては社員旅行や修学旅行など、大人数の団体客を、短い期間、狭い部屋に低価格で泊めるスタイルが主流でした。

 インバウンドを含めた、国内の人口増加を基礎としない観光戦略を考え、大量生産的な戦略をやめて、部屋数を減らし、1部屋のサイズを広くし、設備やサービスのレベルも高めて、高い料金をいただけるようにするのが、典型的な高生産性・高所得経済モデルへの移行例です。だから、パイが決まっているから最低賃金の引き上げに対応できないと決めつけるのではなく、設備投資によって「パイを拡大することができる」ことを理解する必要があります。

賃金上昇には「社員のスキルアップ」も欠かせない

 仕組みとして毎年賃金が上がる状況を作るのであれば、社長だけではなく、当然労働者のほうも毎年スキルアップしていかなくてはなりません。学校教育で取得した知識のみをベースに、生涯、知識のアップデートをしなくてもなんとかなっていた時代はもう終わったのです。

 寿命も延びているので、何十年も前に学校で教わった知識をそのまま活用すれば大丈夫だというのは、あまりにも悠長な考えです。労働者を改めて教育し、スキルアップさせることは、国全体の生産性の向上にも欠かせません。

 すでに何回か紹介している、イギリス政府の依頼で行った分析でも、労働者の教育の必要性が検証されています。この分析では、生産性向上の基礎として5つの項目が分析されていますが、社員教育が生産性の向上につながる3番目の要素であることが明らかにされています。

 1番のアントレプレナリズム(entrepreneurism)と生産性向上の相関係数が0.91、2番目の設備投資が0.77に対し、社員教育は0.66で、4位の技術革新の0.56を上回っています。

 ドイツのある分析によると、トレーニングを受けている社員の割合を1%上げると、次の3年間で生産性が0.76%上がるという結果も出ています。

 実際、EUでは研修参加率と生産性の間に、強い相関が見られます。

 EUの研修参加率と生産性の相関係数は0.5ですが、アイルランドとルクセンブルクを除くと0.77となります。この2カ国を除く理由は、両国とも人口が少なく、海外からの労働者や外資系企業のアウトソーシングが多いなどの特殊要因があり、異常値が出ているからです。

 つまり、技術革新はそれ自体、当然大事なのですが、それを使おうとするentrepreneurism、そして、その最先端技術を買うための設備投資が必要で、さらに、その最先端技術を使うための教育も必要なのです。教育が行われないと、せっかくの最先端技術もただの潜在能力として生かされずに終わってしまうことになるのです。

 これは当然と言えば当然のいわば「常識」ですが、日本では学者をはじめ、日本の技術力の高さに酔いしれ、「普及のための教育」を軽視する傾向が強いように感じます。

「社員教育」で成功したデンマーク

 実は今、北欧のある国が、世界中の学者の注目を集めています。デンマークです。この国は高生産性・高所得経済への移行を実践し、大変な成功を収めました。この成功実績はデンマークモデルと呼ばれ、多くの学者や政治家が視察に訪れて、活発に研究が進められています。

 デンマークにはすべての業種を横断する共通の最低賃金はありません。しかし、各業種別の最低賃金は決められています。そして、毎年、賃金の団体交渉をするときに、賃金アップを実現するための研修内容もセットとして交渉するのです。

 デンマークでは企業の研修が充実しているだけではなく、政府もOECD加盟国の中で最も人材育成に投資をしています。これがデンマークの高生産性・高所得モデルの成功の秘訣であると分析されています。

 デンマークでは労働規制が柔軟に設定されている一方で、社会保障が充実しています。この仕組みはflexible(フレキシブル)とsecurity(セキュリティ)を合わせた言葉flexicurity(フレキシキュリティ)と呼ばれ、デンマークの1つの特徴になっています。

 デンマークの成功の秘訣を分析する中で、対照的な例としてニュージーランドの例がよく取り上げられています。

 ニュージーランドもデンマークと似たような経済政策を導入し、ある程度の効果が出ているのですが、デンマークほど目覚ましいものではありません。その理由について、ケンブリッジ大学が人材教育の違いを指摘しています。

 この研究によると、ニュージーランドでは、デンマークのような人材教育が進んでいないため、デンマークと同じような効果が出ていないと報告されています。

企業に「社員教育を強制する」イギリス

 このような研究の結果を受けて、イギリス政府が実施した政策に注目してみたいと思います。

 「最低賃金の引き上げが『世界の常識』な理由」でも紹介したように、イギリスは1999年から最低賃金を導入、年間平均約4.2%引き上げを行い、生産性を大きく向上させることに成功しました。

 そのイギリスでは、高生産性・高所得経済モデルへの移行に成功しているデンマークなどを分析し、2017年から「apprenticeship levy」という職業実習賦課金制度を新しく設けました。

 この制度は、すべての企業が対象です(ただし、零細企業の負担は軽減されています)。年間の人件費が300万ポンド以上の企業を対象に、年間の人件費の0.5%から1万5000ポンドを引いた金額を社員のトレーニングのために徴収するという、ある種の税金を各企業に毎年課しています。

 それぞれの企業ごとに口座が設けられ、賦課金を納めてから2年以内に人材トレーニングを実施すると、そのコストの分だけ払い戻してもらえる仕組みになっています。この制度では、自社内のトレーニングだけではなく、国が認定している教育・養成機関を利用したトレーニングも対象です。一方で、納めてから2年以内に使わないと国が没収する仕組みです。

 人件費が300万ポンドに満たない零細企業を対象とした制度も、別途実施されています。

 この制度で注目すべき点は、人生100年時代の到来を考慮して、トレーニング対象者の年齢制限が設けられていないことです。

 この制度の導入の狙いは、企業に社員のトレーニングを「強制」することです。トレーニングはすればするほどお金がかかりますので、トレーニングをやらない企業のほうがお金をかけない分、価格競争力が上がります。そうすると、国の生産性向上に協力しない企業が得することになってしまうので、そうした事態を防ぐため全企業を対象とした賦課金制度にしているのです。

 この制度のもう1つのポイントは、スキルアップをするために会社を辞める必要がないこと、それどころか在籍していないと使えない制度になっていることです。つまり、労働者が今働いている会社に在籍したまま、スキルアップのトレーニングを受けるインセンティブを与えているのです。

 apprenticeship levyは導入されたばかりで、まだ問題も多いようですが、非常に興味深い制度なのは確かです。

 本連載ではここまで、生産性向上を実現するための方策を検証し、それを実現するために必要な政策を提言してきました。

 そんな中で、「企業が付加価値を高めるためにどうすればいいか、具体的に教えてくれ」という質問や、「それぞれの企業が何をすべきか書いてないから、意味がない」という批判を受けることがあります。

 しかし今、日本には360万人の社長がいます。本連載で説明したように企業の数は減っていくはずですが、それでも2060年には150万社ぐらいはあるはずですので、社長も150万人いることになります。付加価値を高める方策はそれぞれの会社によって違うはずですし、違ってしかるべきです。

 各社の方策を考えるのは、本来、社長がやるべき仕事ですし、そもそも社長はそれを考えるためにいるのです。高額の報酬をもらっている社長1人ひとりが、自社に合った正解を出すべきなのです。

 そのような意図があり、この連載では「各社の社長は何をすればいいか」については一切、言及しませんでした。世界第4位の人材評価を受けているものの、いまは発揮されていない日本人労働者の潜在能力をどうやって発揮させるか、それを考えるのは私ではなく、社長の仕事です。かわりに、どうやって社長たちに高生産性・高所得経済を目指してもらえるか、そのインセンティブを考えてきました。

 次回は、今回ご紹介した海外の事例から、日本が学ぶべき示唆について考えてみたいと思います。

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