古いバージョンのブラウザーを使用しています。MSN を最適にご利用いただくために、サポートされているバージョンをご使用ください。

近未来の感染症流行を予測できる数式の衝撃 北大教授「数理モデルで感染症を食い止める」

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2018/08/10 11:00 藤田 正美
日本の感染症対策は誤りだらけだという(写真:AH86/iStock) © 東洋経済オンライン 日本の感染症対策は誤りだらけだという(写真:AH86/iStock)

「経験と勘」を頼りに決められている感染症対策。そこに数理モデルを持ち込み、エビデンスに基づく対策を訴える西浦博・北海道大学大学院医学研究院教授に話を聞いた。

1995年1月、西浦博少年は、神戸に住んでいた。ロボコンやソーラーカーレースに興味を持って神戸市立工業高等専門学校電気工学科に通っていた。そして1月17日午前5時46分、神戸を大地震が襲った。

 「電気工学の専門家だけど、なにもできない」

 無力感に西浦少年はさいなまれた。

 混乱のさなか、緊急医療人道支援活動を展開するNGOのAMDA所属の医師を見かけた。それを見て17歳の多感な少年は、工学から一転して医学の道を志した。

 勉強の末、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に入学し、NGO活動にも参加する。ある日、途上国で麻疹とポリオの予防接種対策をやっている現場に行った。一つ一つの集落ごとに、誰が接種していて誰が接種していないかという表があり、そこに数式があった。

日本には求めている先生がいなかった

 詳しく見ると、理論的に予防接種率が不足しているという結果が出ている集落では流行が頻発していた。逆に、接種率が足りているとされるところでは流行が起きていない。衝撃的だった。

 「一つの式だけなのに、すごい」

 これは何だろう? 学生インターンだった西浦氏が訊ねると、分厚い本を渡されて「ここにある数理モデルに基づいて計画している」のだという。

 その本(”Infectious Diseases of Humans”, Anderson RM, May RM著, Oxford University Press, 1992)を渡されてからというもの、病院の臨床実習もそっちのけで読みふけった。臨床医になるよりも、この数理モデルを医学に応用する研究に進むと決心したからだ。

 そして、都立病院で1年だけ研修したあと、清水の舞台から飛び降りるつもりで、海外に飛び出した。その本の著者Roy Anderson教授に教えを乞うためにロンドンに向かう。当時の日本には、このような分野で十分な指導を仰げる先生がいなかった。西浦氏が日本に戻ってきたのは、それから10年後のことである。

 その教授のところで本人の言葉を借りれば「モグリの」研究生になり、大学院に入ってイギリス、ドイツ、オランダと研究機会を求めて渡り歩いた。念願のテーマである感染症への数理モデルの応用である。流行状況を把握して、これから何をしなければならないかという政策立案も含めて研究を続ける。

 ロンドンにいたときには、カバン持ちで世界保健機関(WHO)などの国連機関の研究会議にも出席し、どんな感じで先生がカードを切るのかを説明してもらったりもした。この経験は、後に日本で政策立案に関わるときに大いに役立つこととなる。

 感染症の数理モデルとはそもそも何か。

 「感染症がどのように伝播し、感染した人がどの程度の期間で発症し、重症化するのかといったプロセスを数式で記述する」ことだと西浦教授は言う。

 そしてここ15年ほどで数理モデルの妥当性や信頼性が飛躍的に高まった結果、欧州を中心に保健医療政策の形成過程で盛んに活用されるようになったともいう。

対策次第で大規模流行は起こらないと結論

 数理モデルの活用で何が可能になるのか。分かりやすいのは予防接種の見積もりだと説明する。さまざまな感染症に対して「ワクチンを接種して人口の何パーセントが免疫を持てば大規模な流行を防ぐことができるのかを計算することができる」。

 2012年から2013年にかけて、日本で風疹が大流行をしたことがある。その時のデータを分析すると、流行の中心的役割を果たしたのは成人男性だった。

 風疹の定期接種は1994年まで女子中学生のみだったため、2010年代になると免疫のない成人男性が目立つようになっていた。そこで成人男性のデータを感染症モデルに取り込んで、風疹がまた流行しないようにするための条件を計算してみた。

 その結果、30〜50歳代の男性の約2割が風疹の免疫を新たに獲得すれば大規模な流行は起こらないという結論を得た。

 30〜50歳代の男性に優先的に予防接種すべきこと、そのための予算がどの程度必要か、それを国立感染症研究所の本研究の統括責任者に伝えた。

 そしてこの話はさらに前進する。予算を得て、どのような予防接種プログラムによって目標を達成するのか、その一助とすべく新しいプロジェクトを立ち上げて議論を進めているという。

 しかし、日本の徒弟制度から離れて海外に長期滞在していた西浦教授にとって、日本の政策形成の現場に関わるのはそう簡単ではなかった。

 どんな研究をしていようが、どんな経験を積んでいようが、それだけでは厚生労働省などに行っても、まじめに取り合ってもらえない。国際的に認められた業績をしっかりと積み上げることがどうしても必要だった。それができれば、自分の言うことも無視されなくなると考えた。

 それが海外での研究が長引いた理由でもあった。

新型インフルでパニックに陥った日本

 ある時気がついた。

 パンデミックに際して誰に優先的にワクチン接種をするかというポジションペーパーをWHOが出すと、日本の厚労省はそれを和訳して使っていた。実は「そのペーパーの作成に携わっていたのは自分たちだった」(西浦教授)という。WHOなどを通して情報を入れれば、たちまち日本政府の扱いが変わるということを実感したきっかけである。

 2009年に新型インフルエンザH1N1が大流行したとき、オランダから日本に出張してきた西浦氏が見たのは、日本の大パニックだった。

 実はこのとき、日本政府はパンデミックに備えて、かなり周到なマニュアルを用意していた。それに従って、国際空港に検疫の職員に加えて防衛省や国立病院機構の医師・看護師を動員して機内検疫を実施した。

 メキシコから始まって北米全域で流行していたため、北米から到着した旅客機にポータブルサーモスキャナーを持ち込んで乗客の熱を測る。マニュアル通りの水際作戦である。

 それでも神戸と大阪でH1N1による流行が起こった。

 感染していても発熱しない人が4割ぐらいいるし、感染しても発症前で発熱していない人もいる。仮に発熱していても市販薬を飲んで熱が下がっている人もいる。サーモスキャナーだけではとても捕捉しきれない。検疫を通り抜ける感染者が出る。

 では、どれくらい素通りしたかという分析を数理モデルを使って推定した。その結果は衝撃的ですらある。発熱者を探すだけでは100人にわずか1人の感染者しか発見できないというものだった。

 延べ3万人が動員されたというこの水際作戦はほぼ役に立たなかった。作戦は見直しを余儀なくされ、研究結果をもとに効果が極めて限定的であることが報告された。

少しずつ数理モデルが理解されていった

 最近、日本ではあまり大きな話題にはなっていないが、静かに潜行している問題にHIV/AIDS(ヒト免疫不全ウイルス感染症および後天性免疫不全症候群)の流行がある。かつてはHIV感染者の報告数がこんな傾向で続くだろうという「見通し」が何の根拠もなく置かれ、対策が議論されていた。

 しかし、数理モデルを使うことで、診断された人、治療下にある人が何パーセントで、診断されていない人がどれくらいということが出せるようになった。その上で制御がうまくいっているかどうかを評価しながら予測できるようになった。

 この武器を持って厚労省のエイズ動向委員会のメンバーにもなったが、「それって本当か?」という疑問をぶつけられてしまう。

 そのため西浦教授は、まったく異なる体系で推定をし、その結果を比較することで推計の信用性を担保することにした。

 免疫細胞の数の変化や、ウイルスの遺伝子変化の速度といったデータから、感染してから診断されるまでの期間の分布が分かり、そこに数式を当てはめてまだ診断されていない人の推計値を出した。

 まったく違う方法論に基づく推計値がほぼ近いものになったことで、ようやく数理モデルを使った推定値が少しずつ受け入れられるようになった。

 現在、国連エイズ合同計画(UNAIDS)では90-90-90というスローガンを打ち出している。

 感染した者の90パーセントが自分の状態を知り、その90パーセントが治療を受け、その90パーセントでウイルスの量が制御されているという状態を目標とするということだ。これを達成すれば感染を制御できる。

 日本ではどうか。

 数理モデルで推計すると、現時点では最初の90が達成されておらず、診断されている人は感染者の7割ぐらいだという。診断された人の治療やウイルスのコントロールは95パーセントを超えている。

 つまり、日本のHIV/AIDS対策の要点は、とにかく検査をどのように勧奨するのかということにかかってくる。それがエビデンスをもってはっきりと言えるのである。

国のワクチン接種政策は誤りだらけ

 1970年代に風疹のワクチンが開発され、いろいろな国で導入された。しかし、ギリシャではその接種を義務化しなかったために、接種率は20から30パーセント台で推移した。これでは風疹を排除するにはまったく足りない。

 その結果、だらだらと流行が続き、子どもの病気だったものがだんだんと大人の病気になってしまった。そして妊婦が感染し、多くの先天性風疹症候群の子どもが生まれてしまった。これがギリシャの悲劇として知られる有名な話だ。

 ここから得られる教訓は、接種をするのであれば大規模な流行を起こさない集団免疫を達成するほどの度合いで接種することが重要ということである。

 前述したように、日本でもある時期に風疹の予防接種を女子中学生に限ったことで、風疹に対する免疫がない中年男性が増え、2012年から2013年に風疹の大流行につながった。その結果、40人を超える先天性風疹症候群の子どもが誕生した。

 しかし、問題は風疹だけではないと西浦教授は言う。

 「いまの季節性インフルエンザのワクチン接種政策も誤りだらけだ」

 1990年代までは学童にインフルエンザの集団接種をしていた。あるとき集団接種をしていた群馬県のある街と、していなかった街の間で感染リスクがあまり変わらないというリポートが発表された。

 これをきっかけに、ワクチンは効かない、副作用があるという反対運動が起こり、結局、集団接種を止めてしまう。

 そして何が起こったか。

 インフルエンザは毎年学校を中心にして流行し、高齢者の死亡が増えるという事態になったという。

 その一方で、イギリスでは数理モデルに基づく研究が行われ、子どもにワクチン接種をすれば感染者、死亡者が減るというリポートが出た。これに基づいて、2014年から集団接種をするように法律が改正された。アメリカもやはり独自に数理モデルを用いて、集団接種に動いた。

他分野でも活用の機会

 いま日本では、高齢者のワクチン接種を予防接種法における対象にしている。だがそれと同じ量のワクチンを高齢者ではなく子どもに接種すれば「倍以上も集団レベルで感染リスクが減る」ことはわかっていると西浦教授は言う。

 しかし、実際のところ、厚労省にとって予防接種政策を180度転換するのは容易ではない。

 「経験と勘」を頼りに決められているのは予防接種だけではあるまい。そこに数理モデルに基づいて一定のエビデンスを持ち込み、それによって政策が形成されれば、政策の効果が上がり、コストも安くなっていくかもしれない。

 ましてこれから日本の社会状況は大きく変化していく。人口減少がますます目立ってくる社会だ。そのなかで、インフラ整備でもそれによる経済効果の試算が実態からかけ離れることが増えてきた。試算に基づく政策というより、自分たちが整備するインフラを正当化する数字を持ってくることも多い。

 しかし日本の資産は限られている。それを上手に使うためにも、数理モデルをさまざまな分野で活用することを検討してみる価値はありそうだ。

東洋経済オンラインの関連記事

東洋経済オンライン
東洋経済オンライン
image beaconimage beaconimage beacon