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「高円寺」で再開発がなかなか進まない背景 カルチャーの街はどのようにして生まれたか

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2019/02/07 07:10 鳴海 行人
ねじめ正一氏の小説からその名がついて有名になった「高円寺純情商店街」(筆者撮影) © 東洋経済オンライン ねじめ正一氏の小説からその名がついて有名になった「高円寺純情商店街」(筆者撮影)

 東京の中でも音楽を中心にしたカルチャーの街で知られる高円寺。混沌とした街には音楽やサブカルチャー、古着の店や飲み屋街が広がり、夏には阿波踊りが行われる。市民の活気があふれるイメージが強く、市民運動やパレードをはじめとしたイベントも多く行われている。

 そんなどことなく「変わった」街、「高円寺」。歴史を振り返りつつ、この先どうなっていくのかを追ってみた。

方向によって特徴が変わる駅周辺

 高円寺駅は1964年に高架化されており、駅から北側にも南側にも抜けることができる。

 駅周辺には10の商店街があり、北側には、詩人で直木賞作家のねじめ正一氏の小説の舞台にもなった「高円寺純情商店街」(高円寺銀座商店会)や「庚申(こうしん)通り商店街」がある。

 南側にはアーケードが特徴的な「パル商店街」や「ルック商店街」(新高円寺通商店会)、西側には「高円寺中通り商店街」や中央線高架下の「高円寺ストリート」がある。

 3方向それぞれに特色がある。北は八百屋やスーパー、電気店といった生活用品の店が多く立ち並び、南はスナックや古着屋が交じり合うエリアがあり、アーケード商店街にはさまざまな業態のチェーン店が目立つ。

 特徴的なのは西で、高架下や高架横は居酒屋をはじめとする飲食店が多いが、奥に入ればレディー・ガガ氏のスタイリストが来たという「キタコレビル」、活動家の松本哉氏が経営するリサイクルショップ「素人の乱」をはじめ、ゲストハウス、古本屋、トークライブハウスといった個性的な店が立ち並ぶ。

 このような高円寺の街並みはいつ頃生まれたのだろうか。高円寺が栄え始めたのは、大正時代に青梅街道沿いの路面電車(現在の地下鉄丸ノ内線)と国鉄中央線高円寺駅が相次いで開業したことがきっかけだ。それまでは東京郊外の農村で、江戸時代に開かれた寺院「高円寺」から一帯を「高円寺」地区として扱うようになっていった。

 1922(大正11)年に国鉄中央線高円寺駅が開業し、その8カ月後に住宅地化を進める目的で高円寺耕地整理組合が設立され、桃園川の流路を直線化するなど宅地化に向けた取り組みが行われ始めた。

 しかし、組合設立のわずか半年後、関東大震災が東京を襲った。幸いにして被害は大きくなかったが、高円寺の姿を変貌させるきっかけとなる。

人口が急増した

 関東大震災をきっかけに郊外への人口転出の受け皿として、大きく人口を増やしたのだ。増加率は近隣地域で最も高く、1922年に約4000人だった高円寺地区の人口は、3年後の1925年には4倍以上の約1万8000人にまで増えた。転入者の多くは東京都心へ勤める人で、東京出身者が多かったことが当時の資料からわかる。

 また、そうした転出者相手に商売をしようとする自営業者も多く移り住み、商店街が大いににぎわうことになった。1930年代には高円寺の商店街が強い集客力を持つようになる。近隣における一大商店街を形成し、1940年頃には隣駅の阿佐ヶ谷はもとより、現在では杉並区内最大の駅である荻窪よりも乗降客数が多かった。

 高円寺隆盛の歴史は、第2次世界大戦で一度途切れる。終戦間際の1945年4月の空襲によって高円寺駅周辺は大きな被害に遭い、一面焼け野原となってしまったのだ。そのため1947年には高円寺駅の南北約50haが戦災復興計画に基づく土地区画整理区域に指定され、南北を縦貫する幅18mの道路と桃園川に並行する幅15mの道路の建設、駅前広場の整備などが事業化された。

 しかし、この土地区画整理事業はなかなかうまくいかなかった。住民の間でも足並みがそろわず、また駅北側では一部有力者が自分の都合のいいように計画を作ったのではないかという嫌疑も生まれた。とりわけ駅北側では、駅前広場の整備と一部の区画整理にとどまった。南側でも道路の拡幅計画に対して反対運動もあり、商店街の内部が二分されてしまうような事態になった。

 そのため、感情的対立のある商店主ではなくその子ども世代の若手によって街を盛り上げようという動きが生まれ、1957年に高円寺「ばか踊り」が企画された。関係者の証言によると、当時、阿佐ヶ谷で行われていた七夕祭りへの対抗意識もあったという。この「ばか踊り」が現在の「東京高円寺阿波おどり」だ。

 地域の祭りとして阿波踊りが広まり始めた頃に「フォーク・ロック文化」がやってきた。フォーク・ロック文化は阿波踊りと直接関係はなく、まったく別の流れとして高円寺で花開く。フォークは全国的にもブームとなっていたが、吉田拓郎氏や南こうせつ氏が高円寺近辺に移り住み、特に吉田氏が作った楽曲「高円寺」によって、高円寺は音楽を志す者にとって有名な街になった。

 また、1968年にオープンした喫茶店「ムーヴィン」(1975年頃閉店)の存在も欠かせないだろう。山下達郎がデビューするきっかけの1つとなった店だ。当時は珍しいロックをかける喫茶店で、いち早く入荷した新譜を聴けることで知られていたという。こうしてフォーク・ロック文化の地として「高円寺」は有名となり、1970年代後半から1980年代にかけてはバンドブームもあってライブハウスやスタジオも生まれた。

音楽ブームの後に古着屋

 そんな1970~1980年代の音楽ブームの後に高円寺にやってきたのは古着屋だった。古着屋は、駅の南側に集中して立地するという特性がある。南側の歓楽街に交じり合う古着屋の存在は先に述べたが、これには地域にあったスナックなどが影響している。

 高円寺では中央線の高架化と前後して1960年代前半に飲食店が急増、大型のキャバレーもできて歓楽街化が進んだ。

 その後バブル景気により風俗店は増加するも、景気後退に合わせて減少。そして、元々小さなスナックだった空き店舗に、古着屋がテナントとして入った。

 その理由としては店舗内部のレイアウトの自由度が高かったことや、賃料の安さが大きかった。こうした事情もあって、1995年頃には古着屋が急増した。2000年代の一時期には200店舗を数えたという。現在は半数あるいはそれ以下にまで数を減らしているが、街での存在感はとても大きい。

 それぞれ異なった背景事情から生まれた高円寺でのフォーク・ロック文化、古着屋の集積。こうしたものは街の混沌さとは切っても切れない関係にある。しかし、それを脱して現代的な街にしようという動きも地域内にはあった。

 そこで生じたのが再開発問題である。戦災復興計画によって計画された事業は1970年頃まで区画整理と道路整備という形で行われた。しかし反対運動もあったため、先述の通り、南口が中心に行われた。

 北口の区画整理計画は1982年に東京都から市街地再開発の提案で「復活」する。これに対して住民の一部が猛反発、約15年にもわたり反対運動が行われた。結果として1998年には再開発計画は凍結された。

 しかし、今もなお道路建設計画が地区内に残っている。この道路建設計画は杉並区高円寺南2丁目から練馬区中村北1丁目の4.5kmを結ぶ都市計画道路「補助227号線」の一部区間のものだ。2016年3月に公表された「東京における都市計画道路の整備方針(第4次事業化計画)」で杉並区が施行する「優先整備路線」として浮上した。

 実際、2013年には早稲田通りを挟んで北側の中野区大和町内で道路拡幅事業が都市計画決定され、現在工事が始まっている。そのため高円寺に関わる人の間で不安が増大し、デモや計画に反対するイベントが行われた。

 高円寺は防災面から見ると弱い所がある。2018年3月に東京都が公表した「地震に関する地域危険度測定調査(第8回)」を見ると、「補助227号線」の建設計画がある高円寺北3丁目が都内の総合危険度ランキング64位にランクインしており、杉並区内ではワースト2位だ(調査は東京都内5177町丁目が対象)。特に火災危険度が高い。

再開発を望む声もある

 また、「補助227号線」の計画エリアである「高円寺純情商店街」や「庚申(こうしん)通り」はチェーン店化や店主の高齢化が進んだ店舗が多く、古着屋や音楽関係の店をはじめとした個性の強い店は多くない。そのため道路建設を行い、防災機能や街の道路ネットワークを拡充し、街のリニューアルを進めようという考え方があることも理解できる。実際に地域内には再開発による街の現代化を望む声もある。

 ただ、2017年4月に杉並区から発表された2025年度までの道路整備の方針「すぎなみの道づくり」ではこの「補助227号線」は2025年度までの着工は目指さず、住民の間で雰囲気醸成が行われてから計画・建設するとしている。

 かつてフォーク・ロック文化や古着屋集積など「若者の街」であった高円寺。しかし、今は周辺の街との差異はかなり減ってきた。地域に住む20代も今や15%ほどであり、区内平均よりは多いものの、突出しているわけではない。

 今や高円寺は「そこに暮らし、そこで生業を作る」場所から「わざわざ行く」場所へと変わった。周辺には中野駅周辺のように再開発や区画整理により開放的な雰囲気がある一方で、独特の雰囲気の店が並ぶ街の人気が上昇している。こうした周辺環境も見ると、高円寺の街の存在感を保っていくのは並大抵のことではない。

 もし高円寺がこれまでどおり、「若者の街」として看板を保っていくのであれば、今まで持っていたアドバンテージやコンテンツを生かし、地域に住む若者を増やすこと、若者が店を出しやすい環境を整えていくことが必要だろう。

 高円寺が今後も存在感を保てるか、そして新しい若者文化の街としてどんな進化を遂げるか。駅周辺エリアで街の雰囲気づくりや方向性づくりをしっかり行っていくことが必要だろう。高円寺はどう変わっていくのだろうか。

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