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30歳で楽天を辞めた元副社長が私財を投じて学校を作る理由

ITmedia ビジネスONLiNE のロゴ ITmedia ビジネスONLiNE 2018/10/12 08:20

 東京駅から北陸新幹線に乗り1時間13分。さらに軽井沢駅からクルマで約20分走った先。生い茂る木々に囲まれた木造の小屋の中に、ストーブの脇でPCを開き、忙しなくキーを叩いている男がいた。かつて三木谷浩史とともに楽天を創業し、副社長を務めた本城慎之介、46歳である。

 2002年11月に楽天副社長を退社して以降、教育畑に転身。05年には当時全国最年少の32歳で公立の横浜市立東山田中学校校長に就いた。早すぎる副社長退任から約16年。本城はこの森の中で、幼稚園・小・中学校の混在校である「軽井沢風越学園」の開校を目指し、日夜、準備に追われている。

 「ここまで一直線では全然なくて、本当に迷いながらというか、何をしていいか分からないという状態が結構、長く続きまして。東京から軽井沢に越して来て、幼稚園で働いたり、野外での小学生向けの活動をしたりする中で、幼小中で子どもたちが混ざり合いながら学び、遊んでいる姿が見えてきて、ようやく風越学園にたどり着いたというのが正直なところです」

 16年ぶりに会った本城はかつての楽天時代と変わらぬ穏やかな物腰で、開口一番、こう話した。行政の許認可手続きがうまく進めば、オリンピックイヤーの20年、本城の16年の集大成と言うべき風越学園が軽井沢の森に開校する。

 計画している予算数十億円のほとんどは本城が準備する。楽天の創業者利得で巨額の私財を築いた男は、なぜ若くして教育の道へ転身したのか。なぜ私財の大半を学校運営に投じるのか。なぜ軽井沢で幼小中一貫校なのか――。

 本城という男が成し遂げようとしていることの本質を探るべく、軽井沢の森の中で3時間のロングインタビューに臨んだ。

●マネジメントや人材育成「下手くそだった」

 本城は、函館ラ・サール高等学校卒業後、1991年、慶應義塾大学総合政策学部に入学。湘南藤沢キャンパス(SFC)の2期生となり、SFC独自の学園祭である「秋祭」の創設などに携わる。が、このころは特に教育への興味関心はなく、SFCの大学院に進んだ後、就職活動を通じて、当時、日本興業銀行を辞めて間もない三木谷と出会うことでベンチャーの道へと進んでいく。

 「世の中を変えていこう」。そう三木谷から誘われ、1996年、楽天の前身であるエム・ディー・エムの創業時から参画。SFC出身ということもあり、ネットワークやシステム開発を担当した本城は、「楽天市場」のプラットフォーム構築で八面六臂の活躍を見せ、99年、取締役副社長となる。

 その後の楽天のサクセスストーリーは周知のところ。転機が訪れたのは、2002年、ちょうど本城が30歳の誕生日を迎える前だった。

 最初は三木谷と2人だけだった会社は、2000年にジャスダックへ上場してからさらに勢いを増し、02年度には売上高が100億円、連結子会社が17社という規模に成長していた。気付けば、連結で500人という組織を束ねるナンバー2になっていた本城は、ある戸惑いを抱いていたと吐露する。

 「楽天での僕の役割は何だろうと考えた時に、やっぱり次の世代の経営者や、楽天の内外にかかわらず活躍できる人材を育成することだと思いました。でも、僕はそれをうまくやれなかった。マネジメントとか人材育成とか、まったく下手くそだった。たぶん、僕に育てられたというスタッフは、そんなにいないと思います。そのくらい僕には苦手なことでした」

 ストックオプションなどで莫大な創業者利得を得ていたことも戸惑いに拍車をかけた。

 「田舎から出てきて、よく分からないまま始めたことがこういうふうに波に乗って。もちろん頑張りましたけれど、これは見合った報酬なのか、よく分からない状態だったんですよね。どう使っていけばいいんだろうとか、ちょっと不自由な感じはすごくあって、当時の僕の中では葛藤がありました」

 さらに、本城が自身に課していたリミットも目前に迫っていた。

●「三木谷さんが独立した30歳になったら僕も辞める」

 三木谷が興銀を辞め、起業したのは30歳。その時、24歳だった本城は、「僕も30歳になったら独立します」と三木谷に宣言していた。本城はその後の怒涛の日々の中でも忘れることなく、いざ30歳を目前にしたある日、「三木谷さん覚えていますか? 三木谷さんが30歳で独立しているので、僕も30歳になったら独立すると言っていたんですよ」と三木谷に念を押す。

 ところが、三木谷はこう言った。「おまえ、それは状況が違うだろう。俺は銀行でサラリーマンだった。おまえは曲がりなりにも上場企業の副社長だよ。そう簡単にはいかないよ」

 「30歳で辞めることは大事な自分自身との約束なんです」と本城は食い下がるが、三木谷も引かない。「じゃあ辞めて、何がやりたいんだよ」「宿をやってみたいです」「じゃあホテルでも旅館でも買収するか」「そういうことじゃなくて……」。

 宿では納得してくれない。では、何なら。下手くそなマネジメント。譲れない自分自身との約束。持ちすぎたお金。しばし自分と見つめ合った本城は、「教育」というキーワードにたどり着く。

 「やるなら、面白くて、難しくて、長く続けられること。あとはインパクトがあって、やりがいがあることに挑戦したかった。楽天で成し遂げられなかった、人を育てたり、人が育つ環境を整えたりすることというのは、社会に置き換えると学校だな、教育だなと。30歳から取り組むにはちょうどいいと」

 「そう思って、三木谷さんに『僕、学校を作ります』と話したら、『おお、学校か。今度、(プロサッカーチームの)ヴィッセル神戸を買うことになったけど、学校とスポーツは近いな。じゃあ神戸に行かないか』という話がポンポン出てくるんです(笑)。最終的には快く送り出してくれたんですけれどもね」

 後付けで幾らでも聞こえの良いストーリーを作ることはできるが、ありのままを素直に語るところが、本城らしい。

 かくして02年11月、本城は取締役副社長を退任し、翌月には教育事業を手掛ける準備会社として、自身の出身地である北海道音別町から名を借りた「音別」を立ち上げる。

 これが、風越学園に続く茨の道の突端である。ここから、本城は、軽々しく「学校を作る」などと考えたことは安易だったと思い知ることになる。

 「東京都江東区では学校が足りないので、私立の小学校や中学校がいけそうです。Aさんに8000万円を払えば、政治や行政への根回しも含めて丸々コンサルティングを引き受けてくれるそうです」「関東の中高一貫校が売りに出ているので、見に行きませんか」「この学校法人なら理事長になれそうですよ」……。

 そういった話が山ほど本城のもとに舞い込んだ。実際に幾つか、学校を見学したこともある。しかしながら、残りの人生を賭して、難しいことに挑戦しようとしていた本城には、あるいは、楽天でゼロから築く大変さと面白さを知っていた本城には、どの話も刺さらない。

 とはいえ、ゼロから学校法人を築くには、あまりに経験がなく、徒手空拳に近い。早くも道に迷い始めた本城。そんな折に知人から、横浜市教育委員会が公立中学校の校長を公募していることを知らされ、飛びついた。

●修行で飛びついた中学校校長と、退任後の迷走

 05年4月、本城が当時全国最年少の32歳で横浜市立東山田中学校の校長に就いたことはそれなりに知られている。だがこれは、本城にとって目的ではない。「学校作り」へと続く、修業だった。本城は当時をこう振り返る。

 「いずれは自分で学校を作りたい。その修業として、公立の教育現場で経験を積んでおくことは、大きな糧となるはずだし、絶対に損はないと思いました。実際に、僕にとってすごく大きな出来事で、本当に楽しかったし、やりがいもあったし、気付きも多かった」

 しかし、本城は定年までの任期を待たずして、「飲酒事件」を機にわずか2年で校長を退任する。校長になった年の修学旅行で、横浜市のルール違反だと知らずに夜、先生たちと酒を飲んだことが公になった。あろうことか、その翌年の修学旅行では生徒の飲酒も発覚。本城は、自分がしたことを棚に上げて生徒を指導することができず、潔く身を引いた。

 そして、それからさらに10年近くも迷走を続けることになる。

 日本を引っ張っていく、アジアを引っ張っていくエリート育成が必要だ。全寮制の中高一貫校を作ろう。いや、それは違う。6年間で歩留まり高く、コストを掛けずにどれだけの生徒を良い大学に入れられるか。その競争の構図に参画したいわけでもないし、ほかにやっている組織はたくさんある――。

 そうした理由から、本城は一時期、学校ではなく「教育寮」を作ろうとしていた。東京大学の弥生門近くの土地を取得し、開成などの中高一貫校に通う生徒を住まわせる寮を建設するプロジェクトを進行。現役東大生のサポートを得ながら、学校では教わらないことを生活の中で身に付けるというコンセプトだ。だが、これも建設着工の間際で考えが変わり、ご破算にした。

 理由はさまざまだ。学校から寮に形を変えただけで、結局はエリート教育に拘泥している自分の矛盾やゆらぎにどこかで気付いていた。心底わくわくできることなのかというとそうでもない。あるいは焦りもあったのかもしれない。

 「学校を作ると言って楽天を辞めたのに作れず、校長になって辞めて、また作ると言って、でも寮を作るとなったけれど中止して。オオカミ少年っぽくなってきたなみたいな感じで。いい加減、何か形にしていかなければ、という焦りがどこかにあったのかもしれません」

 そんな迷える本城に、光明をもたらしたのが、軽井沢への引っ越しだった。

 本城は、教育寮の建設計画と同時に、軽井沢で自宅を建築する計画も進めていた。長女が小学校に入学するのを機に、09年4月から軽井沢に越すことを決めていたからだ。

 「何か東京で子育てするのはちょっと自分の中では違うなと思っていて。軽井沢なら東京から2時間もあれば通えるし、学校が作れるような土地が多いのも魅力でした。教育寮とは別に、やっぱり全寮制の中高一貫校も作りたい、という思いも残っていたので。それで、軽井沢に引っ越しました」

 この時点で楽天を辞めてから5年超。「何か形にしていかなければ」という思いから、寮、学校含め、あらゆる選択肢を検討していた本城は、軽井沢でも学校用地の取得を目指して土地を探しはじめていた。

 ところが、軽井沢への移住が思わぬ形で本城を軌道修正させた。本城は寮だけではなくすべてのプロジェクトを手仕舞いし、幼児教育の現場でさらなる修行を積むことになるのだ。

●「森のようちえん ぴっぴ」との衝撃的な出会い

 09年4月の引っ越しを前に、本城は下の3人の子の保育園・幼稚園も探す必要があった。同年1月、人づてに「おもしろい幼稚園がある」と聞いて出向いた場所が、本城の人生を大きく変えた。園舎を持たない野外保育を実践する「森のようちえん ぴっぴ」である。

 07年4月に開園したぴっぴは、「ありのまま」「ゆったり」「ひろがる」「わかちあい」をテーマに、自然の中で自主性を重んじた教育を展開していた。本城が赴いた1月はまだ雪深い時期。その時を本城はこう振り返る。

 「10人くらいの2~3歳児が森の中でスキーウエアを着て遊んでいるんです。お昼ご飯の時間になると、そのまま外で焚き火を囲む。焚き火では、焼きおにぎりと煮込みハンバーグが作られていて、鍋から出したハンバーグをアルミホイルにくるんで食べているんですね。みんな、寒いので座っていられなくて、立って食べるんですよ」

 「ちょうど3歳になったばかりの男の子が手袋を外して、焚き火周りの岩に置くわけです。どう見てもちょっと火に近いなと思いましたが、スタッフは見て見ぬふり。案の定、手袋がぷすぷす焦げた。男の子は泣いちゃうんですけれど、そのスタッフが言うわけです。『先週は燃やしちゃったんですよ』と。それは、僕にとってかなり衝撃的でした」

 失敗から得られる成長を2~3歳児から教えていること。安心して失敗できる環境を整えているスタッフ。保護者とスタッフとの信頼関係――。この手袋事件で頭を殴られたような気がした本城は、帰り道、こう思い至ったという。

 「僕が今まで目指していた中高一貫校やエリート教育というのは、小さな成功を積み重ねるということを大事にしていた。でも、用意された成功や整った成功よりも、ぐちゃぐちゃでもいいから自ら進んでチャレンジした失敗を積み重ねていった方が、自信が育まれるのではないか」

 「僕がやろうとしていたことは、例えばリンゴの木だったら、6年間でなるべく甘くて同じ色の同じ大きさの果実が同じタイミングでなるようにする作業じゃないか。それよりも、どんな雨が降ろうと風が吹こうと、広く深く根が張った木に、なるべくいろんな形でいろんな味の実がなるようにしてあげたい。そっち側の現場に、一度、身を置いてみたい」

 自分の子どもたちではなく、本城自身がスタッフとして、ぴっぴに入ることにした。

 「仕事をさせてください」と申し込んだ本城。「お子さん4人もいらっしゃるのに、十分な給料も払えませんし、無理です」と一度は断られたが、経済的には困っていないと素性を明かし、09年4月から週2~3回、ぴっぴで働き始めた。子どもたちが安全に遊んだり、食事をしたりできるよう準備をして見守り、時にはおむつ替えもした。

 11年ごろからは週5日のフルタイム勤務となり、運営にもどっぷりと関わるようになっていった。本城はそんな生活を、15年末ごろまで、実に7年も続けた。

本城慎之介氏。三木谷浩史氏らとともに楽天の創業に携わる。30歳で楽天を退社後、教育の世界に身を投じる。現在は「軽井沢風越学園」の開校を目指している © ITmedia ビジネスオンライン 本城慎之介氏。三木谷浩史氏らとともに楽天の創業に携わる。30歳で楽天を退社後、教育の世界に身を投じる。現在は「軽井沢風越学園」の開校を目指している

 「ぴっぴの経験がなかったら、確実に今の風越学園の動きにはつながらなかった」。そう言うように、ここでの経験が16年にも及ぶ本城の挑戦のゴールを照らしたのである。

●「学校作りに真剣に取り組まないで死ぬのは嫌」

 しばらく停滞していた学校作りが再び動き出したきっかけは、16年1月の「コーチング」。本城は楽天時代から月1回ほど継続していたコンサルティング会社のコーチングサービスで、何を相談することもなく、電話の向こうのコーチに30分ほど、ひたすらに思いや感情をぶつけていた。その1月のコーチングでは、年初ということもあり、少し長期的なビジョンについて話したいなと考えていた時のことだ。

 「ふと思ったんですよね。このまま学校を作らずに死ぬのは嫌だなと。作りたい、ということではなくて、学校作りに真剣に取り組まないで人生が終わっちゃうのが嫌だと思った。じゃあ、どんな学校を作りたいのか考えた時に、幼児期に学んだり出会ったりしたことが、小学校、中学校というふうにつながっていけることの豊かさや大事さをベースに、学校を作りたいと思ったんです」

 本城の中にくすぶっていたあらゆる思いが噴き出した。ぴっぴで得た着想を発展させ、幼小中の12年を同じ場所で過ごす一貫校を作り、仕切りを極限まで減らした校舎や森の中で、お兄さんお姉さんと幼児が自主的に学び、遊べるような環境を整える。だいぶ曲折があったが、現場での丁稚奉公があったからこそ、素直に受け入れられる、そして、わくわくできる構想にたどり着いた。

 仲間を集め、軽井沢の森の中に約7.3ヘクタール(2.2万坪)の用地を獲得。校舎などの設計を済ませ、20年4月の開校を目指し、今年6月下旬には長野県に学校法人の設立認可を申請した。

 もともと、インパクトのあることを成し遂げたくて楽天を飛び出した本城。今の構想には、あらゆる革新的な要素が詰まっている。夢は、風越流の教育を全国へ拡散させることだ。次回の後編で、その詳細をお届けする。(文中敬称略)

(井上理)

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