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「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2016/12/13 山岸 良二
赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳寺(写真:シャネル / PIXTA) © 東洋経済オンライン 赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳寺(写真:シャネル / PIXTA)  

 元禄15年(1702年)12月14日深夜、江戸郊外の本所松坂町にある武家屋敷が襲撃され、その主である幕府旗本高家(こうけ)、吉良義央(きら・よしなか[または「よしひさ」とも])が、旧赤穂藩の義士47人(46人という説も)によって殺害された。世に言う「赤穂事件」である。

 この事件は、前年の3月、江戸城中で起きた「ひとつの傷害事件」によって主家を取り潰された旧赤穂藩士による、いわば「復讐劇」である。

 事件後、彼らの行為は「美談」として語られ、『忠臣蔵』の名で芝居の題材に取り上げられると、空前の大ヒットを記録した。その人気はいまなお衰えない。

 しかし、そんな私たちの知る『忠臣蔵』は、実際には「美談ではなかった」とする見方も指摘されている。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「忠臣蔵の真実」を解説する。

本当に『忠臣蔵』は実話なの?

 毎年、12月半ばを迎えると、日本ではなぜか『忠臣蔵』の新旧映画・ドラマが放映され、東京・高輪の泉岳寺では「義士祭」も行われます。

 これは、元禄15(1702)年12月14日(旧暦)が、いわゆる「赤穂四十七士による吉良邸討ち入りの日」だったことと関連しています。いまや『忠臣蔵』は私たちにとって年末の風物詩でもあるわけです。

 『忠臣蔵』では、清廉潔白の赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、老獪な幕府旗本高家「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」にたばかられ、ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷ざたを起こし、その罪によって切腹のうえ藩は取り潰しとなります。

 しかし、吉良のほうは無罪放免。刃傷ざたにもかかわらず、片方が一切、罪に問われませんでした。これに怒った赤穂義士たちが「亡き主君の無念」を晴らすべく、屈辱の日々を耐え忍び、ついに悲願だった吉良の首を討ち取ります。

 この爽快な「勧善懲悪」のストーリーは、時代を超えて私たちに感動を与えてくれますが、『忠臣蔵』はあくまで「赤穂事件をモデルとした物語」です。実際の出来事をすべて忠実に再現したものではありません。

 それどころか、「赤穂事件」を詳しく見てみると、これまで私たちが描いていた「赤穂義士」の討ち入りの目的が、じつは「あだ討ち」ばかりではなかった可能性が垣間見られるのです。

 いったい彼らの「本当の目的」は何だったのか、今回は「赤穂事件」をテーマに、「忠臣蔵の真実」について解説します。

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

『忠臣蔵』のモデルとなった「赤穂事件」

 Q1. そもそも「赤穂事件」って何ですか?

 元禄15年(1702年)12月14日に起きた、「大石良雄」ら旧赤穂藩士47人による幕府旗本「吉良義央(きら・よしなか)」への襲撃事件です。

 Q2. おさらいですが、なぜ旧赤穂藩士は吉良を襲撃したのですか?

 きっかけは、前年の3月に起きた江戸城内での刃傷事件です。

 赤穂藩主「浅野長矩(あさの・ながのり)」が幕府旗本で幕府の行事儀礼を取り仕切る高家の「吉良義央」を短刀で切りつけ、その罪によって即日切腹のうえお家取り潰しとなります。しかし、「喧嘩両成敗」が当然だった当時において、どういうわけか一方の吉良は無罪でした。

 これに怒った旧赤穂藩士たちが「主君に代わり吉良を討とう」と襲撃を計画、実行したのです。

 Q3.実際の襲撃の様子は?

 前日の大雪が残る中、大石ら47人は深夜の午前3時半ごろ、大名火消の装束に擬装して、「火事だ」と叫びながら吉良の屋敷に突入しました。

 周到な計画に基づいてのぞんだため、まったくの無防備だった吉良側はほとんど抵抗できず、短時間の格闘の末、吉良義央は身を潜めていたところを討ち取られました。

 Q4.襲撃による死傷者は?

 この事件で、吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷、一方、大石側は2人が負傷したのみで死者はゼロでした。

 Q5. 浅野長矩は、吉良義央に対して「どんな恨み」があった?

 詳しい理由は、現在なお不明です。

 2人は当時、将軍へのあいさつに訪れた朝廷からの使者の勅使接待役を命じられており、その準備期間に何らかのトラブルが生じていたようです。

 ただ、詳しい取り調べもないまま、浅野長矩はその日のうちに切腹、吉良義央も「身に覚えがない」と黙秘したため、真相はいまだ闇の中です。

 Q6. では、討ち入りが行われた「本当の理由」は?

 少なくとも、前述の「主君の無念を晴らす」ためではないでしょう。

 それらはあくまで「表向きの理由」で、じつは彼らの「本当の狙い」はまったく別にあったと考えられます。

 大石ら47人の旧赤穂藩士は、「義士」を装い、主君の「あだ討ちに見せかけた芝居」を演じました。そして、これを大々的に世間へアピールすることで、自分たちの「より高待遇での再就職」をもくろんだ節があるのです。

赤穂浪士の目的は「再就職」?

 Q7.えっ? 赤穂浪士の仇討ちは「就職活動」だったのですか?

 もちろん、現在の境遇に自分たちを追いやった吉良義央への恨みもあったでしょう。

 しかし、彼らと浅野長矩が『忠臣蔵』で描かれるような深い絆で結ばれていたことを示す証拠はどこにもありません。そもそも、「主君のあだ」という意識そのものが、あまり一般的ではありませんでした。

 むしろ、そのときの彼らの現実的心境は「浪人生活への恐怖」です。「なんとか再び仕官する道を見つけて、現状を脱却すること」こそが最大の関心事でした。

 そのための秘策こそが「あだ討ち」だったのです。

 Q8. 「あだ討ちの成功」が、なぜ「就活」になるのですか?

 あだ討ちに成功すると、「世間の大きな話題」になります。しかも、当時このような行いは公的に認められた「権利」でもあり、殺人罪にはなりませんでした。

 実際、大石らは事件後、一貫して自分たちの行動を「あだ討ち」であると主張しつづけました。

 吉良邸討ち入りの後、義士の一行は吉良家と深い姻戚関係にあった上杉家からの報復の恐れもある中、本所から浅野長矩の墓のある泉岳寺までの9キロもの道のりを堂々とパレードします。それも、世間に向けて「あだ討ち」を印象づけるための「意図的演出」だったとすれば納得がいきます。

 Q9. 赤穂事件以外にも「就活的なあだ討ち」はあったのですか?

 ありました。江戸時代、あだ討ちは100件を超えるほどの事例があり、成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたでした。

 「赤穂事件」以前にも同じようなあだ討ちが行なわれていて、仕官に成功した例もあります。

 Q10.具体的に聞かせてください。

 たとえば赤穂事件の約30年前に宇都宮藩で起きた「浄瑠璃坂のあだ討ち」では、「忠臣蔵」の事件とほぼ同じような経過で早朝に徒党を組んで押し入り、この者たちはいったんは流罪になりますが、のちに赦されてほとんどが再仕官に成功しています。

 また、赤穂義士による討ち入りの前年にあった「亀山のあだ討ち」では、あだ討ちに成功した兄弟の仕官先を探そうと、江戸の北町奉行が奔走したこともありました。

 大石らはこれらの事例を「模倣」して、自分たちも「より良い待遇での再仕官」を実現しようと、最もアピール度の高い「あだ討ち」を選んだと考えられるのです。

 Q11. では、なぜ赤穂義士は切腹を命じられたのですか?

 理由は簡単で、彼らの行為が「あだ討ち」と認められなかったからです。

 事件後、幕府では事後処理の対応に追われ、彼らの処分が検討されました。当初は、幕府上層部においても彼らを好意的に見る人も少なからずいました。

 しかし、それまでの数あるあだ討ちは「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半で、今回のような「主君のため」というのは初めてのケースでした。

 そのため、「あだ討ちとして認められるか」が議論され、結論に至らぬまま約2カ月半が過ぎた後、最終的には将軍様のおひざ元である江戸城下を「徒党」を組んで押し込んだという「罪」で、大石らは切腹となったのです。

「本当の歴史」には「本当の人間ドラマ」がある

 浅野長矩と吉良義央の間にどのようなトラブルがあったのか、その内容はいまなお不明です。

 物語では「浅野家の悲劇」ばかりが強調されますが、刃傷事件のあと無罪放免となった吉良家にも、ほどなく暗雲が忍び寄ることになります。吉良は被害者ながら、相手を切腹のうえ改易に追いやった「負のイメージ」がつきまとい、幕府も対外的なイメージを考慮して彼を免職せざるを得ませんでした。

 呉服橋(現在の東京駅そば)の一等地にあった屋敷は召し上げられ、当時は江戸郊外の新興地、本所松坂町(現在の両国駅の南)へ移り住むことになります。

 傷心の中、隠居を幕府に願い出た彼は、真相はどうであれ十分な社会的制裁を受けていたはずでしたが、その矢先の赤穂義士による突然の討ち入りで、あわただしくその62年の生涯を閉じました。

 近年、彼の領地があった三河吉良(愛知県西尾市)では、「名君、吉良義央」としての名誉回復が叫ばれています。

 この「忠臣蔵」のように、ドラマや小説で知る歴史は、「現代人が見て楽しい物語」に脚色されていることがしばしばです。

 「歴史に興味をもつ」ためには、ドラマや小説もいいきっかけにはなりますが、それを史実と鵜呑みにして人前で話すと、「恥」をかくこともあります。それに、生身の人間が織りなす「本当のドラマ」は、わかりやすい物語とは違う「史実の奥深さ」を実感させてくれるものです。

 ドラマや小説で日本史に興味を持つのはよいことです。しかし、そこで終わりにせずに、歴史書で「本当の日本史」を学び直すことで、「歴史の奥深さ」と「本当の人間ドラマ」を味わってください。

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