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日本の「英語対策」は危うい方へ向かっている 翻訳は単なる単語の置き換えではない

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2017/06/01 真木 鳩陸
外国人に喜ばれるおもてなしに必要なのは完璧な語学力ではない(撮影:今井 康一) © 東洋経済オンライン 外国人に喜ばれるおもてなしに必要なのは完璧な語学力ではない(撮影:今井 康一)

 2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピック。この成功には世界各国からやってくるアスリートや関係者、観光客のニーズに対応できる程度の語学力が不可欠だが、日本においては語学力の改善が必要なことはこれまでに何度も指摘されている。

 実際、残念ながら日本人の語学力、特に英語力は先進国一と言えるほど低い。

 2015年の報告書によると、日本のTOEICの平均スコアは46カ国中39位。日本の平均スコアは513点と、38位にランクインした香港 よりなんと16点も低い。経済大国かつ、アジアの文化的リーダーと言えるほどの国なのに、TOEICのスコアは、台湾(530点、37位)、中国(632点、24位)、韓国(670点、18位)から大きく後れをとっているのである。

 日本が開催を勝ち取るうえでの最大のセールスポイントは、日本特有のホスピタリティ、そうおもてなしだった。2020年にそのセールスポイントを存分にアピールするには、訪日外国人とのコミュニケーションが不可欠になる。

日本人が英語を苦手とする根本理由

 日本人が英語を苦手とする理由はいくつかある。1つは、英語を話す人たちとの文化的、歴史的つながりがなかったことだ。日本語は日本語族 (ジャポニック語族)の言語として分類され、その書記体系に関しては、中国語を大いに借用してきた。つまり、日本語は基本的には、英語を含むゲルマン系の言語とは、言語的・歴史的つながりをまったく持っていない。

 日本や近隣国で第1言語として英語を話す人は極めて少なく、また、異なる文化間で絶えず交流があるヨーロッパなどと違い、日本は文化的接触の観点からは比較的孤立している。言語と文化は密接に関連しているため、文化的文脈やネイティブ話者が少ない日本では、英語は基本的にビジネスや外交のツールとしてしか使われてきていないのである。

 日本における英語学習法も、実は英語を学ぶうえでの障壁になっていると感じる。多くの教育者は、数学を教えるのと同じようなアプローチで英語を教えている。つまり、単純に文法や単語、リスニングといったそれぞれのスキルを向上させることによって、英語力を向上させようと考えているわけだが、実際には、言語はその言葉が話されている地域の文化や歴史と密接に絡み合っている。文化的文脈がなければ、言語は無機質なものとなり、心がないものとなってしまう。

 このことは、通訳や翻訳の世界にも言える。日本人の多くは、日本語から英語への通訳や翻訳を、単なる単語や文章の他言語への「置き換え」とみなす傾向がとても強い。

 たとえば、「電車に注意」を「please be careful of the train」と訳してしまう地下鉄の警告文は、文字通りの、単語対単語の翻訳としては間違いではないものの、英語を話すネイティブから見ると馬鹿げているし、英語を話す国では絶対に使われることのない言い回しである。直訳するより、「train approaching」などの自然な表現にするべきだろう。

 また、日本語では感情を表現するために形容詞を多用する。たとえば、食事中に「美味しい」と大きな声を出すことは日本では非常に自然なことだが、同じことを英語でやった場合、正気ではないと思われるほどおかしい。なぜなら、日本の文化的文脈の外では、これはとても奇妙に聞こえるからだ。しかし、英語の授業でこういうことを教わることはまずない。

英会話学校が抱える根本的な問題

 言語とは有機的なものであり、その文化と密接に絡んだ構造になっている。それぞれの言語は、文字や単語などの表面的レベルを超えるアイデアを概念化する要素を含んでいるのである。

 英会話は、表面的側面に過度に重点を置く、外国語習得の最たる例だろう。英会話学校は、英語力を身につけるうえでの効果は極めて限られているにもかかわらず、今でも日本のあちこちにある。

 こうした学校の最大の目的は利益を上げることであり、生徒の英語力を上げることにはない。実際、多くの学校は教える資格を持っていない(しかし安く雇用できる)外国人スタッフを「教師」として採用している。生徒の多くも、習った英語を使うのはせいぜい海外旅行くらいだ。

 日本が文化・外交的に孤立してきたことは、日本人独特のものの考え方、ひいては、英語に対する考え方にも影響している。日本人には、家族・友人対他人、日本人対外国人など、「ウチ」と「ソト」の概念が強く染み付いている。

 これを英語に置き換えて考えると、日本語は「ウチ」、英語は「ソト」という位置付けになり、後者は日本語に匹敵するような、本格的な有機的な言語ではなく、単に目的を果たすためのスキルと考えられてしまうわけである。これが、英会話に代表される、日本における英語教育が抱える最大の問題だろう。

 英語はソトの言語である、という発想は和製英語に表れている。これは、外国語の借用語に似ているが、しばしばもとの意味が欠如している、あるいは日本語での応用に合うように縮小された用法で使用される、日本語独自の似非(えせ)借用語と言える。

チャームポイントやタレントは外国人にはわからない

 ゴールイン、マイバッグ、ペーパードライバー、チャームポイント、タレントなどは、日本語の文脈のソトのものとして理解されているが、英語を学んでいる人は、このルーツが日本語にあることすら気が付いていないかもしれない。

 こうした発想の延長線上にあるのが、日本政府や企業が掲げている、翻訳ソフトや人工知能(AI)を駆使して言語の壁を乗り越えようという発想である。が、プロの翻訳家で通訳者の私から見ると、こうした技術には決定的な弱点がある。それどころか、こうした技術に過度に頼りすぎて、通訳や翻訳人材の育成が二の次になっていることに危機感すら感じる。

 実際、こうした技術の何が問題なのか。まずは精度が上がっているとも言われる人気の機械翻訳ソフト(machine translation=MT)を見てみよう。MTは、2言語間の言葉やフレーズを定式化した手順(算法)を使って、統計的および文例に基づいて解析するソフト。表面的には、これはいいアイデアに聞こえるが、翻訳や通訳をするうえでこのアプローチには本質的な欠点があり、これが面白いミスを招くならまだしも、ときには命にかかわる危険な間違い(医療非常時の誤訳など)を犯すこともある。

 現時点では世界に真のAIは存在せず、初期段階のテクノロジーを実用的に利用することは非常に危うい。そして、真のAI(人間の脳と等しい性能)なしでは、MTは観光客が最寄りのトイレや店への道順を尋ねたり、フェイスブックやツイッターの投稿内容をチェックしたりするくらいにしか役に立たない。つまり、オリンピックや、プロフェッショナルレベルの舞台、業務で使える代物にはなっていないのだ。

 日本政府が期待を寄せるもう1つのソフトは、情報通信研究機構(NICT)によって開発された技術をベースにした、無料配布の翻訳アプリ(iOSとアンドロイドに対応)「VoiceTra」である。同ソフトは 31言語に対応し、優れた音声認識テクノロジーを搭載していると謳うほか、ユーザーが誤訳やエラーを報告できる機能を完備している。が、実際の性能はMTと大きく変わらない。

 「this translation isn't remotely correct」という簡単なフレーズを例に挙げてみよう。このフレーズの正しい翻訳は「この翻訳はまったく合ってない」であるが、VoiceTraによる翻訳は「この翻訳は遠隔操作で間違いありません(this translation is definitely being remotely operated)」という非常識な誤訳だった。

翻訳が間違っていてもユーザーが気が付かない

 残念なことに、MTやVoiceTraは、1カ国語しか話さないユーザーに向けて販売されていることが多く、ユーザーが、翻訳が正しいのかどうかを判断するのは困難で、ほとんどの場合、正しいものとして受け入れてしまう。このため、ソフトを作っている会社が適切な品質管理や改善を行うのも難しい。

 私たちが日常的に使っているウェブやアプリの辞書の多くも同様の問題を抱えている。「駅はどこですか?」というような簡単なフレーズであれば、間違った、あるいは、質の低い翻訳でも意味を理解することは可能かもしれない。が、それ以上の高度な業務をこなすことはできないだろう。

 こうした中、日本政府や企業がやるべきことは、英語人材の育成に力を入れることだ。長期的に見れば、低価値なソフトの開発に大金を費やすより、よっぽど将来の国益につながる。

 まさに「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」ということなのである(ちなみに、VoiceTraはこの有名なことわざを「男の人は魚を食べさせて1日に食べさせて魚を教えてくれる人は一生」という理解不能な文章に訳した)。

 指さし会話シートやMT、翻訳アプリなどは、言語における理解の溝を埋める魅力的な応急処置に見えるかもしれないが、実際にはこうした技術開発に力を入れることは、資金、そして労力をかけずに言葉の壁を乗り越えようという手抜き策に過ぎないのである。

 必要なのはその場しのぎの英語力ではなく、2020年以降もこの国の発展に役立つような英語(あるいは中国語やスペイン語)なのである。それが前提になければ、オリンピック期間中の日本における対人的なやり取りは冷たく、心を欠いたおもてなしとなるだろう。

表面的な英語教育の見直しを

 こんな場面を想像してみてほしい。大会の日本人スタッフと外国人観光客が静かにスマホ画面を見ながら、あるいは、紙切れに書いた言葉を指さしながら、お互い出会ったことなども気にせずに、次の場所に向かうためだけにやり取りしている場面を。

 一方、こんな場面はどうだろうか。日本人スタッフが完璧な英語でなくても、観光客に礼儀正しく、相手に対する関心を示しながら、ときには、ちょっと脱線した会話をはさみながら、直接会話を交わしている。この場面こそ、日本政府や企業があと3年で達成すると約束したシナリオである。

 日本がこの目標を達成するには、翻訳ソフトやアプリの充実や改善ではなく、英語人材の育成が必須だ。そのためには、冒頭に指摘したような、「ただ単語を置き換えるだけ」の表面的な英語教育を根本から見直すことが必要である。もちろん、わずか3年でこれを成し遂げるのは無理だろう。が、今こそその先を見据えて、英語という言語とどのようにかかわるかを見直すべきなのである。

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