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江戸時代は100種以上、日本人と大根の根深き関係

JBpress のロゴ JBpress 2018/11/09 06:00 漆原 次郎
大根の煮物。ほかに漬物、おろし、サラダなど、料理の種類も多様。 © Japan Business Press Co., Ltd. 提供 大根の煮物。ほかに漬物、おろし、サラダなど、料理の種類も多様。

 立冬を過ぎて寒さが増すと「大根」の出番が多くなる。おでんでの存在感はもちろん、ブリ、イカ、牛肉などとの相性もよく、煮物全般に大活躍する。頬張れば、柔らかい歯ざわりのとともに、熱い出汁がしみ出してくる。

 大根が主役にもなるこの季節、あらためて日本における大根の歩みを追ってみたい。いまは、根の上部が緑色を帯びた「青首大根」が私たちの抱く大根像かもしれない。だが、各地にはゆかりの地名などを冠した大根が多様に存在してきた。

 今回はそうした「大根の多様性」をテーマに歴史と現代科学を見つめてみたい。前篇では、日本の大根の歴史を追う中で、大根の多様性がどのように生まれたのかを探ってみる。そこには、大根という「大きく重たい作物」故の理由も見えてくる。後篇では、先端科学の視点から追ってみたい。2010年代に「ダイコンゲノム」が解読され、遺伝子レベルで大根の多様性の解明が進んでいるという。研究者に話を聞くことにする。

日本に古くからの歴史あり

 日本の大根は大陸から伝わってきたとされる。大根の種は腐りやすいため、化石として遺りにくく「何年前の遺跡から発掘」といった成果は上がってこない。ただし、土中の花粉には大根の属するアブラナ科のものが多く見つかっており、稲作より前に大根は日本に広まっていたとする説もある。

 大根についての最古の記録は、712年成立の歴史書『古事記』における仁徳天皇の歌にある。

<つぎねふ山城女の木鍬持ち打ちして淤富泥(おほね) 根白の白腕(しろただむき) 枕かずけばこそ 知らずとも言わめ>

 この歌は皇后に向けて詠んだもの。「淤富泥」が大根を指す。「木の鍬で育てた大根のように白いあなたの腕を枕にしたことがなければ、知らないと言うだろう」と歌っている。昔は「大根」を身体のよい喩えに使っていたようだ。仁徳天皇が在位していたとされる4世紀、すでに木鍬で大根が育てられていたこともうかがえる。

 平安時代中期の律令を定めた『延喜式』にも大根の記述がある。当時は「蘿菔」と書いて、やはり「おおね」とよんでいた。<営蘿菔一段。種子三斗。惣単功十八人>などとある。大根の畑1段分につき18人の労力を使ったといった栽培法が記されているのだ。

「だいこん」と呼ばれるようになったのは、室町時代かそれ以前のこととされる。文明年間(1469-1487)ごろ成立した国語辞典『節用集』に「大根(だいこん)、又蘆菔(ろふ)、蘿菔(らふ)、大根(だいこん)」と見られるようになったからだ。

江戸時代、各地で「地大根」が生まれる

 江戸時代中期の1730年代、日本の大根はすでに、地域ごとに品種の多様化が進んでいたようだ。東京家政学院大学名誉教授の江原絢子氏らが、各所領において調査された産物帳などから、大根の品種を調べたところ、当時、各地で作られていた大根の品種は90種類にのぼったという。

 江戸時代、各地でどのように大根の品種が生まれたのかも、それぞれに謂われがある。3つほど見てみよう。

「守口大根」は、長さ1メートル以上にもなる細い大根で、いまは愛知県や岐阜県で漬けものや切りぼし向けに育てられている。

 だが、16世紀ごろまでは大坂・淀川にあった守口の中洲(現在の守口市外島から土居にかけて)などの寒村で育てられていた。硬いため、生で食べるよりも粕漬けにされた。元祖「守口漬」の誕生だ。

 その後1583(天正11)年、大坂城が築かれると一帯は城下町となり、大根を育てづらくなっていく。代わって美濃や岐阜で栽培されていた長大根が守口漬に使われるようになり、美濃や岐阜の大根が「守口大根」と呼ばれるようになった。近年は、愛知でも守口大根や守口漬が盛んに作られている。

現在、愛知県で収穫されている守口大根。(写真提供:愛知県農林水産部園芸農産課) © Japan Business Press Co., Ltd. 提供 現在、愛知県で収穫されている守口大根。(写真提供:愛知県農林水産部園芸農産課)
江戸時代、下練馬村に程近い石神井の地で大根が売られていた様子。斎藤長秋編『江戸名所図会 巻之四』「石神井明神祠」より。(所蔵:国立国会図書館) © Japan Business Press Co., Ltd. 提供 江戸時代、下練馬村に程近い石神井の地で大根が売られていた様子。斎藤長秋編『江戸名所図会 巻之四』「石神井明神祠」より。(所蔵:国立国会図書館)

「練馬大根」は、太く、長さも数十センチメートルほどになる大根。縁のある人物とされるのが、五代将軍の徳川綱吉(1646-1709)だ。

 若かりしころ脚気を患っていた綱吉は、下練馬村(現・東京都練馬区)で療養していた。病が癒えるころ尾張(現・愛知県)から大根の種を取り寄せて栽培させると、立派な大根ができた。帰城後も、練馬の農家である大木金兵衛に大根を作らせ、献上させた。

 綱吉はさらに東海寺の僧だった沢庵(たくあん)に貯蔵のしかたを講ぜさせた。1730(享保15)年の料理書『料理網目調味抄』には、「武州のねりま(略)二十日ばかり干して・・・」とあり、練馬大根の「沢庵漬け」が知られるようになっていたことをうかがわせる。

「聖護院大根」は、長さも直径も15センチメートルほどの丸い大根。甘みが強いのが特徴だ。

 文政年間(1818-1830)、京都の金戒光明寺に尾張の宮重大根が奉納されると、京都の農家だった田中屋喜兵衛が目をつけ、本山修験宗総本山の寺院である聖護院で栽培を始めた。短形に育った大根だけを選んで育てていった結果、丸い形の固定種になっていったとされる。

聖護院大根。 © Japan Business Press Co., Ltd. 提供 聖護院大根。

大きさや重さから考える大根の多様性

 こうして江戸時代、各地でその土地特有の大根が作られるようになった。鹿児島・桜島の巨大な「桜島大根」や、信州の辛味ある「鼠大根」なども知られる。相模・三浦では「三浦大根」の元祖も作られ始めた。江戸時代に、日本の大根の多様性が花開いたといってよいだろう。

 どうして、こうも大根は各地それぞれで根を張り、多様化していったのだろうか。これには、大根の必要性に加え、大きさや重さといった特徴が関係しているかもしれない。

 大根は、いまよりもはるかに“必要な作物”だった。江戸時代、1種類の食材に対して100種類の料理法を記した「百珍物」で大根が取り扱われたことからもうかがえるように、大根は当時の料理の多様性にも大いに貢献した。

 だが、それだけではない。農村では、ご飯に大根を混ぜて食べたり、大根汁を作って食べたりするのがまさに日常茶飯事だった。農村の人びとにとって、大根は栄養を支えてくれる主食のひとつでもあったのだ。

 一方で、大根は作物の中でも大きくて重い。いまと違って輸送手段が発達していなかった時代、漬物にして運ぶ以外では、遠くの消費地まで輸送しづらい作物だったはずだ。

 だが、都合がよいことに、大根の栽培はわりと簡単にどんな土地でもできる。自分たちの地域で自分たちが大根を作るという精神が根づいたのだろう。土壌や気候が違えば、大根の作り方も違ってくる。人びとは自分たちの土地に合った大根を作ろうと、交配や選抜を試みただろう。

 かくして、各地で独自の大根が生まれ、江戸時代の大根の多様化をもたらしたのだと考えられる。

「青首大根」大流行で多様性から均一性の時代へ

 結局、江戸時代全体で130種もの大根が栽培されたという。だが、近代に入り、市場では作物取引の自由化が進み、全国では輸送交通手段が発達していった。これらの利便性向上は、むしろ大根の多様性を低め、均一性を高めることにつながったという考え方もある。地元ならではの品種にこだわるより、生産効率の高い品種を多量に作って市場に送り込むほうが、収益は上がりやすい。

 1974年には、現代の大根のイメージを決定づける新品種が世に誕生した。「耐病総太り」がタキイ種苗から発表されたのである。耐病性、栽培性、そして食味を兼ね備えた革新的な品種で、農地や市場を席巻した。根の上部が緑色を帯びた「青首大根」の宮重大根をもとに開発されたため、「大根といえば青首大根」といった印象を人びとは強く抱くようになっていった。近年では、国内の市場に流通する大根の9割が、青首大根とされる。

青首大根。 © Japan Business Press Co., Ltd. 提供 青首大根。

 人びとの心の中では、大根の多様性は薄まってしまったかもしれない。だが、多種多様な大根の品種が日本で生み出されてきたのは事実だ。日本の大根は世界で最も変化に富んでいるとも評され、各地では地大根の復活を試みる取り組みも見られる。

 科学の視点も注がれている。ゲノムや遺伝子を調べることで、大根の多様性を追究する研究が進んでいるのだ。研究者に話を聞いてみよう。

(後篇へつづく)

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