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男はみんな「元カノの成分」でできている 43歳男性が忘れられない人を思い出すとき

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2017/07/21 燃え殻
男は昔の恋人を「忘れない」のではない。男は昔の恋人で「できている」のだ(写真 : Graphs / PIXTA) © 東洋経済オンライン 男は昔の恋人を「忘れない」のではない。男は昔の恋人で「できている」のだ(写真 : Graphs / PIXTA)

 都内のテレビ美術制作会社で働く燃え殻さんは、約9万人のフォロワーを抱える人気ツイッタラーでもあります。「140文字の文学者」とも呼ばれる燃え殻さんが挑んだ初小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』の題材となったのは、「昔の彼女」という存在でした。

 ボクは21年間、同じ会社に勤めている。もちろん、辞めたいと思ったことは何度もある。でも「辞めます」と言った時の社長の困った顔を見たくないという情けない理由で、同じ会社にずっといるような人間だ。21年間、罪も犯さず、ずる休みもほとんどせず、勤め上げた人間を人は、大人だと安易に呼んだりする。秘訣を聞きにくる人までいる。ただ「辞める」という決断力がなかった人間だとバレないように、ボクは今日も働いている。

 ボクの会社の近くには公園があって、昼になると毎日お弁当を買ってベンチに座り、iPodを起動させる。ほどなく小沢健二の『天使たちのシーン』が流れてくる。ボクはぼんやりとベンチに座りながら、この音楽を聴いていた頃の彼女を思い出したりする。

 【神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている 耳を傾けている 耳を傾けている】――小沢健二『天使たちのシーン』

自分の運命を大きく変えてくれた「あの人」

 もしも人生で小説を書くことがあるならば、もう会う事はかなわない、自分の運命を大きく変えてくれた「あの人」を書きたいと思って生きてきた。そんな日が本当に来るとは思っていなかったけれど。よく男は未練たらしいとか、元カノはずっと自分のことを好きだと思っているんじゃない? とか言われる。でも言わせてほしい。それは違うのだ。

 男は昔の恋人を「忘れない」のではない。男は昔の恋人で「できている」のだ。

 いい年して恥ずかしいのだけれど、ボクの口癖は「マジかー」だ。それは最初、彼女の口癖だった。彼女はラーメンがうますぎても、飼い猫が永眠したとメールで知っても「マジかー」と言って笑ったり、泣いたりしている子だった。ボクは彼女が嬉しくても悲しくても、棒読みで言う「マジかー」がツボだった。

 いや、あの頃、彼女が大好きだったB級ホラー映画も、星新一のショートショートも、高円寺のインドカレー屋もツボだった。彼女の行動はすべて正義だった。それは今の今まで変わらない。もう会うことのない最愛の彼女は、自分のことよりも好きになった人だった。

 彼女の実家には書庫があって、そこにはボクの知らない本が積まれるように置かれていた。ひんやりとしたその部屋で、彼女は無知なボクによく本を選んでくれた。中島らもや大槻ケンヂ、沢木耕太郎にウィリアム・バロウズ。ボクの本棚に今でも並んでいる本は、彼女から教えてもらったものばかりだ。

 ロッテリアでよく2人で夕方まで、昨日の深夜ラジオの話や今月号の『ロッキング・オン・ジャパン』の話なんかをしていた。そんな時、突然彼女はおもむろにMDウォークマンの片一方をボクの耳に突っ込んでくる。バネッサ・パラディ、ジャミロクワイ、小沢健二にフィッシュマンズ。今でもiPodに入っているそれらすべては、彼女のイヤホンの片一方から聴こえてきて初めて知ったものだった。

思わず「マジかー」と言ってしまった

 「いいね」

 彼女はいつもそんな感じで、本や音楽の感想を言っていた。正直に言うと、中島らもも大槻ケンヂもジャミロクワイも小沢健二も、ボクにはわからなかった。でも彼女の好きなものを好きになりたいと、一生懸命読みふけって、聴き込んでいたのを覚えている。

 彼女と最後になった日は、夏の終わりの暑い日だった気がする。なんでもないデートのはずだった。なんでもない会話をして、決定的じゃない言葉を交わして多少居心地は悪く、次の約束をして、それっきりになった。「今度、CDもってくるね」。彼女の最後のセリフは確かそんな感じだ。

 「小説を出しませんか?」。そう言われたのは去年のことだった。ボクはその打診をされた時、思わず「マジかー」と言ってしまった。小説のテーマはやっぱり彼女のことになった。唯一忘れられない女性。自分よりも好きになった人。今でも時おり壁にかけられた偶像のように思い出す、信仰に近い存在。

 さて、何をどう書こうかとボクはしばらくベッドに大の字になってみた。彼女がB級ホラー映画を観て爆笑している瞬間が蘇ってきた。PHSに届いた飼い猫の訃報に「マジかー」とポトポトと涙をこぼす彼女の姿を思い出した。高円寺のカレーはスパイスが効きすぎていた。星新一の本にしおり代わりに挟んであった「好きよ」というポストイットを今でも持っている。フィッシュマンズのナイトクルージングをエンドレスにかけたまま、クーラーを最強に設定した部屋で、ふたりして裸のまま眠った真夏の夜が懐かしい。

 そのままになってしまった約束ごとが次から次に頭をよぎった。チラシだけを集めに行った単館映画館、写ルンです!の粒子の粗い写真に並んで写った沖縄旅行。彼女の小指は普通の人より短かった事実。ビールは絶対、シンハービールだった。たばこは誕生日に1本だけ吸う約束。レンタルビデオで何度も借りたのはなぜだか『グーニーズ』。原宿の雑踏から逃げるように入った裏道の地面にでふたりして座っていた。あの時、彼女は何を話していたんだっけ? ボクは確かに笑っていた。

今でも救われる彼女の言葉

 会社近くの公園の、向かいのベンチではホームレスの男性がうたた寝をしている。ベビーカーを引いた若い女性が笑顔で公園を横切る。空には手で千切ったような雲が点在して、秋の気配を予感させる。「いいね」なんて言葉が、あの時の彼女のようにボクの口から漏れる。

 彼女と別れてずいぶん経った。それでもボクは東京で大して腐らず生きている。たくさんのウソを周りについて、自分にもついて生きている。1つだけ守ってきたことは、生きることを諦めなかったことだろう。

 「マジかー」以外の彼女の口癖は「大丈夫だよ、君はおもしろいもん」だった。彼女の何の根拠もないその言葉に、ボクは何度救われただろう。彼女はいつまで経っても思い出にならない人だった。思い出にならないから、できないから、ボクは今日までこのビクともしない終わらない日常からはみ出さずに歩いてこられた。そうだ、彼女から教わった本の中に、こんなフレーズがある。

 【公園でうたた寝をし、よく本を読み、好きな作家のお墓参りに行く、なるべく野菜を食べ、まだ行ったことのない暑い国へ思いをはせる。相手の言ったささいな言葉を忘れず、なるべく多くの詩を書く。今ボクのやっていることの何分の一かは、彼女と出会っていなければなかっただろう。いろいろなことを彼女との日々の中から学習したのだ。】――大槻ケンヂ著『のほほん雑記帳』

 端的にいってこの文章が、すべての文章の中でいちばん美しく愛おしいとボクは今思っている。

 彼女から教わった音楽を今でも聴いている。彼女から勧められた作家の新刊は、今でも必ず読んでいる。港区六本木にいながら暑い国のことを考えるのは、インドが好きで「仲屋むげん堂」で働いていた彼女の影響だ。そして、大槻ケンヂさんの言葉を借りれば、今ボクのやっていることの何分の一かは、彼女と出会っていなければ存在しなかっただろう。いろいろなことを彼女との日々の中から学習したんだ。

 ボクはひたすら原稿に向かった。たいしてドラマチックじゃないボクの人生も振り返れば、自分なりに尊いことに気づいた。その真ん中には彼女がいて、ボクは今日まで生きて来られた。

あなたのために書きました

 21年間働いたボクを人は大人と呼ぶ。大人と呼ばれるボクの原動力は、あの時の彼女の「君は大丈夫、おもしろいもん」だった。去年から試行錯誤を重ねた小説は6月30日に発売された。題名とは裏腹に、本当はだんだんと大人の世界に絡め取られていくボクから、彼女は離れていってしまったんだけど。

 とっくに大人になってしまったボクが「大人になれなかった」とうそぶくとき、あの頃の自分が死なずに、43歳になって公園のベンチで弁当を食う自分の中で、まだ息をしているのを感じる。だから男が昔の恋人のことを、ついこの間のことのように生々しく思い出したとしても、「それがあなたの成分なのね」と笑って(笑わなくてもいいですが)許してほしい。

 いつか彼女がたまたま本屋に寄って、この小説を手に取ってほしいと思ってボクは書いた。あなたのために書きました。そしてきっとその内容を見て、君はあの時みたいに言うと思ってしまうんだ。また棒読みで、「マジかー」って。

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