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「マイルドヤンキー」論への違和感 “再発見”する東京の視線と、大きな物語なき後のなにか

ITmedia NEWS のロゴ ITmedia NEWS 2014/05/23 14:29 ITMedia
「マイルドヤンキー」論への違和感 “再発見”する東京の視線と、大きな物語なき後のなにか: 「マイルドヤンキー」を提唱した原田曜平氏「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」(幻冬舎新書) © ITMedia 提供 「マイルドヤンキー」を提唱した原田曜平氏「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」(幻冬舎新書)

大阪で起きた「ボンタン狩り」が話題になりもする2014年、注目を集めるワードが「マイルドヤンキー」。だがこの言葉に作家の堀田純司さんは違和感を表明する。隠然たる「日本のリアル」を東京の視線が勝手に見失い、勝手に再発見した気になっているだけではないか。

●リアリティ

 このところ「マイルドヤンキー」という言葉が注目を集めているが、私はこれにどこか違和感を感じてきた。「そうした新たな社会層が台頭している」と言われるのだが、私は思うのである。「それってもしかして、日本の平常運転では?」と。

 マイルドヤンキーについて、たとえばNHKの報道番組ではこのように解説していた。

・地元志向 世界は半径5キロ

・車、酒、タバコ、パチンコが好き

・仲間を大切にする

・礼儀正しく優しい

 こうした社会層が台頭し、今や若者の間で一大勢力となっているというのだが、よく考えてみるとおかしい気がするのである。

・地元志向 世界は半径5km

──地元志向でなぜいけないのだろう。みんながみんな、東京に憧れて上京するべきなのだろうか。

・車、酒、タバコ、パチンコが好き

──これらはみな戦後日本のごく一般的な大衆娯楽のはず。ちなみに私だって車以外(免許を持っていない)どれも嗜んできた。

・仲間を大切にする 礼儀正しく優しい

──なにか問題でも?

 要するにこれは単に「ごく普通の地方在住者」を指しているだけではないのか。それとも「地方出身者は、みな上京志向で、ハイソな娯楽を楽しみ、仲間は裏切り、傍若無人な人間にならないといけない」というパラダイムでもあるのだろうか。

 いや、本当のところわからないでもない。普通の生活者と「ヤンキー」は違うということなのだろう。

 たとえば、中学高校の当時の先輩後輩関係を、大人になっても維持しているような序列意識の強さ。地元の伝統や祭り、そして仲間や家族、ジェンダーを大切にするなどの保守性。そしてなによりも、口舌の徒をどこか胡散臭いとして信用せず、昔ながらの身体的な接触に重きをおく心。すなわち「タイマン張ったらダチじゃあ!」というメンタリティ。

 こうした「ヤンキー体質」を持ち、かつ、反社会的ではない層が台頭しているというのだろう。しかし、私は思うのだ。それが今も昔も変わらず、もともと日本のリアリティなのであると。

 特殊漫画家の根本敬さんは、90年代前半に、日本人の9割はヤンキーとファンシーでできていると語っていた。故ナンシー関さんがこの言葉を再確認していたが、根本さんはこのようにも言っている。

 もっとも思い知らされたのは、自分たちや、その界隈の人々が、普段漠然としながらも信じている東京(特に港区、渋谷区、新宿区、目黒区、杉並区、品川区)の常識イコール日本の常識というのが、まったくの幻想だということ。ウォーターフロントなんてフィクションだ。幻だ。妄想だ。トレンドもファッションもまったく関係のないところで生きている日本人のほうが、圧倒的にマジョリティ(多数派)なわけ。(「人生解毒波止場」1995年・洋泉社、太字原文ママ)

 ちなみに根本さんはこのことを、上野の花見のどんちゃん騒ぎを目撃して、思い知らされたのだそうだ。

 だが、だからといってこうした風土を批判していたわけではなかった。むしろトレンドやファッションを追いかけ、どんどんきれいごとになっていく世の流れに嘘くささを感じ、そうしたきれいごとの世界観が否定する日本の伝統的な土俗の方にこそ、圧倒的なリアルを感じていたのである(※注1)。

 私にはその感覚がよくわかる。そしてそうした事情は、21世紀の今でも実はほとんど変わっていないと思う。

 私は南部大阪の出身だが、先日、20数年ぶりに中学時代の同級生と会った。その時に聴いたのだが、もはや40歳を越えたごく普通のサラリーマンの彼の元には、今でも地元のLINEのグループから「あいつシバくから集まれ」といったメッセージが届くという。「東京勤務なので行けません」と返信するハメになるそうだが、「マイルドヤンキー論」というのはこうした日本のリアルを勝手に見失い、勝手に発見した気分になっているだけではないかと感じるのだ(※注2)。

 「クール・ジャパン」などとは言うが、この言葉がどこか胡散臭いのは、こうした日本の9割を占めるリアルに目を向けていないからではないか。

※注1)ヤンキー+ロック、すなわり「ヤンクロック」を提唱していた、氣志團の綾小路翔さんも、きっと根本さんと同じ感覚でいたことだろう。

※注2)ちなみにその「シバく理由」は中学時代に自分の彼女に声をかけたとか、そんな感じの因縁だったという。まるでリアル「莫逆ファミーリア」だ。正直、私は「故郷を出てよかった」と思ったものだった。私にはダニー・ボイル監督の「トレインスポッティング」の主人公の気持ちがよくわかる。

●ヤンキー文化の「市場」、オタク文化に匹敵

 オタク文化ばかりが強調されがちな日本のコンテンツ産業であるが、実は「ヤンキー文化」もオタク文化に勝るとも劣らない規模を誇ってきた。

 この分野にも独自の美学や様式がある。美術批評家の暮沢剛巳さんはこのヤンキー文化について、著書「キャラクター文化入門」(2010年・NHK出版)の中で「現代日本社会に偏在し、多くの担い手を持ち、視覚的にインパクトを持つという点で、オタク文化に匹敵する鉱脈である」と指摘していた。

 代表的な例が80年代の「ビー・バップ・ハイスクール」や「湘南爆走族」といった作品だが、その後も90年代の顔となった「特攻の拓」、「ろくでなしBLUES」、路上のリアルを追求した森恒二さんの「ホーリーランド」、映画やスピンアウトも製作される「クローズ」や「WORST」など高橋ヒロシさんの作品、南勝久さんの「なにわ友あれ」や、高橋ツトムさんの「爆音列島」、ギャグ漫画では「エリートヤンキー三郎」など、豊かな成果を生み出してきた。

 また、こうしたヤンキー文化の作品が掲載されることの多い(印象がある)「ヤングマガジン」(講談社)、「ヤングジャンプ」(集英社)などの雑誌は、全盛期は200万部を越え、時代の流れの中で規模は縮小していったものの、現在も青年誌としてトップの発行部数を達成している。オタク系の雑誌は、部数だけならばこれらの雑誌にはるかに及ばない(※注3)。

 ちなみにこうしたヤンキー系漫画誌の編集者に最近のヤンキー論について訊いてみたのだが、やっぱり苦笑して「もともとずっとあったものなので、今更と思いますけどね」と言っていた。

●「東京的な視点」によるヤンキーの「発見」

 だが、こうしたヤンキー文化の作品は、オタク文化の作品とくらべて評論や報道の対象になることは少ない。

 前述の暮沢さんはこの事情について「当事者性の有無」の問題だと指摘していたが(要するにオタク系の作品のほうが、自らの趣味を言語化したり報道したりする人に恵まれている。自身もオタクである記者が好きな作品を取り上げることは多くても、自身ヤンキーである記者がヤンキー作品を取り上げることは実際問題少ない)、在京メディアを中心とする「東京的な視点」で取り上げられなくとも、現実としては日本全国に大きな市場が存在している。

 「マイルドヤンキー論」も同じことではないか。もともと現実に存在した。それを一時期見失い、また発見しただけではないか。

 東京的な視点からいうと、それは目新しいかもしれない。しかしその視点は実はマジョリティですらなく、むしろ日本のリアルの方から見ると、口数だけは多いメディアというものの根無し草性、はっきり言うと軽薄さを、露呈したものにしか見えないことだろう。ただ「タイマン張ったらダチじゃあ!」という身体的なリアルを重視するヤンキー文化の中では、そうした視点が言語化されることは少ないのだろうけれど(※注4)。

※注3)もちろん相互の“市場規模”を比較するのであれば、単価や単行本部数を考慮しなければならないが。

※注4)しかし決して絶無ではない。

 実際のところ、東京自体にも土俗的な伝統は濃厚に存在する訳で、普通の都市生活者だと思っていた東京出身の人が、祭りの季節になると股引を履き、ハッピを着て、刺青をいれたおじさんといっしょに地元の祭りに参加していたりする。しかもそうした人は、自分と地元の伝統とのつながりを、結構大切にしているものだ。

 だがクリエーターとしては、メディアから発信されるトレンドを一生懸命追いかけている人よりも、どこかそうした土俗的な伝統につながっている人のほうが信頼できる気がする。

●今なぜ、「マイルドヤンキー論」が注目浴びる?

 ただなのだが、マイルドヤンキー論が注目を集めるのにも理由があるはずで、私はそれもわかるような気がする。

 ひとつには「新世紀エヴァンゲリオン」の成功以来、マーケティングの対象が、オタク的な社会集団にかたより過ぎたことの反動もあるだろう。さらに大きくいうと、あまりに仮想の価値が重視されるようになった現代社会において、身体的なリアルに目を向けたことの意義もあるかもしれない。

 しかし私はヤンキーに「マイルド」とつけたことが、マーケティングとして秀逸だったのだろうと思う。

 「ヤンキー」の対極になる人は、どんなプロフィールになるだろうか。大都市を志向する都市生活者。娯楽には健全さを求め、保守的な伝統からは離れて、市場原理主義の現代社会を遊泳する「おりこうさん」な人々。「マイルドヤンキー」という概念は、陰画としてそうした人々の存在を暗示しているが、彼ら都市生活者にとって、ヤンキーは本来、脅威である。具体的に義務教育時代に地元でいじめられた経験を持つ人だっているだろう。しかしそうしたヤンキーに「マイルド」とつけることで、安心して見られる対象にした。メディア的に言うと、笑ってもいいものしてしまった。これがよかった。

 実は2010年の「ヤンキー進化論」のように、これまでもしばしば市場としての「ヤンキー」が取り上げられることはあったのである。しかし大きなうねりになるところまでは行かなかった。だが「マイルドヤンキー」が成功したのは、「安心できる対象」として描いた点が案外重要だったのだと思う。

 ただ、しかしそれと引き換えにして、富田克也監督の映画「サウダーヂ」で描かれたような地方社会のやるせなさや詩情といったリアルへのリーチは、失ってしまった。

●「ヤンキー」は「DQN」になった?

 そもそも実際問題、日本のヤンキーの現実は「マイルド」と言って正しいものなのだろうか。

 私はこの点において、「ヤンキー」がもはや死語になりつつあり、「DQN(ドキュンと読む)」という言葉にほぼ置き換えられつつある状況に、注目したほうがよいのではないかと思っている。

 なぜ新しい言葉が必要だったのだろう。ヤンキーとDQNはなにが違うのだろうか。その差分はどこにあるのだろう。

 私はある小説家、同業者から“天才”と呼ばれる東京都足立区出身の作家にそれを訊いてみたことがある。

 彼の答えは「かつてのヤンキーは、国、会社、学校など“大きな物語”への反逆者というアイデンティティが、建前にしろあった。しかし大きな物語が崩壊した現代では、もはや反社会的な人物は、自己の欲望を抑制できない人間でしかない。そうした層を指す用語が新たに必要になった」ということだった。

 なるほどである。かつてヤンキー文化は、矢沢永吉さんの自伝のタイトルにもなったように、「なりあがり」を成功のモデルとした。なぜかというと、ヤンキー文化というものは「いい学校を出て、いい会社に就職すれば一生安泰」という“大きな物語”の人生モデルからドロップアウトした層こそが担い手であったために、独自のモデルを掲げる必要があったのである。

 しかし“大きな物語”は機能を停止してしまった。ヤンキーも既存社会へのアンチテーゼという役割を失い、現代の不良は単なるDQNへと転落していったのである。

 私は、これからの日本社会を待ち構えるリアルは、マイルドな保守層の台頭というよりも、市場原理主義の荒涼と伝統的な土俗が結びついたDQNの世界と、ますますきれいごとに塗りつぶされる一方で、そこから少しでも踏み外すとめちゃくちゃに叩かれる「おりこうさん」の社会。この二極化が想像以上の速さで進行し、格差がどんどん拡大していく。そうした姿ではないかと思っている。

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