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ディズニー、なぜ過去の名作を実写リメイク? 『ピートと秘密の友達』が描き直す“人情”の物語

Real Sound のロゴ Real Sound 2017/01/04 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

 ボロ泣きである。ひとことで「泣ける映画」などというと、ありきたりな描写と演出の、つまらない作品が思い出される。「涙を搾り取れれば勝ち」という、安易な態度が透けて見えると、それに気づいてしまった観客は冷めてしまう。だが本作、『ピートと秘密の友達』は、大人も子どもも、思いっきり泣いちゃっていい、誠実な作品だと断言したい。 参考:『ローグ・ワン』 に引き継がれた「スター・ウォーズ」の魂  『アリス・イン・ワンダーランド』のヒットを皮切りに、近年、『眠れる森の美女』の悪役を主人公にした『マレフィセント』や、『シンデレラ』、『ジャングル・ブック』など、ディズニー・アニメーションの過去の名作を基にした実写作品の公開が続いている。最近、とくにその流れが加速しており、エマ・ワトソンが主演する『美女と野獣』、『ピーター・パン』の妖精ティンカーベルを、アラフォーになったリース・ウィザースプーンが演じるというスピンオフ作品『Tink(原題)』、異才ティム・バートン監督による『ダンボ』、さらに『ムーラン』、『ライオン・キング』などが続々と、現在公開予定、もしくは製作予定となっている。  この「実写ラッシュ」が起きた理由は、ディズニーの商業的な戦略であることはもちろんだが、CGを中心とする視覚効果の急激な発達によって、実写映像とほぼ変わらないものを創造できるようになったという状況が大きい。主人公の少年以外の全てをCGで描くという、実験的な『ジャングル・ブック』に代表されるように、CGアニメーションと実写の境界が限りなく曖昧になっている。本作『ピートと秘密の友達』では、おびただしい体毛に包まれた巨大なドラゴンを、ほぼ完ぺきに実写映像のなかに紛れ込ませ躍動させている。  本作の基になった『ピートとドラゴン』(1977年)は、もともと実写と2Dアニメーションを合成した『メリー・ポピンズ』型の作品だ。日本では劇場未公開だったため、日本国内での知名度は比較的低いといえるだろう。だが、東京ディズニーランドで夜に行われていたエレクトリカル・パレードで、鼻から勢いよく煙を吹き出すドラゴンと言えば、覚えている人も多いかもしれない。ちなみに、リニューアルされたエレクトリカル・パレード・ドリームライツなどでも、このドラゴン「エリオット」と、少年ピートは継続して登場している。  『ピートとドラゴン』は、港町の孤独な少年とドラゴンとの友情を描き、また日常的な世界に現れたドラゴンが騒動を引き起こしていくという、ドタバタ的要素のある、ミュージカル演出が混在する作品だった。対して本作『ピートと秘密の友達』は、その要素をある程度受け継ぎつつ、ミュージカル部分を削ぎ落としたり、物語や設定などをほとんど変えてしまっており、ほぼオリジナルといえるものに作り直されている。そして、これがしっとりとした湿度のある、優れた人情ものになっているのだ。  エリオットの姿も、CGによって一から造形し直されている。監督のデヴィッド・ロウリーは、「TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のようなドラゴンはかっこいいが、怖くて冷たい感じもする」と、本作ではフワフワでモフモフの「抱きつきたくなるような」デザインにしたと発言している。エリオットは、親を亡くし誰も頼るものがない少年の孤独を癒す、犬のようなかわいさと友達のような親しみ、そして保護者のような包容力と頼りがいという、ピート少年にとって様々な役割を体現するデザインとなっている。冒頭で描かれる彼らの運命的な出会いは、あまりにも感動的だ。 「何があろうが元気を出すんだ。兄ちゃんもな、小せえときから寂しく生まれついちまってよ。こうやって、旅から旅を一人で歩いてんだ。悲しいことや辛えことは沢山ある。だが忘れるこった。忘れて日が暮れりゃあ明日になる」  突然だが、これは、母と生き別れて一人きりになった子どもをやくざ者が助けるという、日本の時代劇の名作『関の弥太っぺ』の一場面である。主人公の弥太っぺが孤独な娘に出会って励ましたセリフは、彼自身の実感がこもっているからこそ胸を打つ。本作の、人間のことばを話すことができないエリオットもまた、まさにこのようなセリフを、体全体で言っていると感じるのだ。  そして小さな娘との出会いが、同じく天涯孤独の、やくざ稼業をおくる弥太っぺの人生を意味あるものとして輝かせるように、エリオットに少年が触れた瞬間、彼の毛並みが文字通り「輝く」ことによって、エリオットの方もピートを必要としていたことが、象徴的に明示されるのである。  デヴィッド・ロウリーは、自分が演出する作品の脚本を書く映画監督だ。前作『セインツ -約束の果て-』では、テキサスを舞台に、ある囚人と、その帰りを一途に待ち続ける妻の物語を抒情たっぷりに描いている。これもしっとりと濡れた人情ものであるが、これは高倉健主演の『幸福の黄色いハンカチ』に類似しており、その元ネタをたどると、アメリカのポップス「幸せの黄色いリボン」、さらにその源流には、伝承されてきた古いアメリカの人情話がある。つまり、古くさい、あまりに古くさい人情話を、この監督は扱っているのだ。  そして、このような古い感覚の話を、いまあえてやっているというのは、狙って行わなければあり得ないはずである。おそらく彼は、「人情」を根源的なところから描き直すという試みによって、 世の中や映画界の流れとは一部逆行しながら、「古くさい」と考えられているもの全てが「つまらない」ものではないんだぞと主張しているように感じられるのである。そのことを証明するのは、本作の物語が、ヨーロッパの伝承である「ドラゴン」を、やはり源流からとらえ直しているという事実である。  山や森の中に不用意に散歩に出かけ、突然、「入ってはいけない場所に踏み込んでしまった」という感覚に襲われることはないだろうか。水木しげるも同様の体験をして、その感覚を具現化したのが「妖怪」だということを語っている。山や森の中には、神であれ魔であれ妖怪であれ、「何か」がいるのではないか。そういった感覚が具体化されたもののひとつが、西洋のドラゴンである。  本作でドラゴンを目撃した人物が思わず「悪魔だ!!」と叫ぶように、人々の信仰が民間伝承からはなれ画一化されていくに従い、ドラゴンはやがて神話的な英雄譚においても退治されるべき邪悪なものとなっていった。ディズニーの『眠れる森の美女』でも、マレフィセントは邪悪なドラゴンに変身し、王子に襲いかかった。  それと同時に、現実の生活の中で、人間は木を切り倒し山を征服してきた。ヨーロッパからアメリカにやって来た、「フロンティア・スピリット」にあふれる入植者たちは、原生林を切り倒し、アメリカバイソンを狩り尽くした。自然はドラゴンと同じく、人間に支配されるべきものとして考えられてきたのである。本作は、「自然」と「ドラゴン」に共通性を見いだし、征服すべき悪魔と見なされる前の、純粋に「畏怖すべき」ものとしてこれらを新しく蘇らせている。  ドラゴンと少年の深い愛情を通して、人と人との絆を描くという意味において、ファミリー映画として最適といえる本作。しかし、その感動を裏で支えているのは、人生と社会についての深い理解をベースとし、古い概念の良い部分のみを取り出して結晶化させていくという、根源的かつ急進的な試みである。それがこの作品を、安易な「感動作」とは区別するべきものにしていると考えられるのである。(小野寺系(k.onodera))

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