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乃木坂46が見せたアイドル×演劇の発展形ーー『嫌われ松子の一生』と『墓場、女子高生』を考察

Real Sound のロゴ Real Sound 2016/10/27 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

 乃木坂46が『16人のプリンシパル』シリーズを経て2015年から本格化させた演劇企画は今秋、2つの公演によってさらなる発展形を見せた。ひとつは桜井玲香と若月佑美がWキャストで主演を務めた『嫌われ松子の一生』(9月29日~10月10日・品川プリンスホテル クラブeX)、そしてもうひとつが伊藤純奈、伊藤万理華、井上小百合、斉藤優里、新内眞衣、鈴木絢音、能條愛未、樋口日奈がメインキャストを務めた『墓場、女子高生』(10月14~22日・東京ドームシティ シアターGロッソ)である。両作それぞれに特有のスタイルでありながらも共鳴し合うテーマを持ち、乃木坂46というグループが演劇への志向を深める意義を強く示してみせた。  山田宗樹による原作小説のほか、中島哲也による映画化などもされた『嫌われ松子の一生』は、葛木英が脚本・演出を手がけた舞台の再演である。初演に引き続き葛木による脚本・演出に、今回は桜井と若月がそれぞれに主人公・川尻松子をWキャストで務め、「赤い熱情篇」(桜井主演)と「黒い孤独篇」(若月主演)の2パターンで上演した。中学教師だった松子が教え子の起こしたトラブルを機に教師職からも故郷からも追われ、様々な男性たちとの交わりを経て流転していく筋立ては両パターンに共通するが、双方では細かにテイストが変わり、何よりも桜井、若月それぞれの資質によって、松子という一人の人物の異なった側面を照らし出すものになっている。  この作品はあらかじめ、松子の末路が観る者に向けて予告されている。開演前、十字型の舞台後方に祭壇のように設えられたスクリーンには松子の肖像が掲げられ、そして開演と同時に舞台中央に浮かび上がるのは、社会との関わりを失った晩年の松子が地を這う姿とその息遣いである。これらは芝居の開演にあたって、今から繰り広げられる作品全体がすでに亡き松子へのレクイエムの性質をもつことを暗示する。順を追って展開される男性たちとの不幸な関わりや流転は、まだ若さも行動力もある松子の純粋さのために陥ってしまうものである。その純粋さとバイタリティは、恋愛関係の切れ目からすぐさま次のステップを選びとる場面ではポジティブな感情を生み出しもするし、当の松子もまた、そのような転機では人生に希望を見出そうとする。それでも、決して幸せではない最期がすでに予告されていることで、彼女の抱くほんの一時の希望には、常に転落の影がつきまとう。  主演を務める桜井と若月は等しく松子としての生を歩む。けれども、若月の松子が純粋さや素直さゆえに翻弄されていく側面が強くうかがえるのに対し、桜井の松子はどこか意図の計り知れない行動力の強さが見え、演じ手としての両者の性質があらわれて興味深い。しかしそれは、川尻松子像がWキャストによって別々のものになるということではない。それは、自身を肯定してくれるあてを強く求めて生きる松子というひとつの人格が、光を当てる角度で見え方を大きく変えてしまうということだ。桜井、若月という乃木坂46の芝居巧者がそれぞれの仕方で松子の生を演じることで、ひとつの人生を多面的に解釈する面白みも増していく。  また、アイドルというとりわけ若い生の躍動にこそ注目が集まりやすいジャンルで活動する桜井や若月が演じることで、あっけない最期が待っている一人分の長さの生を歩んでみせる姿は、表現としての奥行きを広げる。小さなニュース記事で終わってしまうようなひとつの死にも、その背景には若い日の希望も、自分を愛してくれるかもしれない人への期待もあった。アイドルとして第一線に立つ彼女たちがこうしたライフスパンを上演してみせることで、観る者が彼女たちに託す想像力の射程も広くなり、深みのあるものになる。遠くない未来に死が迫る松子の前に次々フラッシュバックする男性たちの残像も、松子の生きた痕跡のように舞台脇に置かれる小道具たちも、演劇という表現を通すからこその「生の記憶」の効果を盛り上げていた。  もっとも、亡くなってしまった誰かの「生の記憶」は常に、生きている他者によって作られる。ともすればそれは当人以外の、現在生きている人々の解釈によって、亡くなった誰かの生や死の理由をめぐるストーリーが描かれてしまうということでもある。そうした「誰かの死の所在はどこにあるのか」という問いを突きつけるのが、福原充則の作・演出で初演、再演されたのち、乃木坂46版の再々演では丸尾丸一郎(劇団鹿殺し)が演出を手がける『墓場、女子高生』である。学校の裏山にある墓場、自殺した女子高生・日野(伊藤万理華)の墓の前で遊びながら日々を送る彼女の同級生たち。端々にコメディ要素が挿入され、無為なやりとりで時間を過ごしているような登場人物たちだが、その時の積み重ねはまた、それぞれが秘めている日野への葛藤を育てていく時間、言い換えれば日野の死に対してそれぞれが自分用の解釈を重ねていく時間でもある。  もちろん、幽霊になった日野を含めてこの世のものではない者たちは、他者に認識されてこそ存在するとも言える。日野の側にいる妖怪もまた、生きている他者に己を認識してもらうことで自身の存在を確かなものにしようとする。けれども、同級生たちの思いによって生き返った日野が「私が死ななきゃいけなかった原因には、みんなはなれない」と告げるように、誰かの死の因果を他者が背負いきることはできない。少なくとも日野が死ぬ「本当」の理由など、他者の中に存在するわけはない。同級生や周囲の人物はそれぞれに、独自の解釈で日野の死の理由を自分に引きつけようとする。いわば、虚構の日野像を日野に対して投げているのだ。  しかし、それは単にネガティブなディスコミュニケーションなのではない。そもそも、彼女たちの職能は、そのパフォーマンスが受け手にさまざまな解釈をされ、無数の虚像を投影されるものとしてある。自分が死に至った(偽の)美しい理由を日野が同級生たちに語らせるとき、それは己のパフォーマンスに対して受け手が投げかける自由な解釈を、表現者としての彼女たち当人が受け止める姿に重なる。乃木坂46の上演作品として『墓場、女子高生』が選ばれた意義がもっとも集約されるのは、この場面においてである。  日野は同級生たちの行動によって生き返ったのち、仲間たちとわずかな時間を過ごして再び死を選ぶ。作品の中で、日野が自殺する具体的な理由は明らかにされない。明かされないゆえに、日野の死はただひとつの解釈をされることのないまま、残された彼女たちが、あるいは観ている我々が自身の思いを投影する対象であり続ける。そしてそれらすべてが、輝かしくて他愛ない青春の時と背中合わせに描かれるからこそ、生も死もその尊さが際立つ。  昨年の『すべての犬は天国へ行く』から、乃木坂46がこの季節の演劇公演で取り組んでいる戯曲は、アイドルを素直にアイドルとして活かすタイプの作品ではない。グループが志すのも、アイドルという枠組みとは異なる価値観の中に置かれてなお堪えうる舞台のはずだ。しかしまた、そこに「アイドルがこの作品を上演する」ことの意義も重ねて見出だせるのならば、それこそがグループへの、またアイドルというジャンルへの多大な貢献にもなるだろう。生の記憶を軸に展開された今秋の2作品はそうした可能性を見せながら、乃木坂46独特の伝統をまたひとつ積み重ねた。(香月孝史)

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