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又吉直樹『劇場』は感動するか、ダメ人間にうんざりするか大論争

エキサイト Bit のロゴ エキサイト Bit 2017/06/12

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は小説『劇場』について語り合います。

又吉直樹の才能

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藤田 芸人にして芥川賞を受賞し、ミリオンセラーになった又吉直樹さん。『火花』に続く二作目が『劇場』です。ネタバレしまくるので気をつけてください!

『火花』では売れない芸人の青春。『劇場』は売れない演劇人の青春ですね。率直に良い作品だと思いました。ぼくは感動しましたよ。

飯田 あらすじは、売れない演劇の脚本家が、田舎から上京してきた世間知らずで役者志望の女子大生をナンパして、自分の劇のヒロインにしてねんごろになるが、主人公がヒモ状態で依存するだけで目標もはっきりせずぐずぐずしているうちに彼女が大学卒業、女の方は就職するけど体調を崩して田舎に帰り、主人公との関係が終わる。ですね。

藤田 「関係が終わる」かどうかは、確定していないと思うんですよ、これは読み方次第なんですが、最後、どっちでもありうると読めるようになっていると思います。

飯田 いや、こういう人たちはうまくいくはずがないんですよ……(遠い目)。まあ、起承転結の転で終わる、主人公が決断して意志を変化させそうな出来事だけ描いてどうなったかは描かず終わらせることで、読者にそのあとを想像させるのは、純文学のひとつのテクニック、パターンですよね。

それはさておき、又吉さんがインタビューで「数作は同じテーマの変奏で書いていくと思う」みたいなことを言っていましたが、人物配置とか創作論を戦わせるところとか、あるていど前作と重なります。

藤田 『火花』も『劇場』も、表現に青春を賭け、人生を賭けて尖っているけど、それがゆえにうまくいかない人たちが主人公です。売れている人たちへの思いや焦燥や、自意識のこじれなどを明晰かつ残酷に描写しきるのが又吉さんの才能ですね。同時に、多くの人が「あるある」と思える内容になっていると思います。

古井由吉さんも『新潮』での対談で、細部にある「認識」に感心していらっしゃいましたが、作中の創作論や、批評のようなものが実に鋭くて、いいんですよね。あれらが、この作品そのものを批判する人への防衛線のようになっている。本文に「批判するとこちらが惨めになるような仕掛けが言葉のなかに含まれていて、迂闊に攻め込めない」(p74『新潮』のページ数、以下同)とありますが、それはこの作品にも言える。周到な防御線の張り方も見事です。

「ダメな人間」を描く「技術」?

飯田 主人公は狭い人間関係にきゅうきゅうとし、手近な人のちょっとした活躍に嫉妬したり陰口にキレたり、何がしたいのか自分でもよくわからず、やるべきことではなく本質的ではないことに逃げて時間を浪費し、恋人との関係について曖昧なまま先送りし続けて破綻させる。『劇場』は人間のしょうもなさをよく描いていますね。こうなったらおしまいだ。

又吉さんは、自分はもうオッサンになってるのに、若いときにありがちな、闇雲で自己中な連中の傷の舐め合いや衝突を描ける。これもすごい。僕はこの小説に出てくるやつ全員嫌いです。リアルでいたら絶対近づかない。そこまで思わせるなんてそうそうできないですよ。

藤田 「人間のしょうもなさ」ですが、又吉さんは、ぼくが聞き手をさせてもらったインタビューによると、太宰治の『人間失格』を100回以上読んでいるとか…… 

そこから推測するに、人間のダメなところを敢えて露呈させる、それで「我が事のように共感させる」、それを「技術」としてできている人なんじゃないかとぼくは思っています。

飯田 「ワザ。ワザ」でしょ、『人間失格』的に言うとw 

藤田 ええ。『人間失格』で主人公が演じきったと思っているところを、裏側から見抜く「ワザ。ワザ」の目線ですよね。しかし、又吉さんの作品は、それを指摘する視点も主人公に持たせているし、その視線に怯えるというよりかは、めっちゃ言い返す人、っていう印象があります。

たとえば演技者意識については、「すべてわかったうえで、なにもわかっていないふりをしなければならない。突き詰めて考えると、自分がなにもしていないことに気づいてしまう。それもわかったうえで知らないふりをしなければならない」(p57)という記述が典型的です。

こんなに人間心理のダメな部分をしっかり言語化しクリアに記述し見詰めるなんて、恐ろしい才能ですよ。人間の卑怯さ、ずるさ、非合理さまでクリアに描いてしまった三島由紀夫に近い性質を感じます。あまりにクリアに自身や他人の人間心理を見通して描けてしまうと、人間が嫌になってしまうんだけれど、又吉さんの作品はそこで視線を鋭利にせず、和らげる。肯定しようとする、ギリギリのユーモアがある。

飯田 ヘッセの『車輪の下』とか太宰の『人間失格』とか中学生のころは好きだったけど、高校以来、ああいうウダウダ言ってるのうっとうしいと思うようになって基本的にダメなんだよね。そういうタイプの作品です。

好き嫌いで言うと、SFとかミステリーとかウェブ小説とか好きで読んでる人間からすると、こういうみみっちい話は積極的には読みたいと思わないんですけど、でも『劇場』はお金を払って読んだ分、損した気持ちにはならなかった。

それはたぶん又吉さんのサービス精神の産物であり、ナルシシズムではなく強烈な客観性・批評性があるからだと思います。

たとえば地の文は標準語で、会話文は関西弁ですよね。これによってナマっぽさ(会話)と引いてる感じ(地の文)の落差が演出され、回顧的に語ってるふうに感じさせる(「すべては終わってしまった出来事」っぽく読ませる)とか、テクニカルですよね。関西弁+標準語の使い分けによって、主人公はしゃべっていることと内言(心の中で考えていること)に常に差がある人物なんだなという印象を与える。内面は標準語的な抑制されたものであり、しかし口からついて出る言葉は暴走気味でアンコントローラブルで自分でももてあましていると。

藤田 サービス精神はすごいですよね。文章のひとつひとつ、比喩のひとつひとつが、難しくなく面白い。作中作も面白い。アイデアが大量に撒き散らされています。全体のストーリーよりも、そういう細部が、火花が散るように煌いています。しかし、通俗的な物語としても読める。二重(どころか多重)に作品が出来ている。

飯田 テレビドラマの原作としても秀逸でしょう。文学的な価値が低いという意味ではなくて。

私小説的な小説と、演技者意識

藤田 無頼派的な作家とか、破滅型の芸術家が好きだという日本の文学的な伝統を前提として成立している作品である、という側面もありますよね。作中で描かれているのは、典型的な破滅型の「芸術家」「作家」像ですよね。又吉さん自身は、決してそうではないのだけれど。

伊藤整が、私小説作家は人生や生活そのものが演技で、それを作品にしているという「私小説演技説」を提示していますが。「劇場」というタイトルと内容からは、破滅型の人生を生きること自体を「演技」「作品」のようにしてしまっている人間たちを対象化する視点を感じましたね。おそらく、芸能人もそういう感じあるのでしょうね。

飯田 無頼といっても、意識低い系の無頼ですよね。スケールが小さい人間のクズ。昭和までならもっと豪快に借金して呑む・打つ・買うに入れ込んで恋人泣かしたりするんだろうけど、女の部屋に転がり込んで生活費を一切払わずに好きな本や服を買う程度のひどさ。そのへんに今っぽさと批評性をやはり感じますけどね。

藤田 フリーターやニートを描いてきたゼロ年代の日本文学の延長にあるようにぼくは感じます。ある意味で、貧しい時代のリアリズムなんです。

飯田 私小説的という意味では、すでに指摘がたくさんあるように、今回の小説は又吉さんがエッセイで書いていた過去の女性関係をほうふつとさせる内容でもあり、又吉さんは自分の人生で過去に出会った人との関係についてけりを付けたい、折り合いを付けたいのかなあと。

つまり、すごく個人的な動機で書かれた作品だと思う一方で、芸人らしいサービス精神でボケが入ったり、突飛なネタが挿入されたりで途中まではツギハギ感、エピソードの羅列感が気になりました。ただその偏執狂的に「とにかく読者を楽しませないといけない」というのもまた個人的なオブセッションの産物でしょう。

ただ、個人的といっても扱われている悩み、苦しみは普遍的なものです。『火花』でもそうだったけれども、軽やかに時流、業界の保守本流に適応して売れることもできなければ、他人の反応など関係ないとばかりに貫くこともできないという、たいがいの人間はまあそりゃそのバランスのなかで生きてますよねというやつを主人公にしている。

藤田 そうなんですよ。その二つの狭間で苦しむのは、多くの人がそうなので、その間の帯域の葛藤を丁寧に書けば、多くの人が共感しうるんですよ。しかし、それを書くのは難しい。なぜなら、自分のことだから、そんなに相対化して対象化するのは簡単ではないんですよ。

「ワナビーあるある」は文学になるか?

飯田 「何か自分らしい表現はしたいが、売れたいわけでもない。いや、本当は売れたい、評価されたいが、好きなようにやりたい」とか思っているので誰からもたいして評価されない、みたいな、ワナビーあるあるとして秀逸ですよね。創作を教える学校の生徒はみんな読んで「こういう態度がどれだけダメか」「痛々しいか」を自覚させるといいと思うのですが、そこで変われるならそもそもそうはならないので現実には非常に難しいところです。

藤田 「あるあるネタ」を、創作・恋愛・人生のえぐいレベルまで展開していった作品、なのかもしれませんね。これは否定的な意味(文学が上で、お笑いが下だ、という意味)ではなく。

「あるあるネタ」ではないですが、『すべらない話』やら『アメトーーク』を見ていると、芸人たちのエピソードトークが多いですよね。あれは虚実入り混じっているし、言う本人も「キャラ」を作られている。ああいう状況って、私小説作家の状況に近かったのではないか。ってなことを考えさせられるような作品が、又吉さんの作品です。その「文学」「お笑い」の価値転倒なり横断性なりの側面がやはり魅力的で。

「私」と演技の関係

飯田 ただ、本物のダメ人間が描いたダメ人間の話をおそらく今の人はあまり聞きたがらない。成功した人間が描いたダメ人間の話だから、安心して読めている。

主人公が関西弁で、でも地の文は「僕」で内向的な人間である、というだけで、読者は主人公を作者と重ね合わせて読む。それをうまく使っている。同一化されることを前提に書いているのがずるいし、うまい。そういうことを執拗に論じていた大塚英志氏による論評が読みたいですね。

藤田 作中の「私」と「作者」を重ねて見てしまう視線を諦めて受け入れつつも、「又吉さんは売れてるやんw」っていうツッコミをされても「織り込み済みです」みたいな巧みさはありますよね。

作中の「私」と「作者」は違う、みたいな文学研究の初歩みたいなことを言うのはたやすいんだけど、お笑いの世界で、芸能人としての「キャラ」や「演技」を、本人だと勘違いする多くの視聴者に対していちいち「あれは演技です」「キャラです」と言えない条件で商売を成立させている立場からすると、そうは言えないんでしょうねぇ。「そう勘違いする人も含めてお客さん」という図太さがあるというか。

飯田 主人公が演劇をやっているのに、参照されるのが日本近代文学というのが謎で。しかもたとえば三島の戯曲とかは参照しない。演劇と小説が近かった時代の作家や作品は積極的に参照しない。そのへんの近視眼ぶりが不思議でもあり、今っぽくもある。

アリストテレス以来の演劇論は一切参照されない。といって下北の小劇場の力学みたいなローカルルールもさほど重要なものとして存在していない。たんにゲームのルールからちょっと外れてうまくいってないやつの話になっている。歴史がない。簡単に目に入るものですべてが構成されている。

藤田 ヴィレッジヴァンガードに行くシーンと、近代文学の作家の名前を選手につけてサッカーのゲームをしているシーンが、そういう現代人的な感覚に自覚的なことを示しているように読めます。

教養がヴィレヴァンで構成されていて、近代文学の作家も、ゲームの選手につけて操作可能なものにしてしまう。歴史性のないようなポストモダン的な文化消費の感覚はあると思います。

こういう生き方を、したいか、したくないか

飯田 「こいつら、こんな生き方して、死ぬとき後悔しないのかな」と思いましたが、どうですか? 死が身近じゃないから時間が無駄遣いできるのかなあと。

藤田 逆に、こういう人生を生きたいと思う部分もあるんじゃないですか。お金を稼ぐとか、生きるとかを考えないで、やりたいことにだけ専念して生きたいっていう。ある程度歳をとって、やらなきゃならないことだらけになったとき、こういう生き方に憧れる部分も出てくるんじゃないかという気がしますよ。

飯田 やりたいことをやっているように見えないんだよね。やるべきことより手近な人間関係に時間と精神を浪費しているように見える。

藤田 演劇はやりたいんでしょう?

飯田 しかし、演劇界でああいう立場にいたいとも思えないし、ああいう演劇をやりたいようにも思えなかった。やりたいことをやっていたら、鬱屈とする必要ないでしょ? もっと満たされているはず。

藤田 そんな単純ではないんでしょう。やりたいことやっても満たされなくて鬱屈するんでしょう。売れなかったり、才能がなかったり、運がなかったり。

飯田 いや、本気で売れたいふうにも見えないし、才能がないことに苦しんでいるふうにも見えないし(うまくいってるやつへの嫉妬はあるけど、自分の才能の話は意外となかったという印象です)、運が悪いという認識でもないし。どうなりたくて、何がボトルネックになっているという認識なのかの枠組みがそもそもない。

藤田 この作品で描かれているのは、なりたくてもなれない、そういう残酷な現実に突き当たってしまったときの心理の「揺れ」ですよね。そこに突き当たるまでは、まぁ無心に夢を追ってきたんだけど、見失ってきて。「あ、俺ダメかもしれない」ってなって、揺れてきたときの人を描いていますよね。

現実に、ミュージシャンンなりアイドルなり、役者なり、なんでもいいけど、「成功しない」人だらけじゃないですか。そんなにみんなが成功のための努力をできるわけではない。認識できず、努力できないこと自体が一つの「限界」として出てくるんじゃないですか。

飯田 いや、だから、この主人公は自分にとっての「成功」のイメージや定義自体が自分の中にない、またはずいぶんぼんやりしている人だなと。

「成功」のイメージを持っていない!?

藤田 創作に夢を見て上京する人の「成功」イメージって、漠然としたものな気がしますけどね。そもそも何を求めていて、何になったら、何を手に入れたら満足するのかすらも分からない状態っていうのは普通にあると思うんですよ。その渇望が創作の原動力になるタイプもいますよね。それ自体は、不思議には思わないです。

飯田 売れなくても好きなタイプの作品をつくれているので充実感はあり、「でももっと次はこうしたい」とか思っている人は、ある意味「成功している」わけですよ、売れることじゃなくて好きなものをつくることに価値をみいだしているわけだから。売れたいなら売れたら「成功」だけど、何を軸に考えているのかがわからない。単に目の前にいる人間関係ですべてを判断しているだけで、what to beがない。

藤田 わけのわからないものに憧れて追いかけた結果、行く末を見失った。そういう人の話だと思うんですよ。そしてそれは、割とよくあることで。

一部の成功の背景には、死屍累々なわけですよね、現実は。芸術なり芸能なり文化には残酷さがある。それを認識しつつ、その残酷さを突きつけつつ和らげる、というか。心理的な救済のようなものに辿り着こうとしている作品のように見えます。

飯田 成功の定義すら自分でできないので何していいかよくわからなくてうまくいかないという人間の末路ではありますね。

又吉さんの相方の綾部さんであれば「アメリカで売れたい」わけでしょ? 主人公は、あのレベルのぼんやりした成功イメージすら持っていないように見えます。

藤田 本人にインタビューしたときの発言ですが「そんなに簡単じゃないですよね、売れてない人が売れてる人を見るときの感覚というのは。ほんまにちゃんと捉えきれているのか。」ってのがあります。やりたいことをやる充実感はあっても、売れないことは売れないことでまた嫉妬も抱く。そういう複雑な感情の動線ですよね。

飯田 複雑というか、整理する能力がない。『劇場』は高校球児が甲子園目指すのとは全然違って、ゴール、目標の設定がそもそもない。それは主人公の恋愛関係がぐずぐずなのと通じていて、どうなりたいか考えてない、決めてないからどうにもならない。

藤田 自分の作る作品で充実感があればいいと思っていた人間が、「売れている」他の劇団に打ちのめされて嫉妬を覚えたり、生活のためにライターをしなくちゃいけなくなったり、彼女と「生活」するための基盤も実は必要で重要だったのだ、と気づいて、しかし後戻りは効かない、という状況に追い込まれている話なんだから。

性描写がないのは、テーマとの関係でどうなのか

飯田 あとすでに指摘がいくつもありますが、やはり意図的に性描写を避けているのがおもしろいですね。前作『火花』でも「下ネタが好きじゃない」という話がたびたび出ていたけど。性描写があったらどんなふうに変わっただろうなと思います。

演劇という肉体を用いる芸術の話をしているのに、セックスの話は一切しない。これは主人公の演劇がいかにも「頭で考えた話」であり、したがって観客と深い関係を切り結ぶことがなかなかうまくできないという点と不可分。かつ、肉体という具体性を伴った関係の描写をしないことによって、二人の関係の落ち着きの悪さも示している。

主人公が律儀に避妊していたのか、セックスレスだったのか、まったく避妊しなかったやつなのかで全然印象は変わっちゃうけど、書かない。

藤田 冒頭部分で示唆されていますけど、「肉体」と「精神」が分離してちぐはぐになっていく話なので、性描写のなさにぼくは違和感なかったです。

先日、80歳を超えている方の話を聞いていて、「未だに精神は若いと思っている」「身体が勝手に老いる」みたいな話をしていて。80を超えてもそうなのか、俺も自分の加齢をそんな風に感じるぞって思ったので、なんかそこはよくわかりました。精神が思っているより早く身体や社会的な状況の時間が過ぎていって老いたり手遅れになっていったり。

彼女が子どもを欲しているかどうかは「時間」をテーマにするのなら多少は触れてもいいのかもですが。潜在的には、そういう部分も含んでいるかな、とは思いました。

飯田 女性の方が男性よりも生物学的に子どもを作れるリミットも、統計的に結婚しにくくなる年齢も早く来てしまうのでそこに対する感覚がシビアですよね。

「もう28だよ」ってヒロイン側が言うのはようするにそういうことで。男は一回自分で突きつけられないとそういうことがなかなかわからない。

女性側が35歳前後までで子作りどうするか/どうなるかで、いったん決断というか、この関係をどうするか/どうなるかの選択肢がだいぶ狭まる。妊娠できる確率が下がっていきますからね。もちろん、「子どもをつくったほうがいい」ということではないですが、選べるかどうか、確率が高いか低いかでだいぶ意識は変わる。

主人公は終盤も終盤まで、そういうことに思い至っているふしがまったくない。そのへんはやはり、『劇場』における性描写、肉体に対する意識の低さ、なさとつながっている。

藤田 そのズレの部分から、主人公に自覚が芽生えるんですよね。他の同年齢の人との生活水準の差を気にしたり。自分のやりたいことだけをやっているわけにはいかない、ということに気がつく。「沙希の存在のせいで僕は世界のすべてを呪う方法を失った。沙希が破れ目になったのだ。だからだ」(p77)とかね。

ぼくは、これ、手遅れではないと思うんですよ。一心不乱にやりたいことをやって、傷つけたり負担をかけたりしてきた他者の存在に気がついた。そして、認識が次のステージに上がった。そういう話なんで、飯田さんが仰っている論点は、この作品の結末の「あと」に訪れる話なんじゃないかな。ぼくはそう読みますが。

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