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宮台真司×黒沢清 対談:黒沢作品における“取り残された者の呪い”をめぐって

Real Sound のロゴ Real Sound 2016/12/26 株式会社サイゾー
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 社会学者・宮台真司の映画批評集『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』が、12月29日にリアルサウンド運営元・blueprintより刊行される。同著は、宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の「宮台真司の月刊映画時評」を加筆・再構成し書籍化したもの。『シン・ゴジラ』『クリーピー 偽りの隣人』『バケモノの子』『ニュースの真相』など、2015年から2016年に公開された作品を中心に取り上げながら、いま世界に生じている変化などを紐解く。さらに、黒沢清、富田克也&相沢虎之助との特別対談も収録。リアルサウンド映画部では、発売に先駆けて、宮台真司と黒沢清による特別対談の一部を抜粋し、掲載する。 参考:宮台真司の映画批評集『正義から享楽へ』刊行決定! 黒沢清、富田克也&相沢虎之助と対談も ■黒沢清作品を彩る無意識 宮台:黒沢監督、お久しぶりです。監督とは、かつて僕が映画批評を連載していた時期に何度か対談させていただきました。実は一年半前から連載を再開し、まもなく書籍化されることになります。そこで扱ってきた基幹的モチーフは〈なりすまし〉です。実は黒沢監督がここ20年撮られた作品と極めてマッチングがいい(笑)。こんなモチーフです。  僕らは夢か幻かよく分からないものの中を生きている。その幻想性に気付かないまま、謂わば自動機械のように動いている。そこに或る事件が起こる。それで自動機械としての動きが阻害されて突然不自由になる。ところが予想外に、自動機械でいるときに見えなかったものが見えてくる。それが解放であることに気付く。不自由によって獲得した自由。  不自由ゆえの自由を得ると、人が幽霊のように、風景か廃墟のように、見えてくる。否、元から幽霊であり廃墟だった。それに気付いた瞬間、最新作『ダゲレオタイプの女』もそうですが、唖然とする観客を差し置いて、「え、これで終わるか?」というところで映画が終わる。このモチーフが好きで、次回作ではどう現れるのかなと楽しみにしてきました。  長らくこうした待望は個人的な感覚だと思ってきましたが、最近はそうでもないらしい。実に大勢が“日常”が幻だったらしいと気付き始めた。そこで期せずして黒沢監督のモチーフが一挙にユニバーサルなものとなり、実際にフランス映画(『ダゲレオタイプの女』)となって立ち現れた、と。こうした認識なのですが、何か文句がおありでしたら(笑)。 黒沢:そのようにこの映画を分析していただけて、光栄ではありますし、おっしゃるようなことはよくわかります。ただ、僕自身がそういったことを観客に伝えようとか、社会に対して訴えようというつもりで映画を撮っているわけではなくて。毎回、やろうとしていたいくつかの部分では成功するのですが、反面でいくつかの目論見は失敗して、思うような結果にならないことも多い(笑)。ですから、個人的な思いのようなものが映画のなかに反映されているかどうか、ということも分からないまま、だいたい過ぎ去っていくんです。つまり、自分ではよくわかりません。 宮台:というふうに黒沢監督はお答えになります。いつもこのようなリアクションをいただきます。まあ無理もないと思われます。なので今回はそれを先回りした上で、敢えてこの対談に仮タイトルをつけさせていただきましょう。題して「黒沢清監督の無意識」となります(笑)。 黒沢:確かに、無意識的なものがどこかに反映しているには違いないのですが、ご存じのように、映画は僕ひとりで作っているわけではなくて、ふとある芝居をした俳優、たまたまそれをフレームに入れたカメラマン、何気なくその場所にそれを置いた美術など、いろんな人の無意識が絡み合っているものだと思います。「無意識」ですから自分ではどこにどう反映しているかまったくわかりませんし、責任は負いかねると申し上げておきます(笑)。 ■取り残された者の呪い 宮台:了解しています。では最新作の『ダゲレオタイプの女』を例に取ります。まず、「ダゲレオタイプ」という撮影機材は、皆さんご存じのように、被写体を恐るべき不自由な状態に置きます。思えば、黒沢監督の映画は冒頭に必ず不自由のモチーフが出てきます。実にさまざまな「不自由」があります。『CURE』(1997年)の医大生・間宮であれば、記憶を失い、まともに喋れない、不自由な存在です。前作『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)でいえば、西野は、普通に考えてコミュニケーションの障害ーー境界性人格障害ーーを抱えます。そして今回、フランス映画ということもあり、物理的に動けないという分かりやすい不自由を出して来られた。  あまりにも直截的なので、非常に印象的でした。僕の解釈はまずは横に置いて、最初に伺わせていただきます。ダゲレオタイプという“フィジカル(物理的・身体的)に動けない拘束された存在”というモチーフを、どのように思いつかれたんですか? 黒沢:きっかけは他愛もないことだったと思います。そもそも、これはフランスで撮るために思いついたのではなく、もっと前に「イギリスでホラーを撮らないか」という依頼があったときに考えたアイデアです。先に宮台さんに言われたので言いづらくなったのですが(笑)、海外で一種のホラーのようなものを撮るときに、何か「不自由」な感じというか、囚われているような状況をどう作ればいいかと考えて。大昔のゴシックホラーなどでは、古城の地下に美女が幽閉されているとか、そういうモチーフになりますが、今時そんなことはあり得ない。日本では少し古い設定にすると地下牢に誰かが囚われている、ということがあり得ますが、現代の、少なくとも都会では難しい。『クリーピー 偽りの隣人』では、それがあったんですけどね(笑)。  そういう古典的なゴシックホラーの仕掛けとして、「美女が囚われている」というようなイメージって、日本では難しくても海外で設定すればあり得るんじゃないか、と考えていくなかで、たまたま別の文脈で興味を持って調べていた古い写真の手法が使えるのではと。それで、撮影のために器具で人間を固定するという、ダゲレオタイプを映画のアイデアにしてみようと思ったんです。 宮台:他愛なくなどありません。なぜホラーが、フィジカルな不自由から出発するのかを考えると、本当に身に震えが走るお話です。僕は小さい頃に何度も転校しました。転校先で隠れん坊や缶蹴りの鬼になったとき、よく「自分を置いてみんな帰っちゃったんじゃないかな」という妄想に囚われました。転校生にとっては切実な妄想です。  そのとき味わった感覚は、長じて、折口信夫の『死者の書』やエドガー・アラン・ポーの『落とし穴と振り子』で「地下の暗闇に囚われる」描写を読むようになったときに、まざまざと再現されました。「自分だけが取り残される」感覚。「皆は僕がいなくても平気なんだ」「僕がいなくても世の中は回るんだ」という気付き。  たぶん、それは真実への気付きなのですね。そんな、素朴だけど誰もが身に覚えのある感覚こそ、ホラーが、フィジカルな不自由と結びつく理由じゃないかな、と思っています。ホラーは、真実への気付きと表裏一体なのです。いずれにせよ、僕が黒沢清監督の作品を初期から大好きであり続けているは、そういう感覚と明白に響き合うからです。 黒沢:ギクリとしました(笑)。実は、ほとんど同じ経験をしています。僕も小学校1年生から2年生に上がるときに転校したのですが、そのときにあったことを、くだらない話なのによく覚えているんです。遠足か何かがあって、学校ではなく、近くの駅前に集まるということだったのですが、僕はそれを知らなくて、遠足の格好をして、学校に行ってしまったんですよ。それがめちゃめちゃショックだった。今考えれば、いろんな人に話を聞けばよかったんですが、僕は転校生だったから置いて行かれた、みんな僕に気付かずに行ってしまったと、完全に思い込んだ。悲壮な顔で家に帰ると、親が呆れつつ、「かわいそうに」と思ったのか、映画館に連れて行ってくれた、という記憶です(笑)。今でこそ真剣にそんなことを考えはしませんが、小さい頃は「置いて行かれたのではないか」という恐怖をずっと感じていました。 宮台:いわば「取り残された者の呪い」。黒沢清監督作品のモチーフです。映画の冒頭近くでこの妄想のモチーフが示され、その呪いが終盤まで祟るのですが、ラストで「今ここに黒沢清監督がおられることに驚く」というのに似た〝存在への驚き〞とも言うべきフィニッシュに到る。皆さんそれを楽しみに一生懸命に作品を観るんじゃないかと思います。  かく言う僕もその感覚が原点にあって、「取り残された者」として物事を見る習慣があります。だから、世の中をうまく生きられるヤツを見ると、「ああ、うらやましいな」という気持ちと「こいつ、バカなんじゃないか?」という気持ちが両方生まれます。そういう二重性の眼差しが、明らかに黒沢監督の全作品に刻印されていると感じます。 黒沢:本当に人に話したことがないことを言ってしまい、そこまでご指摘いただくと否定し難いところですが、とは言え、僕自身はそこから成長して、一応ちゃんとした大人として映画を作っています。映画を作るのは大変ですが、楽しい面もあり、それが何かというと、僕自身というものがほとんど表れないから、ということもあるんです。実は、自分自身を表現したいという欲望はほとんどなく、むしろ、自分が出てしまうことを恐れるところもあって。僕はある種、アメリカ映画を目指していて、つまり作った側の都合は置いておいて、それとはまた少し別の原理で、観客が気持ちよく楽しめる“製品”にしたいと思っています。ですから、「あなたがここに表れている」と指摘されるのは、とても辛いことなんです(笑)。 ■秩序回復から取り返しのつかなさへ 宮台:小指の先でも出来るシネフィル的分析は横に置き、その辛さを解消する方向でお話しさせていただきます。連載で『岸辺の旅』(2015年)を取り上げた際にも書いたことですが、黒沢清監督の映画は、エンターテインメント作品、あるいは古くから“見世物”の基本ですが、通過儀礼(イニシエーション)モチーフが非常にはっきりしているんですね。  最初に日常があり、そこから離陸してカオスを経験し、ラストで着陸を迎える。推理ものもサスペンスものも似たモチーフを持ち、当然アメリカの映画もほとんどがこの形式ですが、詳しく見ると、それらは秩序回復モチーフではあっても、通過儀礼モチーフではありません。通過儀礼モチーフでは、離陸面と着陸面が明白に異なるからです。「離陸→渾沌→着陸」という展開自体は娯楽作品の王道的なモチーフなのですが、普通は秩序が回復して終わるのに、黒沢監督の作品はこの「普通」がありません(笑)。離陸面と着陸面の落差が、何らかの“気付き”を与えるのですが、“気付き”を得た瞬間に映画は終わり、その“気付き”がいいことか悪いことかは保留されたままで観客は放置されます。 黒沢:おっしゃるとおりで、それは認めますね。ささやかなことではあるのですが、一応、現実にほとんど似たある世界観から始まって、2時間ぐらいの間、何かが進行していったら、やっぱりもう元の世界観に戻る(=秩序が回復する)というのはおかしいと感じるんです。絶対に変わっているはずだと。物語のなかで人間ももちろん変わっていくわけで、その影響というのはーー現実にどうかはわかりませんが、少なくとも映画の中の世界は、その人物たちのドラマを経た何かが世界にも影響を及ぼしているはず。それがどういう結末を迎えたかまではわかりませんが、明らかに何か変化があったということまでは提示したいと思っているんです。それは責任感なのか、単純なつくる側の欲望なのかはわからないですけども。 宮台:よくある娯楽は「秩序回復モチーフ」です。黒沢監督の「通過儀礼モチーフ」も「離陸→渾沌 →着陸」と構造的には似ますから娯楽として楽しめますが、よくある娯楽ではありません。思えばヒッチコックの『めまい』(1958年)も娯楽作品ですが、最後にどうなったのかが議論され、多くの人が深読みを重ねてきた。つまり、よくある娯楽ではないのです。 黒沢:『めまい』はまさにそうですね。何がなんだかわからないけれど、ここから先、新しい何かに向かっていくしかないーーもう後戻りはできない、という感じが強烈にします。裏を返せば、それが希望だとも言えるわけです。元に戻ることが全然希望とは思えない、という。困難かもしれないが、先に向かっていくということはやはり、希望なのではないでしょうか。ですから、どんな経緯の物語であっても、最後はもう元には戻れないことだけは確実だ、という感じで終わりたい。何故そう思うのかはわかりませんが、それがやりたいことのひとつではあります。 宮台:『めまい』のラストがハッピーエンドかどうか。少なくともこうは言えます。「自分はうまく生きられているし、それなりに幸せだ」と思っていた人が、自分がただの操り人形だったとか騙されていたとか気付くことがあった場合、それでも騙されていたままなら良かったと思うのか、本当のことを知って良かったと思うのか。これは重要な岐路です。黒沢監督作品にはこの分岐がいつも伏在します。そして元に戻ることより本当のことに気付くことの方がはるかに大切だという価値観が示されます。エンターテインメントとしてもはるかにカタルシスがあるはずだという見込みもそこには伺える。そして実際「取り返しのつかないこと」が起こっているのではないかという“不穏さ”が目を釘付けにします。 ■時代の無意識が追い付いてきた 宮台:黒沢監督作品では20年以上前からそうした構造が顕著だと思いますが、ゼミの学生たちに映画を観せて議論していると、秩序回復で終わる作品ではなく、「取り返しがつかない」ところで終わる作品じゃないと、近頃は誰も納得しなくなってきているんじゃないかと感じます。実際、黒沢監督作品のウケが年々よくなっていると感じているんです。  『誰よりも狙われた男』(2015年)、『われらが背きし者』(2016年)など(ジョン・)ル・カレのスパイ小説を原作とした映画が公開されて好評を博していますが、「取り返しのつかなさ」が前面に押し出されているからだと思います。「社会は理不尽で、個人が立ち向かったところでどうにもならない」という感覚がデフォルトになりつつあるのです。  人々が何を面白いと感じるのかも、社会的な関数の産物です。秩序回復よりも、むしろ気付いたときにはすべて取り返しがつかず、そこから何が始まるのか少しもわからない……という物語を人々が望み始めています。実際そういう娯楽映画が増えてきています。黒沢監督の作品は明らかにモチーフを先導していたので、時代が追いついたのですね。 黒沢:娯楽という言葉でいいのかどうかわかりませんが、それが一般の人が「なるほど」と腑に落ちてくれる物語になっているなら、嬉しいことだなと思います。かつてはだいたいキョトンとされたり、なかったことにされたり、厳しい結果になることが多かったものですから(笑)。一方で、インテリが謎を解くために機能する物語も、もちろん重要だと思います。実社会こそ謎だらけなわけですから、僕の作り出したフィクションが、そんな現実を解釈するためのヒントに少しでもなるのなら、嬉しいことですね。 宮台:確かに『カリスマ』(1999年)とか『ドッペルゲンガー』(2003年)とかは、僕は映画評で絶賛しましたけれど、皆さんはキョトンでした。それは非常に残念でしたが、もし今、公開されていれば、多くの人は「待ってました」となるはずのものです。 黒沢:多分ほとんどの人はついてこれないよな、とわかっていてやるんですから自業自得ですが、ただ狙っているというより、一度語り始めた物語を、可能な限りこちらの想像力の及ぶところまで語って終わろう、と考えると、そこに行き着いてしまう。そうじゃないと「嘘」になってしまうんです。もちろん、映画ですから最初から嘘をついているのですが、その辺がポイントなのかなと。 宮台:つまり、当初は「黒沢監督の無意識が表現されている」で良かったのですが、最近は「時代の無意識が表現されている」と言う他なくなった。ということで「あなたがここに表れている」と指摘される辛さも少しは解消されたかと思いますが、さて、「噓」というのもひとつのキーワードですね。そこについても伺いたいと思っていました。(続きは、12月29日発売の書籍『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』にて)(取材=神谷弘一/構成=橋川良寛)

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