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映画がTVゲームを追う時代が来る? 『アサシン クリード』哲学的なテーマが示す未来

Real Sound のロゴ Real Sound 2017/03/08 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

 TVゲームをプレイするのは好きなものの、わりとすぐに飽きてしまう私が、珍しく長く熱中し続けている二つのシリーズが、『グランド・セフト・オート』と『アサシン クリード』だ。これらの共通点は、リアルに構築されたヴァーチャル世界を冒険しながら、「映画のような」雰囲気と人間ドラマ、危険なヴァイオレンスとユーモアが楽しめるところである。だから、この度映画化された本作『アサシン クリード』は、とりあえず、「映画のようなゲーム」を映画化した、「映画のようなゲームのような映画」といえる。『アバター』や『ジャングル・ブック』(2016)など、CGで構築された世界を舞台にした映画が作られているように、近年、映画とゲームは互いに接近し、その違いが分かりにくくなってきている。 参考:監督業挑戦にも意欲! 『アサシン クリード』マイケル・ファスベンダーが語る映画製作の醍醐味  ゲーム『アサシン クリード』のファンとして、映画化企画『アサシン クリード』は、一体どうなるものかとハラハラしながら待ち続けたが、実際に見てみると、原作ゲームのアクションや美術などの要素を再現したうえで、そのような表面的な部分に終始するわけでなく、ゲームの楽しさの裏に隠された肝(きも)の部分である、哲学的ともいえる壮大なテーマをしっかりと拾ってくれていたので、とても胸がすく思いである。前作でシェイクスピア劇の映画化に挑んだジャスティン・カーゼル監督の目は、やはり確かだった。では、本作が描いた『アサシン クリード』の肝とは何だったのかを、ゲームの内容を踏まえながら考察していきたい。  『アサシン クリード』は、「ステルス・アクション」と呼ばれる、うまく隠れながらタ−ゲットとなる敵をこっそりと倒していくゲームだ。プレイヤーは、古い時代のアサシン(暗殺者)となって、エルサレムやフィレンツェなど、歴史的な街の雑踏に紛れ込み、厳重な警戒を気づかれずに突破し、ターゲットのわき腹に刃を滑り込ませたり、頭上から飛びかかって倒したりするのである。まさに映画のような場面を、プレイヤーがゲームのなかのキャラクターにかっこよく演じさせることができるのだ。しかしモタモタとプレイしていると、壁にへばりついたり屋根に上ったりなどの隠密行動を通行人たちに目撃され、「あの人、あんな場所でおかしなことをやっているわ」、「いい大人なのに、恥ずかしくないのか」などの様々な心無いことばを投げかけられるという演出もあって、少し胸が痛くなってしまう。さすがに映画のアサシンたちは、そんなヘマをすることはなく、かっこよく建物の上を跳びまわり、颯爽と空中を舞っていたが。  忍者やパルクールのように、いくつもの建物や障害物を飛び越えるおなじみの技や、袖口から隠された刃物が飛び出す「アサシンブレード」、高い場所から一気に生身で降下する「イーグルダイブ」などの技は、映画でも再現されている。なかでも「イーグルダイブ」は、約40メートルの高さから、スタントマンが本当に生身で落下する映像を合成しており、アクションに説得力を与えているのだ。  『アサシン クリード』の特徴は、これだけではない。このゲームの世界観の設定は、かなり複雑なことになっている。じつは、このアサシンの活躍は、「アニムス」とよばれるマシンによって過去の時代を忠実に再現した、コンピューターのデータ上の世界での出来事なのである。現代に生きるアサシンの子孫の神経にマシンを接続し、バーチャル世界を疑似体験させているというかたちで、その戦いが再現されている。このデータは、アサシンの子孫から取り出された遺伝子に刻み込まれた「祖先の記憶」によって、かたちづくられたものなのだという。…私も説明しながらよく分からなくなってきたが、要は『マトリックス』や『アバター』のようなマシンにつながれた主人公の精神が入り込む先が、彼の祖先にあたるアサシンの記憶なのである。なぜそんな複雑な設定が必要なのかと思ってしまうが、この「観客(プレイヤー)」ー「アニムスに繋がれた主人公」−「アサシン」という、入れ子的な構造を経ることで、観客(プレイヤー)は現実感覚を攪乱され、現実と疑似体験の境界が曖昧になっていく感覚を味わえるのである。マシンの助けを得て疑似体験する主人公と、ゲーム機でそれを操作するプレイヤーとは、非常に酷似しているのだ。  ゲームでは主人公が、複数の時代、複数の場所で活躍した、様々な伝説的アサシンの記憶にダイブする。そこで展開されるのは、「テンプル騎士団」と「アサシン教団」との、連綿と続く戦いの歴史である。そして、その戦いは現在も続いているのだという。これは秘密結社が歴史上世界を支配してきたという陰謀論が基になっているが、おそらくここで「テンプル騎士団」として象徴されているのは、いつの時代にも存在する、民衆を支配する権力者の価値観が抽象化されたものであろう。それに抵抗する価値観が「アサシン教団」なのだ。  それは、権力と革命の戦いであり、保守派と革新派の戦いであり、専制主義と民主主義の戦いであり、資本主義と社会主義との戦いであり、マジョリティとマイノリティの価値観の戦いなのである。時代によって、そのかたちは違えども、その本質は「テンプル騎士団」的価値観と「アサシン教団」的価値観の対立に還元されるというのである。どちらが善でどちらが悪かというのは、その人の考え方や立場によって異なるかもしれないが、確かなのは、それらは陽が照れば影が生まれるように、常に隣り合わせにあるものだということだ。  映画でも重要な意味を持つ、禁じられた秘宝「エデンの果実」を、テンプル騎士団とアサシン教団が奪い合うというのは、彼らの戦いが、旧約聖書にある人類創生から始まったことを示すものである。『アサシン クリード』が突き付けてくるのは、人類の歴史というのは、二つの主要な価値観による支配と破壊の歴史であるというダイナミックな提言なのである。私はゲームをやっていて、ここまでものすごい大テーマに到達するとは、まったく思っていなかった。「諸行無常」というキーワードで戦(いくさ)の歴史と人の存在の儚さをつなげた「平家物語」や、映画史に刻まれる超大作、D・W・グリフィスの『イントレランス』を想起させられる、「大・力技」である。  かつてフランスの哲学者が、宗教、革命、産業など、人類に共通する根源的な目的が喪失したことを、「大きな物語の終焉」として述べたように、小説にしろ映画にしろ、現代では個人的な生きる実感のようなものが優先され、例えばウォシャウスキー姉妹監督の『クラウド アトラス』など一部の例外を除いて、大きなテーマを描けなくなってきている傾向にある。そこに、それを担うような、時代を代表する作品がTVゲームから出てきたという事実は非常に面白い。  冒頭で「映画みたいなゲーム」と述べたが、それは映画がゲームよりも複雑なものを描くことができなかった時代の発想なのかもしれない。ゲームが映画のような世界を表現できるようになってきたことで、本作のように、映画がゲームの深い思想を追って作られるようになるという、かつての逆転的な実例が生まれてきたというのは、新しい時代を予感させる、映画ファンとしては一種の怖ろしさもともなう、非常にエキサイティングな出来事である。(小野寺系)

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