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村上春樹の震災後文学『騎士団長殺し』への不満

エキサイト Bit のロゴ エキサイト Bit 2017/04/20

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は『騎士団長殺し』について語り合います。

文句をつけながらも読んでしまう存在

© Excite Bit 提供

藤田 『騎士団長殺し』は、村上春樹の新作長編。2009年と2010年の『1Q84』以来、7年ぶりの大型長編ですね。印象としては『ねじまき鳥クロニクル』に近い感触の作品でした。

飯田 二部構成になっていますが、第1部のあらすじを言うと、肖像画を描いて生計を立てている画家(主人公)が、妻から「他に男がいる」と別れを切り出され、ショックを受けて東北を放浪して「もう肖像画は描かない」と決心、雨田という友人から住処を貸してもらっていると、その父が描いた『騎士団長殺し』なる絵を発見、その絵画と作者の謎を追う一方で、免色なるITで成功した人間から肖像画を頼まれ、報酬に負けて引き受ける。画家はふだん本人との面談の「印象」から肖像画を描いていたが、免色の絵を描くにはなぜか本人が必要で、うまく描くことができない。

 で、免色と二人で雨田家の、祠のある雑木林に穴を掘ると、絵がうまくいくようになる。

石の塚をどけ、穴をあばくと解放され、雨田の父の絵『騎士団長殺し』から騎士団長が出てきて語りかけてくる。

 免色は画家に秋川まりえという、自分の娘かもしれないという、小田原の絵画教室に来ている一三歳の女の子の肖像画を描いてほしいと持ちかける……みたいな感じですね。

藤田 ありがとうございます。

 阪神・淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件以降に、「デタッチメント」(社会的な非関与)の姿勢から、「コミットメント」(社会に関与すること)に転向した村上春樹の作品として本作も注目されるべきですが、そのポイントのひとつは、東日本大震災が意識されていることですね。結末部分で、震災のことが明瞭に書かれています。とはいえ、舞台は震災前。

 二つめは、戦争。もうひとつは、「騎士団長殺し」という絵を書いた、雨田具彦という画家が重要な人物として出てくるんだけれど、彼は戦前にドイツにいて、暗殺計画に関わった人。戦後に画風を変えて、日本画っぽい作風になっています。戦中の画家たちが「転向」し「戦争画」を書かされたのを思い起こさせます。未来における戦争の予感、その際に芸術家はどうするかという主題ですね。

 雨田具彦のモデルは、おそらく画家の安田靫彦。東京国立近代美術館で回顧展をやっていたのを観た印象と、よく似ていたと思います。東京国立近代美術館は、戦争画を積極的に展示するなど、「戦争が起きたときに芸術家はどう対処するか」を意識的に見せることを試みています。春樹の新作は、それらと共鳴して見えました。

飯田 本作がハルキの最高傑作かというと、そんなことはないですね。僕は、個人的にはもともとハルキは好きな作家ではないです(『ねじまき鳥クロニクル』なんかはすごいなと思ったけど)。ただ、気にはなる書き手で、文句をつけながらもなんだかんだ読んでしまうという存在です。

 今回も相変わらず主人公はやりまくりで女性描写はひどい&ロリコン入っていてキモいんですが、もうあの簡単にセックスしちゃうのは『島耕作』とか『ゴルゴ13』の濡れ場と同じで、需要がある(と作家が信じている)お約束なんだと思うようにしています。

震災後文学としての『騎士団長殺し』

飯田 で、本作は震災後文学の典型的な特徴を持った作品ですよね。春樹なりの311へのアンサーだなと。

藤田 どの辺りに、「震災後文学」っぽさを感じましたか?

飯田 まず、「死者実在論」ですよね。「騎士団長殺し」という絵を描いた作家は死んでいるはずなのに主人公たちの前に現れて、話しかけてくる。これは若松英輔やいとうせいこう、柄谷行人の震災後の著作に見られる、「死者は実は生者のすぐそばにいるのだ」という主張と同じもの。

それから、似たようなこととも言えますが、「騎士団長殺し」なる絵からキャラクターが出てきて話しかけてくるという設定は「フィクションもまた受け手にとっては実在し、大きな影響を与えるものである」というものですが、こっちは高橋源一郎の『恋する原発』と同じでしょう。

藤田 そうですね。震災後文学と共通した要素を持った作品ですね。「震災後文学」の類型については、ぼくらの共編著『東日本大震災後文学論』を読んでもらうとして……(宣伝)

 ちょっと疑問に思ったのは、「ポストモダン・ファンタジー」の手つきで東日本大震災を扱ったこと、その有効性についてですね。

飯田 ポストモダン・ファンタジーというと?

藤田 メタフィクションっぽい、ふわふわしたリアリティーで、心理的な解決を「とりあえず」与えるもの……と「ポストモダン・ファンタジー」を仮に定義しますが。

 阪神・淡路大震災とオウム真理教の事件のときには、春樹は衝撃を受けて、『アンダーグラウンド』という「ノンフィクション」作品を作ったわけじゃないですか。現実に「コミット」したわけですよ。春樹は兵庫県出身だから、衝撃も大きかったのだと思う。それに比べると、『騎士団長殺し』における東日本大震災は、現実への「コミット」を促す作品ではなくて、隠喩やファンタジーの技法で対応するものでしかなかったようだ、とは、対比的に言えると思います。

 その対応の有効性が、疑問に思うのです。

 ただ、もう少し作品・作家に内在して読解すると……本作は、「あいだ」の話です。

 阪神・淡路大震災と東日本大震災の「あいだ」の時期を舞台に、起きるかもしれない戦争の予感と過去の戦争の「あいだ」の何かの見えない繋がりを描こうとしている。免色さんは、金と権力とテクノロジーで強引に二つの世界(子どもいる世界)を繋ぐし、主人公は、夢の中で奥さんを受精させるわけですよね。

 「メタファー」の通路が、二つの「地面の下」を繋いでいる。そういう話ですね。これを、阪神・淡路大震災と東日本大震災の「あいだ」の時期を作中の時代に選んで書いた作品、ということですね。

 そもそも、『アンダーグラウンド』の時点で、阪神・淡路大震災という天災と、オウム真理教による地下鉄サリン事件という、直接的表面的につながりのないものが「つながっている」と直感していたわけで……その延長線上ですよね。

 二つの何かの「あいだ」の繋がりをメタファーとして描いたり、二つの世界を「超える」ことを描いたり(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『1Q84』とずっと続くテーマですが)する、そういう狙いは分かるんだけど、それが総体としてどんな意義なり有効性があると思って書いているのかが、なかなか見えない。

飯田 うーん、でも、それも震災後文学にはいっぱいあるよ。311の前から始まって、後で終わる作品は。たとえばここ数年、文芸誌「新潮」で連載されている小説にはいくつも震災の前と後を描いたものはあります。

ポスト・トゥルース時代への応答?

飯田 僕は南京事件に言及するあたりは、戦争の予感といったような藤田君が指摘した問題ではなく、ポスト・トゥルース的な状況への応答かなと思って読みました。その主題は終盤でも出てくるしね。

 その点から引っかかったのは「現実を直視しなくていい」って基本的には読める話である点ですね。

事実より真実を大事にしろ、それが芸術の価値だという話になっていますよね。主人公は肖像画を描くときに本人を見て「写実」的に描くのではなくて、依頼者と話してそこで受けた「印象」を重視して描いている。主観的な記憶や印象こそが重要で、客観的に写真のように切り取ること、ファクトを確認することはほとんど不可能だし本質ではない、という考えが、この肖像画のエピソード以外にも一貫している。

終盤になるともう完全に、おまえの言っていることは真偽不明だ、などと他人から責められても、自分の信念や経験を信じろという話になっている。

 これはトランプやその支持者に見られる「オルタナティブファクトでOK! データよりもフィルターバブルがかかりまくった自分の信念に沿う情報を肯定しよう!」みたいな傾向そのものでしょう。

藤田 まさしくそこが問題ですよね。「無意識」に繋がっている、と思う、隠喩的に繋がっているという直観の肯定は仰るとおり、一歩間違えると陰謀論的な妄想でも気持ちよく信じてしまえばいい、となりかねないですよね。

飯田 いわゆる「放射脳」でも肯定されることになるからね。

もちろん、作家が本来関係ないはずのものにつながりをみいだす、直観を信じるのはわかるし、フィクションの力を肯定しようとしたら「事実より信念や虚構の力を信じろ」というロジックになるのはわかるんだけど、今この世の中でそれだけをストレートに言ってしまうのは、まずくないかと。

藤田 「ポスト真実」的な問題系を扱っていることを明示している箇所は多くありました。そもそも、村上春樹に多く批判されている「物語」や「構造」ばかりだ、というのは、そのような現実や事実を軽視する、ポストモダン感覚への批判でもあったわけです。震災や南京大虐殺を扱いつつ、このような描き方をしたことにどんな意味があるのか……ぼくは、あまりいい印象を受けなかった。

 ただ、今までと違う覚悟のようなものがあるとすれば、夢の中で受精させた相手が生んだ子供を自分の子どもと「看做して」受け入れる、っていう部分かもしれない。

飯田 「客観的には間違っていたとしても、自分の信じたいことを信じて生きた方がいい」とここまで振り切って言っている作品もなかなかないから、そこは良し悪しは別にして、他の作家とは一線を画しているなとは思うんですが……。そういう振り切り方が、個人的には「村上春樹は気にはなるが、好きにはなれない」理由のひとつです。

藤田 原理的に全ての事柄のファクトやデータを確認して生きるなんてできないし、「南京大虐殺」や「東日本大震災」だって、あったかなかったのか分からないと原理的には言いうる。しかし、無視はしない、という匙加減やバランスが、この作品の重要なところだと思うんです。しかし、「このバランス」であることの狙い、意味が見えづらい。

 震災や、過去の日本が行った虐殺みたいなテーマを、そもそも入れなければいいのに、入れる。父の娘に対するおかしな不気味さとか、主人公の中にある暴力性や性的な歪みなどを排除して書いたほうが「気持ちいい物語」になりそうなのに、それはしない。というのが不思議なところです。

飯田 幽霊はいるし、作品は語りかけてくるし、夢の中でセックスしたら子どもができちゃうし、普通の感覚ではそれらはトンデモでしかないんだけど、この作品では全肯定されちゃうわけですよ。近代以前の物語みたいですよね。

藤田 『羊をめぐる冒険』辺りから物語構造としてはそうですが、問題なのは、何故このような作品が広範な支持を受けるのかというところですよね。

飯田 幽霊いない、作品は語りかけてこない、夢でセックスしても子どもはできない、ということが常識だった時代はある意味終わった、という時代認識なのであれば、むしろ時代に適合的な気もします。「それぞれがそれぞれの信仰を大事にしよう」という話だから、今っぽい。二〇世紀的な「内面の自由を守ろう」とはちょっとフェーズが違うというか……。

 支持を受けるといっても、ハルキ作品の販売はある時期からもう、お祭りですからね。オリンピックみたいなもので、いいもわるいもない。文句を言うやつがいっぱいいることも含めてのイベントになっているので、売れていることをもって純粋に「支持されている」とは、僕は思っていない。

藤田 一番虚実のバランスがヘンだと感じたのは、〈白いスバル・フォレスターの男〉。これは「二重メタファー」とも呼ばれています。宮城県の海岸にいた男で、主人公が若い女性といきずりのセックスをしたあとに「わかっているぞ」的な目で見てきた人ですね。その絵を主人公は描くんだけど、それはなんか邪悪な力を現実化させかねない的な感じで描かれていますよね。宮城県の海岸に、春樹作品の典型、悪の象徴、「やみくろ」の化身のようなものが出てきたということは、東日本大震災を起こした存在だと読みうるようなメタファー的な意味がある。……これ、ヤバくないかな、と。

飯田 石原慎太郎が311後にした「天罰」発言とある意味、通じている気もしますね。もちろん、古来から「自然災害は悪事を働いた人間に対する罰だ」みたいな考えはあるわけですが、やっぱり前近代的な感覚なんだよなあ。

藤田 途中までの書きかけにしたから、震災はこのぐらいの被害で済んだのだ……的含意がもしあるとすれば、むしろ角川春樹的ですらあります(笑)

村上春樹の「土着性」――兵庫の作家として

藤田 もう一つ、これはあんまり指摘されていない印象があるので、ちょっと触れておきたいんですが、村上春樹と出身地である兵庫の関係性って、深いんじゃないかと思うんですよ。ポストモダンの記号化して、生活や現実から浮遊している作風と思われている彼も、作品は、抜きがたく自身の出生地との紐づきがあるのではないかなと

 そう思ったのは、神戸大学で「人文学と批評の使命I」というシンポジウムにお招きいただいたとき、偶然、『騎士団長殺し』を新幹線で読んでいました。その後、阪神・淡路大震災の被災地を巡るために、神戸を歩いたんですよ。それでなんとなく感じるところがあり。

 こういうスカしたオシャレ的な文体や世界観は、割と、神戸人のメンタリティなんですよ。街が人工的で、瀟洒なんですよ。そして神戸人はブランド好きの傾向があるそうです。

 で、イノシシが街にやたら出てくるらしい。本作の主人公も、傷心旅行の途中や家の周りでやたらとイノシシにビビっていますよね。人工空間である神戸・都市・ブランド・記号の世界に、突如闖入してくる「自然」として、イノシシ、震災、ハチは、内的連関を持っているのかもしれないと思いました。

飯田 異国趣味だが同時に土着的な感覚を持っている日本人ってこと? ずいぶん乱暴な議論だなあ……w

藤田 ああいう文体は彼にとって生得的に普通なのかもしれないと思う部分があります。セックス描写やブランド描写や固有名も。そういうリアリティで生活している感じがあるんですよ。そう考えると、「村上春樹の、(逆説的な)土着性」が見出しうるかもしれません。

震災と「二つの世界」

藤田 阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた港の近くにも行ったのですが、同じく被災した作家として有名な谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』の絵が、学校の壁画として書いてありました。

 火災で大きな被害を受けたのは長田というところなんですが、その中学校の最寄り駅からちょうど長田行の電車が走っていて…… 壁に書いてあるのは、長門有希でしたね。

 斎藤環さんの分析によると、ハルヒ世界の、二重に分裂していたり時間感覚やリアリティがおかしくなっているのは、震災のトラウマと解釈できるらしいんですけど、春樹作品と似ている部分あるなぁ……と、少しそこで思いました。『涼宮ハルヒの驚愕』で、二つに分裂した世界を「渡る」キャラクターの存在が描かれていましたからね。

 ハルヒの世界で二つの世界を超えるキャラクターの名前は「渡橋泰水」。今回、二つの世界的なものを超えようとするのは「免色渡」。ハルヒの場合は、「キャラクター」が世界の断絶を超える存在であるという寓意があるのかもですね。

 これは、震災の経験を現在も「過去のものにできていない」人たちと、「それ以外の人々」の断絶をどうにしかしたい、という意図としても読みうるのかな、とは思いました。

飯田 でもハルキは震災の前から2つの世界の分裂を描いているじゃない。

藤田 確かにそうですね。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、脳内と外界で、分断していいのだ、って結末でしたね。2011年より前の『1Q84』は、「愛は分裂を救う」。今回は、さらに先に進んでいる、というか、態度が違う。その意味を図りかねています。

飯田 今回は「他人に『事実なわけねえだろ』とか突っ込まれても無視して自分の記憶や信念を大事に生きれば主観的には満ち足りて生きられますよ」でしょう。

無視する「現実」と無視しない「現実」のバランスの謎

藤田 それにしては、南京大虐殺にわざわざ大きいほうの人数まで出して言及することと整合性がないんですよ。

飯田 いや、だからそれも「確認しようがないから俺はこっちを信じる」話の典型ということでしょう。

藤田 「なかったことにしてしまったほうが、アイデンティティや愛国心に傷がつかなくて済むし、難しいことを考えたり罪悪感を覚えなくて済む」のだから、そうすればいいのに、それはしない。敢えて満ち足りた世界に不快やノイズになるようなものを導入してきている。そこが、不思議。

飯田 それを言ったらキリスト教が「原罪」なる概念を導入したことだって不思議だけどね。

ハルキはさすがに「311はなかった」とは言っていなくて、どこで線引きしているのかはたしかに謎ですね。

藤田 東日本大震災後の春樹作品に対して、期待していたほどの満足感は得られなかったことは確かです。が、なんか捨て置けない不思議さ、不気味さがあります。

「現実はないのだ。他者はいないのだ」的に徹底してもいいのに、そうではない。無視できる現実と無視できない現実とがあり、それがヘンなバランスで内的世界に取り込まれている感じですね。なぜこういうバランスでこの題材を書いたのかそれ自体の謎は、もう少し考えてみたいです。

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