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業界に痕跡を残して消えたメーカー PCとHPCの中間でうまく立ち回ったPyramid Technology

ザテレビジョン のロゴ ザテレビジョン 2017/09/25
業界に痕跡を残して消えたメーカー PCとHPCの中間でうまく立ち回ったPyramid Technology © KADOKAWA CORPORATION 提供 業界に痕跡を残して消えたメーカー PCとHPCの中間でうまく立ち回ったPyramid Technology

 前回のApollo Computer Inc.で思い出したのがPyramid Technologyである。あまり知名度は高くないかもしれないが、今回はここを取り上げたい。ちなみに現在も存在する、台湾のPyramids Technology Corp.とはなんの関係もない。 DECのシェアを奪うべく誕生したスーパーミニコンピューター会社  1981年にPyramid Technologyはカリフォルニアのマウンテンビューで創業した。創業者は旧HPの社員、ということになっているが、実際にはHal Nissleyという起業家が、スタンフォード大時代の友人(でHPに勤めていた社員)の頼みもあって同社を創業したというのが正確である。  もっともNisseley氏は創業後、すぐにCEO兼チェアマンの座を退いており、その後にはRichard D. Dolinar氏が就いている。その他のメンバーとしてはRobert Ragan Kelly氏(技術担当副社長)、Al Gaynor氏(財務担当副社長)などがおり、さらに1985年には元HPのDave Crocket氏を新たなCEOとして迎えており、そういう意味では「旧HPの社員」という表現は間違っていないのかもしれない。  同社が目指したのはスーパーミニコンピューターの市場である。ターゲットは言うまでもなくDECである。ただ同じスーパーミニコンといっても、ConvexやAlliant Computer Systemsなどとはやや異なる。これらのメーカーは「ミニ」スーパーコンピューターを開発しており、一方DECやPyramid、その他多数のメーカーは「スーパー」ミニコンピューターを開発していた。  要するに整数演算か、浮動小数点演算かという話である。市場のパイは明らかに整数演算の方が大きい(もっともその分競争も激しい)。  スーパーミニコンピューター市場に向けてPyramid Computerは1983年、90xシリーズを発表する。CPUは独自の32bit RISC構成で、ボード3枚から構成されていたそうだ。内部はパイプライン化され、命令処理は2サイクル。動作周波数は当初3MHzで、将来的には10MHzまで上げられるとしていた(が、10MHzまで行く前にモデルチェンジしてしまった)。  1MBないし2MBのメモリーボードを最大4枚まで装着可能で、UNIX System Vが動作し、最大構成では128ユーザーの同時利用が可能とアピールされていた。  周辺回路用にはSSP(System Support Processor)と呼ばれるI/O用プロセッサーが搭載され、この先にマルチバスが出ていたらしい。SSPの先にはMC68000ベースの診断システムもつながっていたそうである。  この90xシリーズ、最小構成で9万9000ドルからフル構成で30万ドルという価格であった。これが高いか安いかの判断基準が難しいのだが、例えば同じ1983年にDECのVAX-11/780は18万4000ドル、VAX-11/750が8万4900ドル、VAX-11/730が3万8900ドルというデータがある。  VAX-11/750ではフル構成にしても128ユーザーは多分無理(VAX-11/780でもかなり厳しいだろう)ということを考えると、DECのVAXシリーズよりは多少お値ごろ感はあるかな? という感じだ(もっとも90xシリーズが本当に128ユーザーで使いものになったのか、に関しては不明だが)。  ちなみに発表から半年後の、Computerworld 1983年9月12日号に同社は広告をだしている。 Computerworld誌に出した広告。本格的に売れ始めて、サポートの人員が足りなくなったということだろう Computerworld誌に出した広告。本格的に売れ始めて、サポートの人員が足りなくなったということだろう 画像の出典は、“Google BooksのComputerworld誌”  90xシリーズに続き、1985年にPyramidは9815(1P)~9845(4P)のシステムを提供し始める。こちらは、プロセッサーは90xシリーズの改良型で、動作周波数は7MHzまで引き上げられたが、それよりも最大4PのSMP(対称型マルチプロセッサー)構成を取れるようになったことが大きい。  この3年後の1998年、同社は9815TA~9845TAという改良型を投入する。TAシリーズでは最大7MIPS(9815TA)の性能が出せるとしており、4Pの9845TAでは25MIPSになる、というのが同社の説明である。具体的になにを改良したのかははっきりしないが、Virtual Cache Subsystemをインターリーブ構成にしたことだけはわかっている。  この結果、アプリケーションは従来の98x5シリーズに比べて35~75%高速になり、通信関係は60%~100%高速化したとされている。価格は、エントリー向けの9815TAで12万8000ドルから、ハイエンドの9845TAは42万5000ドルからとされ、この発表に合わせて従来の9815(9815TAの投入に合わせて9810に改称された)は11万ドルに値下げされた。  28%値下げして11万ドルなので、その前は15万3000ドルほどで販売していた計算になるわけで、900シリーズと比べるとずいぶん価格が上がった気もするが、インフレもあったし致し方ないところだろうか。  この頃になるとソフトウェア環境も充実しており、Sybase/Infomix/その他のデータベースやCAD/CAEシステム、生産管理システムなど多数のアプリケーションの移植が進んでおり、それなりに売上も立っていた模様だ。  1985年度のPyramidの売上は3500万ドルで、その前年に比べて3倍の売上だったそうなので、これは急成長といっていい。その後は多少成長率は鈍化したものの、1988年度における売上は7980万ドルで、平均年率30~35%の成長率を維持しているため、1985年度が爆発的すぎただけ、という見方もできる。  もっともこの時期、例えばSun Microsystemsは年率100%の売上の伸びを記録しているので、これに比べるとぱっとしない、という見方もできる。  この成長期を指揮したのが、DataquestのCEOの職をを辞して1985年にCEOになったE. David Crockett博士である。Cockett博士はIBM→HP→Dataquest→Pyramidといった、おもしろい職歴を誇る人物であるが、在任中に新規株式公開も実現しており、やるべきことを全部やったという感じで1987年に辞任、その後はベンチャーキャピタルに転じる。  後任はVerticom IncのCEOだったRichard H. Lussier氏が就くが、彼は1989年にAT&Tの協業を勝ち取ることに成功する。当時AT&Tは独自の3Bシリーズというミニコンを販売していたが、売れ行きはあまり芳しくなかった。1989年の協業により、AT&TがPyramidの従来の製品を販売するとともに、両社は共同で、業界標準のプロセッサーを利用したシステムを新規開発することになる。  これは売上こそ急成長しているものの、まだベンチャー企業から脱皮したとは言い切れない同社にとっては、開発費を自社だけでまかなう必要がないだけでも大いなる福音となる話だった。 AT&Tと協業経営情報システムで業績を伸ばす  AT&Tと協業した1989年からPyramidは新しいシステムを手がけ始めるが、その1989年に投入された、同社にとって3世代目のシステムがMIServerと呼ばれるものだった。CPUはまだボードタイプながら1枚に収まり、10MHz駆動で12MIPSを発揮するとしている。 MIServer。手前がCPUボード。奥に見えるのはキャッシュ(左)とメモリー(右)と思われる MIServer。手前がCPUボード。奥に見えるのはキャッシュ(左)とメモリー(右)と思われる 画像の出典は、“Computer History Museum”  MIServerのハイエンドは12CPUボードを実装し、256MBのメモリーを搭載可能、システム全体では140MIPSに達する、というふれこみだった。  最大構成では11MB/secのデータ転送チャネルを16本搭載、HDDを最大96GB接続可能となっていた。価格のほうも急激に跳ね上がっており、4CPU構成のマシンで70万ドルから、12CPUのハイエンドでは200万ドルからという価格付けになっている。 この筐体1つで6CPUまで対応できた模様 この筐体1つで6CPUまで対応できた模様 画像の出典は、“Computer History Museum”  そもそも名前に“MIServer”とつけるあたりからもわかるとおりMIS(Management Information Systems:経営情報システム)向けであり、ターゲットはワークステーションやスーパーミニコンというよりは明確にIBMのメインフレームの市場である。  1990年には、若干スペックを変更したMIServer T(Turbo)をラインナップするが、CPUに関しては1CPUで14MIPS、12CPUで140MIPSと数字が変わっていないので、おそらくCPU以外の部分のスペックが変更になったようだ。ただ、独自CPUを使っていたのはこの初代MIServerまでである。  1991年、このMIServerはMIServer Sに切り替わる。最大の違いはCPUで、従来の独自CPUから、MIPSベースのものに変更された。利用されたのは33MHzのMIPS R3000Aで、演算性能は12プロセッサー合計で300MIPSに達するという話だった。  NetlibのDhrystoneデータベースを見ると、R3000の33MHzを搭載したマシンのDMIPS値は高くても31 DMIPS程度なので、これをそのまま使うと372MIPSほどになるが、ここまで性能が上がったかどうかは不明である。  とはいえ、10MHz駆動のMIServerやMIServer Tより性能が上がったことは間違いない。しかも性能を上げつつ、エントリー構成で9万3000ドル、ハイエンドで350万ドルとかなりお安くなっていたあたりは、やはり汎用のCPUを使ったためであろう。  この1991年には、AT&Tに加えてOlivettiも同社のシステムをOEM販売する契約を結んでおり、Lussier氏の手腕が光る形になった。1992年にはこのMIServe Sの後継としてMIServer SEも発表する。こちらはプロセッサーを33MHz駆動のR3000Aから37.5MHzのR3002Aに変更するとともに、最大24プロセッサーまで集積する。  ハイエンド構成では256MB Memoryと175GBのストレージを接続するものが、220万ドルとさらにお安くなった。ただしエントリー構成は12万ドルとやや値上がりしている。  1993年にはこれらを置き換えるNileシリーズが投入された。こちらはCPUに150MHz駆動のMIPS R4400を導入し、2~16 CPU構成としたものである。個々のCPUは92MIPSで、最大1400MIPSものシステムが構築できるとしていた。  まず投入されたのが、ハイエンドにあたるNile 150で最大16プロセッサーと4GB メモリー、1TBのストレージ、72のI/Oコントローラーというお化けで、エントリー構成が45万ドルであった。ただこれはさすがにハイエンドすぎると思ったのか、1994年には下位モデルであるNile 100シリーズも用意する。  こちらは最大8プロセッサーに抑えられ、メモリーは2GB、ストレージは250GB、I/Oコントローラーも26とされたが、その分エントリー構成は15万5000ドルまで価格を落としている。 ハイエンドの方向に舵を切って失敗経営情報システムにはオーバースペックだった  このあたりから同社の方向性が少し怪しくなっている。Nile 150シリーズは性能的にMIS向けを超えてスーパーコンピューターの域に達してしまっており、それもあってNile 100でバランスを取ったのだと思ったら、逆にNile 150を大幅に超えるシステムを構築してしまった。それがReliant RM 1000というシステムである。  プロセッサーは200MHz駆動のMIPS R4400であるが、これを2次元Mesh型で接続するというMPP(Massive Parallel Processing:超並列)構成になっている。テストされた最大構成は214ノード(各ノードにはCPU 1つ)で、この中にはNile 150も一緒に組み込まれていたようだ。  下の画像がRM1000の最小構成で、1つの筐体の中に6つのプロセッサーノードと24のHDDが格納される。この筐体を積み上げる形でシステムは構築されたそうだ。 RM1000の最小構成。左右の背の高い、やや手前にはみ出しているのがプロセッサーモジュール、それに挟まれた小さいものがストレージモジュール。ホットスワップ対応だったらしい RM1000の最小構成。左右の背の高い、やや手前にはみ出しているのがプロセッサーモジュール、それに挟まれた小さいものがストレージモジュール。ホットスワップ対応だったらしい 画像の出典は、独マンハイム大学の“Primus Hardwareページ” マンハイム大学は48プロセッサーのシステムを導入したそうだ マンハイム大学は48プロセッサーのシステムを導入したそうだ 画像の出典は、独マンハイム大学の“Primus Hardwareページ”  Nielシリーズなどでよりハイエンドの方向に舵を切った同社だが、状況はあまり芳しくなかった。有価証券報告書での決算値が見つからなかったので、1994年7月1日付の四半期報告書による9ヵ月分の決算を比較する。 Pyramidの1994年7月1日付の四半期報告書による9ヵ月分の決算   1993年 1994年 売上 1億7300万ドル 1億6038万ドル 粗利 7472万ドル 5641万ドル 営業利益 5700万ドル -2128万ドル  特にひどかったのが第2四半期にあたる1994年1月~3月の決算で、この期だけで1597万ドルの赤字を計上している。結局1995年1月9日、Siemens A.Gは同社に買収提案を行ない、同24日に買収が成立した。  もともとSiemensは1994年同社の株を保有する一方で、Pyramidの持つMPPその他の技術のライセンスを受けており、これをベースにMeshineというコード名のシステムを開発すると報じられており、また1995年9月末までにPyramidの株の24%を保有する計画もあったため、それを前倒ししたというところだろう。  買収金額は1株あたり16ドルで、合計2億700万ドルに相当する。先ほど説明したReliant RM 1000は1996年に出荷されたが、これはSiemens傘下になってからの出荷である。先の最小構成写真の左上に“Siemens”のロゴが見えるのは、そういった理由からだ。  残念ながらSiemensはHPCマーケットに興味がなく、それもあってReliant RM 1000の後継製品は発売されないままとなってしまった。  当時Siemensは傘下にSNI(Siemens Nixdorf Information Systems)という子会社(元はNixdorf Computer CorporationというコンピュータメーカーをSiemensが買収した)を抱えていたものの、サーバー市場でのシェアはほとんどなく、それもあってPyramidを買収した形だが、同社の傘下では改めてMISの市場に焦点を当てる形で1997年にSiemens Pyramid Information Systemとして分社化される。  分社後は、引き続き200MHzのR10000を搭載した最大24プロセッサーのRM600シリーズなどを提供し続けていたが、2000年頃から消息が不明となっている。  この時期なにがあったかというと、Siemensは富士通と合弁で、Fujitsu Siemens Computers(FSC)を設立しており、これにあわせて前出のSNIなどもFSCにまとめられてしまっている。おそらくはSiemens Pyramid Information Systemも、このタイミングでFSCに吸収されてしまったのではないかと思われる。  冒頭の話に戻るが、なぜPyramidを思い出したかというと、知人が日本DECに新入社員として入って1年足らずで、そのPyramid Technologyに転職したからである。当時、日本にも支社ができたばかりの頃だったと記憶している。その後の消息は一切不明なのだが、今頃どこでなにをしているのだろうか。

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