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業界に痕跡を残して消えたメーカー VisiCalcに勝ちExcelに負けたLotus社の1-2-3

ザテレビジョン のロゴ ザテレビジョン 2017/04/24
業界に痕跡を残して消えたメーカー VisiCalcに勝ちExcelに負けたLotus社の1-2-3 © KADOKAWA CORPORATION 提供 業界に痕跡を残して消えたメーカー VisiCalcに勝ちExcelに負けたLotus社の1-2-3

 VisiCorpの衰退の原因を作ったのがLotus 1-2-3、という話を連載401回でしたので、今回はそのLotus Development Corporationの歴史を追っていこう。 Lotus 1-2-3 Lotus 1-2-3 IBM-PC向け表計算ソフトで市場を席巻したLotus Development  Lotus Development Corporationは、1982年4月にMitchell D. Kapor氏とJonathan Sachs氏の2人が創業した。Kapor氏の前職は、VisiCorpのHead Development(エンジニアリングのチーフ)であり、在職中に彼はVisiPlotとVisiTrendという2つのソフトウェアを開発している。  連載401回で紹介した通り、VisiCalcそのものを開発したのはSoftware Artsであるが、VisiCorpはそのVisiCalcと連動して動くソフトウェアを開発・販売していた。  VisiPlotはVisiCalcで生成したチャートをグラフィックで出力するもの、VisiTrendは統計分析を行なうためのソフトウェアである。どちらもVisiCalcのアドオンに近い形で動作した。  正確な意味でのアドオン(プログラムの中から呼び出す)は、この当時のメモリー環境では不可能だったので、一度VisiCalcの結果を中間ファイルに落とし、VisiPlotやVisiTrendを呼び出して処理し、VisiTrendでは再び結果を中間ファイルに落としてからVisiCalcでそれを読む、という手間がかかる方式だったが、当時としては画期的だった。 VisiTrendで回帰分析を行ない、その結果をVisiPlotで出力した例 VisiTrendで回帰分析を行ない、その結果をVisiPlotで出力した例 画像の出典は、Harvard Business Reviewの“Computerized Sales Management”  Kapor氏はこの2つのソフトの権利一式をVisiCorpに総額170万ドルで売却、その資金を元にLotus Development Corporationを設立した。そして最初に手がけたのがIBM-PC向けの表計算ソフトウェアである。  設立から10ヵ月間、アセンブラベースで開発を続け、登場したのがLotus 1-2-3(以下、1-2-3)である。 MS-DOS版の1-2-3 Release 3.0の画面。“/”キー(IBM-PC版ではAltキー)を押すとメニューが出てくるという、今から思うとやや独特のインターフェースだった MS-DOS版の1-2-3 Release 3.0の画面。“/”キー(IBM-PC版ではAltキー)を押すとメニューが出てくるという、今から思うとやや独特のインターフェースだった 画像の出典は、“Wikipedia”  1-2-3の強みは、VisiCalcに比べて豊富かつ強力なグラフィック表現、それとシート再計算の高速化であった。またIBM-PCは最大256KBのメモリーを搭載できた(640KBまで拡張されるのは1983年のIBM-PC/XTである)ことで、VisiCalcよりもはるかに広大なシートを利用可能だった。  グラフィックについて加筆しておくと、当初はMDA(Monochrome Display Adapter)しかなく、これは80桁×25行のキャラクターディスプレーのみだったが、IBM自身もすぐにCGA(Color Graphics Adapter)を発売し、こちらはキャラクターに加えて640×200ピクセルの2色表示や、320×200ピクセルの16色表示などが利用できた。  1982年にはサードパーティー品であるHCG(Hercules Graphics Card)が登場しており、720×348ピクセルのモノクロ表示が可能になっていた。  これに対応して、1-2-3では早い時期から拡張ビデオカードに対応するAPIが用意されており、ビデオカードメーカーはこのAPIに対応したドライバーを提供することで、より広大な画面を利用できるようになる、という好循環が形成された。これはだいぶ後の話であるが、こうした拡張が当初から想定されていたのは事実である。  ちなみにこの開発期間の間に、Kapor氏はさらにファンドから合計500万ドル以上の資金を集めることに成功した。これを利用して1-2-3の発売直前の3ヵ月に100万ドル以上をかけて広告を打つことができた。これは1-2-3の立ち上がりに大きく貢献した。実際1982年11月に製品を発表すると、数日間で100万ドル分以上の注文が集まったという。  製品の出荷そのものは1983年1月だったが、その1983年にはVisiCalcをかわし、1-2-3がソフトウェアパッケージとして売上No.1の座に就くことになる。1-2-3のパッケージは495ドルという価格がつけられたが、発売後の最初の9ヵ月で11万本ほど出荷されており、1983年末には売上が5300万ドル、従業員数は250人に膨れ上がった。  この時点で同社は業界No.2(No.1は言うまでもなくマイクロソフト)の規模であったが、翌1984年7月には従業員数は520人に膨れ上がっており、いかに急速に規模が拡大したかわかる。  ただここまで急速に規模が拡大していくと、企業統治をどう行なうかが問題になる。これに備えてKaper氏はMcKinsey&Companyで経営コンサルタントの職にあったJim P. Manzi氏をリクルート。1984年からKaper氏は取締役会議長に退き、会社の経営はManzi氏に委ねられる。  その1984年には1億5700万ドルもの売上を達成、社員数は700人を超えたが、問題は売上が1-2-3に極端に依存していることだった。  もともと1-2-3という名前そのものが、表計算・グラフ作成・データベース管理という3つの機能を持つという意味を持たせたものだったが、実際には単に表計算ソフトとして使われることが多く、その意味では売上こそ大きいものの、財務基盤は脆弱であった。  1983年10月には株式公開も果たしており、ということは多数の投資家により会社の方針が厳しくチェックされ、場合によっては文句を付けられるわけで、そうした投資家に満足してもらうためにも製品の多角化は急務となった。 1-2-3に依存する経営から脱却製品の多様化を目指す  製品を多様化する目的で、1984年からさまざまな会社や製品のM&Aが激しく行なわれるようになった。例えば1984年12月に設立されたIris Associatesは、Ray Ozzieが、タフツ大学在学中に立ち上げた会社で、ここは電子メールと電子会議板をPCの上で動かすシステムを構築していたが、このIris Associatesに出資し、後に会社ごと買収。これはLotus Notesとして製品化される。 (*1)2005年から2011年まで、マイクロソフトの主席ソフトウェア設計を務めた。(*2)ヒントになったのはDECで利用されていたVAX MailとVAX Notesらしい。  あるいはVisiCalcの開発元であったSoftware Artsを買収し、そのうちいくつかの製品を自社のポートフォリオに組み入れている。  統合型ソフトとしてLotus Symphonyを発表したのも1984年である。これはSHEET(1-2-3とよく似た表計算)、DOC(ワープロ)、GRAPH(グラフ作成)、FORM(データベース)、COMM(通信プログラム)をワンパッケージ化したものである。 1985年に発売されたSymphony 3.0の画面。こうした統合ソフトは、「これ1本ですべてのことができてお得」(価格も比較的安めに設定されていた)というものだったが、使い込むとどんどん不満が出てくる中途半端なものがほとんどだった 1985年に発売されたSymphony 3.0の画面。こうした統合ソフトは、「これ1本ですべてのことができてお得」(価格も比較的安めに設定されていた)というものだったが、使い込むとどんどん不満が出てくる中途半端なものがほとんどだった 画像の出典は、Tech Republic“Dinosaur Sightings: Lotus Symphony 3.0”  この統合ソフトというのはこの頃のちょっとした流行であり、Symphonyに触発されたかどうかはわからないが、マイクロソフトもやはりオールインワンのMicrosoft Worksを1987年に発売している。またMacintosh向けには、Claris Worksというオールインワンソフトがやはり1984年に登場している。  また1985年からは、Macintoshの市場にも進出した。最初に登場したのは、そのSymphonyをそのまま移植したかのようなLotus Jazzであったが、開発に難航して2ヵ月遅れで発売されたものの、問題も多く、性能も低いということで、評判はよろしくなかった。  おまけにその1985年に、マイクロソフトはMacintosh向けにExcelの最初のバージョンを発売する。1986年7月までの間に、Jazzは2万本が販売されたが、同じ期間にExcelは20万本が売れている。もう勝負は明らかであった。  とはいえ、全体としてはまだ同社は好調だった。1-2-3は1986年だけで75万本、累計では200万本を出荷しており、競合であるMicrosoft Multiplan(MS-DOS向けのExcelは発売されなかった)の3倍の数を出荷していた。  Excelは有力な競合相手になりえると認識されていたものの、問題はWindowsプラットフォーム(とMacintosh)しかサポートしていないことで、大多数がMS-DOS環境のユーザーだった当時としては、1-2-3の優位は揺るがなかった。  それもあってか、Lotusはさまざなコンピューターメーカーの依頼を受けて、いろいろなプラットフォームに1-2-3を移植する。筆者が使ったことがある例で言えば、SunのSPARCstation上(SunOS 4の時代だったと思う)で動いていた。  他にもIBMなどのメインフレームや、ミニコンピューター/ワークステーション上で動く1-2-3があったらしい。  ただ、こうした多数の機種向けの移植作業が発生すると、どうしてもエンジニアリングは手薄になる。この結果、本家IBM-PC向けの1-2-3 Release 3は開発が大分遅れ、最終的に1989年にやっと発売されるといった問題が出てくることになった。  それでも1989年の同社の売上げは5億5600万ドルに達し、営業利益も6800万ドル近くに達しているので、会社としては順調な時期であったと言えよう。 Windows版Lotus 1-2-3が失敗Macintosh版も出荷延期  Lotusの雲行きが怪しくなってきたのは1990年に入ってからである。1990年に発売されたWindows 3.0や、その後継のWindows 3.1により、MS-DOSからGUI環境への移行の流れができ始めていた。ただこの時は、IBMのOS/2という有力な競合製品があった。  結果から言えばOS/2はWindows 95の競合になりきれなかったのだが、少なくともIBMのこの当時のプロモーションと意気込みはすごいものがあり、Lotusに対しての働きかけもまたすごかった。結局LotusはOS/2版の1-2-3を開発することになり、Windows版への対応がその分後手にまわることになった。  また、この頃Borland InternationalがMS-DOSに対応したQuattro Proという強力な表計算ソフトを発売、Lotusはこれに対して著作権侵害で訴えるものの、1992年に棄却されるなどいろいろ厳しい状況になってきた。  おまけに1990年は、水面下でNovellとの合併交渉まで行なわれていた。これが実現すれば、ネットワークとアプリケーション、ひょっとするとOSまで含んだ、マイクロソフトに拮抗しえる一大企業が成立した可能性があったのだろうが、最終段階でこちらも破談となった。  上層部がこんな調子で振り回されていれば、やはり社内の動きもおかしくなるのは仕方がない。1991年8月に初のWindows版1-2-3をリリースするものの、あまりにひどいバグが多く、9月にディスク交換という形でアップデートする羽目に陥った。  1991年におけるWindows機の出荷は800万台と予想され、Windows版1-2-3は100万本ほど出荷されるだろうとアナリストは予想したにも関わらず、実際に販売されたのはわずか25万本に過ぎなかったという。  またMacintosh版の1-2-3は何度も出荷延期を繰り返し、結果マイクロソフトにシェアを譲る結果になった。トータルすると、1988年に75%だった表計算ソフトのシェアは、1991年末には55%に落ちている。これを受けて、1991年12月には最初のレイオフが行なわれ、400人ほどが職を失うことになった。  もっとも悪いニュースばかりでもない。1990年にLotusはSamna Corp.を買収、同社のワープロ製品をLotus Ami Proとして発売した。こちらの評判はかなり良く、さすがにマイクロソフトとWordPerfect Corporationを凌ぐことはできないものの、それなりに売上に貢献している。  1991年の売上は8億2900万ドルに達している。買収費用などがかさんだ結果として利益率は下がったが、それでも営業利益は3300万ドルほどを確保できている。  ただこの後、1-2-3の売上は次第に落ちていった。Windowsプラットフォームへの移行に手間取り、その間に競合(言うまでもなくExcelである)が大きなシェアを握ったからだ。 インターネット関連ビジネスに傾倒  このあたりからLotusはインターネット関連ビジネスに傾倒していく。まず最初はLotus Notesである。200ライセンス+5日間のコンサルタント、というパッケージが6万2500ドルだったLotus Notesは、1991年だけで11万2000ライセンスを販売している。  これだけでは十分ではないと考えたのか、1991年にはcc:Mail, Inc.を買収、同社の製品をLotus cc:Mailとして販売を始めた。こうしたインターネット関連商品を1991年以降、Lotusの2本目の柱しようと目論んだ形だ。  特にNotesとcc:Mailでは、保守契約やアップグレードサービスといった、大手企業ユーザーとの契約ベースの売上比率が非常に高くなっており、安定した(そして利益率が良い)収入源になっている。  実際1993年の売上は9億8100万ドル、営業利益は5500万ドルほどになっているが、このうち19%ほどはNotesやcc:Mailを販売する、Communications Products and Services部門のものである。ちなみに1992年の売上は9億ドルで、このうち13%が同部門だった。  金額ベースで言えば、1992年が1.2億ドル弱、1993年が1.9億ドル弱というあたりで、けっこう急速に成長しているのがわかる。 Windows 95への対応が遅れ赤字転落IBMに買収される  このまま順調に推移すれば、あるいはLotusは持ちこたえたのかもしれないが、1994年にWindows 95が登場し、1-2-3その他のアプリケーションのWindows 95への対応がまたしても遅れた結果、1994年のDesktop Applications部門の売上が急落する。最終的に売上こそ9億7000万ドルと前年並みを確保したものの、営業損益は2100万ドルほどの赤字に転落した。  1995年にIBMはLotusの敵対的買収を開始する。当時Lotusの株価は32ドル近辺だったのに対し、IBMは1株60ドルを付けた。Manzi氏はこれを拒み、友好的買収先を探すものの名乗りを上げる企業はなく、結局6月に1株64.5ドルで買収は成立。Lotus SoftwareとしてIBMの部門会社になった。  IBMが欲しかったのはNotesやCc:MailなどのCommunications Products and Services部門であり、実際これらの製品はこのあと90年代を通して売上を伸ばしていく。ただ、1-2-3などのDesktop Applications部門の製品もきちんとその後もサポートし続けるのはいかにもIBMらしい。  そうは言っても肝心のOS/2の失敗などもあって、その後も広く使われたとは到底言いがたい状況であり、最終的に2013年にサポートの打ち切りを表明したときには、「まだあったんだ」と驚いたほどである。  それでもいきなり製品ごとなくなるよりは良かったかもしれない。1-2-3の名は消えたが、まだLotusというブランド名はIBMが使い続けており、その意味では完全には消えてないぶん、まだマシなのだろうか? Lotus 1-2-3 98の画面 Lotus 1-2-3 98の画面

業界に痕跡を残して消えたメーカー VisiCalcに勝ちExcelに負けたLotus社の1-2-3

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