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池松壮亮の演技はそろそろ“名人の域”に 『続・深夜食堂』で見せた実力と真価

Real Sound のロゴ Real Sound 2016/10/31 株式会社サイゾー
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 もはや現代日本最高の俳優のひとりと呼んでも過言ではない。池松壮亮が見せる表現に宿った堆積には独自のものがある。

 『MOZU』とは全く違うヒーロー像を構築した『デスノート Light up the NEW world』では、Lの遺伝子を継承した者、というやや無理のある設定を、Lという一世一代の当たり役をものにした松山ケンイチとは真逆のアプローチで、繊細にリアルに積み上げ、きわめて映画的な哀しみを体現したが、今年、それ以上に刮目すべきは、『海よりもまだ深く』と『永い言い訳』だった。

 『海よりもまだ深く』では、探偵、阿部寛の後輩役なのだが、単に年少の相棒というポジションを超えて、阿部の支えになり、同時に、このキャラクターの家族体験の欠落をごく短いシークエンスで端的かつ濃厚に伝えつつ、作品全体のバランスは微塵も崩さず、むしろ阿部扮する主人公の精神の陰影を浮き彫りにするという、脇役としては最良の芝居を披露していた。  一方『永い言い訳』では、ねじれた神経の小説家の、若い担当編集者を演じた。ここでも、年齢を超えて、主演、本木雅弘の保護者のような役どころを、ある種の寓話性も湛えながらイマジネイティヴにあらわした。『海』よりもさらに一歩踏み込んだ抽象的な演技は、もはや映画そのものの世界観=ルールさえかたちづくっていた。  それは監督の演出だ、という見解は成り立つかもしれない。が、是枝裕和なり、西川美和なりの要求に、ここまで精緻に、ここまで豊かに応えられる俳優が、いま何人いるというのだろう。  熱演やら力演やらからは限りなく遠ざかっている。さり気ない、というレベルさえもとっくのとうに超越している。現在の池松には風格を通り越した老成が感じられるが、池松壮亮的な達観の下に若さを演じるとどうなるか。それが『続・深夜食堂』最大の見どころである。  前作同様、3つのエピソードで構成されており、池松が登場するのは真ん中の「焼うどん」と題された物語。ここで彼は、夫に先立たれ、子離れできない母親を持つ青年に扮し、母親に年上の恋人をなかなか紹介できない心模様をさらりと表現している。  この青年は蕎麦屋のひとり息子なのだが、その出前の途中に、棒付きアイスを食べるくだりから、挿話は始まる。このファーストシーンがとにかく素晴らしい。

 おもむろな動き。フィクションと日常がふと遭遇したことによってもたらされる、魅惑的な軋みを池松はかたちづくる。いかにもな自然体ではない。むしろ、この青年の心象をにじませるための必然としての芝居を、どうすれば押しつけがましくなく成立させられるかを突き詰めた果ての、澄みきった情緒が転がっている。

 情緒を転がす。池松壮亮が近年ますます磨きをかけているこのアプローチが、『続・深夜食堂』のひとり芝居では存分に味わえる。いま、スクリーンに登場したばかりの、この青年が、なにを諦めていて、なにを諦めていないかを、アイスを食べるという行為を通して、ごく数秒で観る者に理解させる。  池松壮亮の演技には、なんとなく、という部分がほぼ皆無だ。が、その綿密さが息苦しさを招くことが一切ない。だから、情緒を転がす、という、優雅にして非凡な技も行使できる。この冒頭場面だけでも『続・深夜食堂』は必見に値する。  その後、この青年が、友達を前にしたとき、恋人と一緒にいるとき、そして母親と口論するとき、それぞれ、どんなふうにそこに居るか。その推移を体感するとき、わたしたちは池松壮亮の実力と真価を知ることになるだろう。  無数の情緒を転がしながら、しかし、転がしている存在=役は常に一定。この青年は、とても優しく、そして未熟である。だが、優しさも、未熟さも、ほんとうは演じ手の透徹した視点がなければ、スクリーンには立ちあらわれないのではないか。  池松壮亮は、そんなことさえ考えさせる。『続・深夜食堂』は落語を思わせる映画だが、この俳優はそろそろ名人としての噺家の域にさしかかっているのかもしれない。(相田冬二)

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