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注目すべき“90年代生まれ”の監督たちーー中村祐太郎、甫木元空らは新たな監督像を築き上げるか

Real Sound のロゴ Real Sound 2016/12/30 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

 さて、前回は1980年代後半生まれの映画監督たちを取りあげて、彼らが目指そうとしている新しさについて考えてみたけれど、今回は彼らに続く世代、90年代生まれの監督たちを紹介することにしたい。2015年から16年にかけて、自主上映や企画上映などのかたちを除き、作品が一定の期間劇場で公開された90年代生まれの監督たちはざっとこれくらいいた。 ■1990年代生まれ

小林勇貴(『孤高の遠吠』) 90年生まれ 

渡辺大知(『モーターズ』) 90年生まれ 

中川龍太郎(『走れ、絶望に追いつかれない速さで』) 90年生まれ 

中村祐太郎(『太陽を掴め』) 90年生まれ

竹内里紗(『みちていく』) 91年生まれ

酒井麻衣(『いいにおいのする映画』) 91年生まれ 

二宮健(『SLUM-POLIS』) 91年生まれ 

甫木元空(『はるねこ』) 92年生まれ 

仲村颯悟(『人魚に会える日。』) 96年生まれ

 それは2015年初夏のことだった。試写で観た竹内里紗監督の『みちていく』があまりにすばらしかったので感想をツイートしたところ、何日か経って作品の関係者から連絡があった。ツイートの文言を公式サイトなどで使用したいという許諾確認、そして上映期間中に開催されるトークイベントへの出演依頼だった。断る理由なんてない。イベント当日、メールを通じてやりとりしていたその人物と初めて顔を合わせることになり、彼が普段は会社勤めをしながら、あくまで自主的に作品の宣伝に協力していることを知った。その時、映画にもっと関わっていきたいのだと熱意をみなぎらせて話していた彼が髭野純だった。  再び彼から連絡が入ったのはちょうど1年後、2016年の初夏だ。メールを開くと、そこには彼が以前勤めていた会社を辞め、私財をはたき、フリーランスで映画をプロデュースしていることが書かれていた。件名にはこうある。 「『太陽を掴め』製作のお知らせ」  髭野がプロデュースしていたのは中村祐太郎監督の劇場デビュー作『太陽を掴め』だった。東京学生映画祭で二度のグランプリ受賞、MOOSIC LABでもいくつかの賞を受賞してきた中村祐太郎は、すでにインディペンデント映画界で一目置かれる存在だった。彼がそれまでの作品で切り取ってきたのは殺伐とした等身大の世界だ。15年、多摩美術大学の卒業制作作品として作られた『雲の屑』は、地方都市でマルチ商法に手を染める若者たちの階層化された社会を、えげつない暴力と愛のないセックスによって浮かびあがらせた。14年の『あんこまん』も、闖入者によって生活をかき乱される20代後半女性の姿を通して、若者の閉塞感に焦点を当てているのは同じだ。おそらくその息苦しさは彼の、そして彼らの世代の紛れもない現実なのだろう。でも彼はそんな窮屈な場所にほんのわずかな愛を見出そうとする。  『太陽を掴め』もまた、殺伐としたこの世界にかすかな愛の手ざわりを探る物語だ。ミュージシャンの青年を中心に、彼の同級生だったフォトグラファー、その恋人だった女の3人が織り成す青春群像を描くこの作品は、しかしこれまでと比べてひりひりした現実の描写が手ぬるく、中村らしい過酷で切実な世界観の構築にはいまひとつ及んでいないかもしれない。だが、主人公が女に愛を告白する瞬間、この作品はふたりが閉じこもった薄暗い押入れのなかを、驚くべき唐突さで満点の星空へと変えるイリュージョンを見せてくれる。果敢な一点突破とでもいうのか、この純粋極まりないシーンの存在によって、『太陽を掴め』は中村祐太郎の「次」を観る人に期待させる作品になった。新人プロデューサーとしてキャリアをスタートさせた髭野にとって、これはどのような作品になっただろうか。  中村と同様に多摩美術大学の卒業生である甫木元空(ほきもと・そら)監督の劇場デビュー作『はるねこ』は、「劇場体験」を念頭に置き、脚本の段階から音にこだわって作品作りが進められたという。実際、できあがった作品を観れば、なによりもまずその音の多層的な響きに心を奪われる。舞台となるのは緑深い森のずっと奥。そこでは生と死の境目がぼやけ、生者のものとも死者のものともつかない声が共鳴し、幻燈会と称される集いにやって来た人々の歌や演奏がときおり重なりあう。ボーンボーンと時を刻む振り子時計、画面外の何者かがささやくヒソヒソ声、ハハハという哄笑、遥か彼方の銃声、爆発音、そして何度となくくり返されるこのフレーズ。 「がっしゃんどん」「がっしゃんどん」  宮沢賢治的とも、寺山修司的ともいえるその世界で、観る人は不思議な見世物小屋に迷い込んだような体験をするだろう。  甫木元みずから音楽を手がけ、歌い、ギターやマンドリンを演奏しているところがそもそもユニークだ。本作上映時のイベントでは劇場で生歌を披露し、東京学生映画祭で準グランプリを受賞した多摩美大の卒業制作作品『終わりのない歌』でも、エンドロールで彼みずからギターを弾き語るパフォーマンスを見せたというふうに聞いている。直線的で閉じられたひとつのストーリーを提示する作品ではない。そのポリフォニックな音や声のつらなりから、観る人それぞれがどのようなストーリーを紡ぎだすか。野心的な作品だ。  中村も甫木元も、これまで日本にはいなかったタイプの監督像を、新たに築きあげる可能性を秘めている。甫木元の多岐にわたる活動はもちろん、中村も自身の監督作品に役者として出演し、例えば『雲の屑』では「小男」を名乗る役柄で他に代えがたい存在感を発揮していた。世代的な傾向としてくくるまでもなく、SNSを通じて監督が宣伝に関与し、多くの人たちと直接的にコミュニケートしていく新たなDIYの時代には、かつてと違う作家性とでもいうべきものを有した監督がいつ誕生してもおかしくない。その点、見事な自作自演ぶりで16年に最も鮮烈なインパクトを残したのは『花に嵐』の岩切一空(いわきり・いそら)監督だ。92年生まれの彼は、PFFアワード2016で準グランプリを受賞したこの監督作にみずから主演し、笑いと驚きが噴出するセルフ疑似ドキュメンタリーを作りあげた。  大学入学後すぐ、かわいい先輩女子が勧誘する映画サークルに入った冴えない主人公は、部室のカメラを借りて身の回りのできごとを撮影しはじめる。ところがある日、彼は気づいた。どの映像にも謎の美少女が映りこんでいることに。そして映画サークルの一員らしい彼女に付きまとわれるうち、彼は未完成に終わった作品『花と嵐』の続きを撮るよう依頼される。まず特筆すべきは、節々に挿入されるテロップなどの作りこみが尋常でなく可笑しいこと。続いて主人公が次から次へと新たな事態に巻き込まれていくさまを、ある時は心霊ホラー、ある時は冒険アクションのような趣向を凝らして、テンポよく見せていく手際が半端なくいい。加えてエロもある。 「ヤりたいからヤるんだろう?」  謎の美少女はたびたび主人公にこうささやきかける。でもこの言葉は、エロのニュアンスを含みながら、実は青春期の若者たちを次の一歩に駆り立てる力強い一言になっている。だから観終わった後、胸にあふれるのはなんてすばらしい青春映画だったのかというこみ上げるような思いだ。いまのところ上映はPFF関連のイベントなど企画上映のみ。晴れて劇場公開された暁には、この突然変異的に生まれた一作を見逃さぬよう、みなこぞって映画館へ足を運ばなければならない。  思えば16年は小林勇貴監督の『孤高の遠吠』を観て、そのとんでもない面白さに打ち震えることから始まった。今後さらに続々と登場する90年代生まれの監督たちのなかで、いち早く抜け駆けするのはいったい誰だろう。(門間雄介)

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