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石川慶監督の登場は、日本映画史における“事件”だ 荻野洋一の『愚行録』評

Real Sound のロゴ Real Sound 2017/02/28 株式会社サイゾー
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 最近の満島ひかりを見ていると、もはや単なる“美人女優”というカテゴリーに収まりきらないで、ミュータントとかアバターとかヴァンパイアとか、そういう超人的な領域の中へとさまよい出てしまっているようで、じつにスリリングである。彼女は、放送中のTBS系ドラマ『カルテット』で寄る辺なき怠惰さをたたえた美女を妖しげに演じて、私たち視聴者を魅了している真っ最中だけれども、新作映画『愚行録』を見ると、いきなり警察の留置所に収監されている。容疑は赤ん坊の育児放棄。3歳となる彼女の娘は衰弱しており、意識不明の重体である。 参考:満島ひかり、名演技の秘訣は“目の使い方”にアリ 気鋭の演出家が分析  私たち人間の生というものは、私たちの生きる環境がセレブリティだろうと細民だろうと、つねに陰と陽のあいだを往来している。将来への不安、待遇の不公平感、嫉妬、焦燥、そういうものがグルグルと渦巻いているはずだ。歩きスマホの緩慢な歩行者に苛立ったり、隣の乗客の口を手で押さえないクシャミに激怒したりする。でもこのネガティヴな感情を貯めこむことなく手なずけ、上手に発散しながら前進していくことが、大人のたしなみでもある。いたずらにネガティヴィティを培養してみせたりする感性というやつは、社会の鼻つまみものである。  でもそれがダムの決壊のように、どうしようもなくメルトダウンしてしまうケースがある。そうしたネガティヴィティの専制とも言うべき状況を、日本映画はつねに見つめてきたし、その分野では日本映画は他国の追随を許さないと言っても過言ではない。  『愚行録』を見始めてまず思い出されたのは、黒澤明監督によるサスペンスの傑作『天国と地獄』(1963)だ。あの映画における「天国」とは、横浜の三ツ沢あたりの高台にある三船敏郎と香川京子の夫婦の高級住宅である。そして「地獄」とはこの住宅の眼下に広がる浅間下(せんげんした)あたりの貧民窟である。貧民窟で鬱屈する犯人(山崎努)はネガティヴィティの専制によって精神を支配されるままに、児童誘拐をはかる。  『愚行録』の世田谷一家皆殺し事件の舞台となったのは、やはり斜面の上に建ち、路上の部外者からは居丈高にそびえる一軒家である。週刊誌の記者である主人公・田中(妻夫木聡)は、1年前に発生したまま迷宮入りとなったこの一家惨殺事件をふたたび記事にしたいと編集長に噛みつき、無理やり取材の許可を取る。そして彼の眼前で寒々しくその姿を晒すのが、この斜面に建つ住宅である。警察によって「KEEP OUT」のビニールテープが張りめぐらされ、まがまがしい空気を今なお放ってやまぬこの住宅の前で、田中はカメラのシャッターを切り始める。画面からは嫌な空気の匂いが立ちのぼっている。  映画冒頭のファーストカットがすばらしい。降り始めたばかりの雨粒が都営バスの窓を細かい滴でわずかに濡らしつつある、ねずみ色の空模様。カメラはスローモーションの中、バスの車窓を外側で回り込んでいき、緩慢なリズムと不気味な音楽と共に、主人公の・田中の陰鬱な表情をとらえる。立っているお年寄りに席を譲るように中年サラリーマンから叱責された田中は、仏頂面のまま席を立つ。すると車内で転倒し、足を引きずって障がい者に扮して見せ、乗客一同を恥じ入らせる一芝居を打つ。じつに嫌らしい始まり方だ。田中が向かう先は警察署。留置されている妹に面会するためだ。その妹が前述の満島ひかりなのである。  「知っていますか? 日本は格差社会というけれど、ホントは階級社会なんですよ」。週刊誌記者の田中が被害者一家の友人関係を洗い出し、聞き込み調査をする中で、誰かの口からそんなセリフが発せられていた。恵まれた家柄の者たちと、地獄の中を這いずり回る幼年時代を過ごした妻夫木聡と満島ひかりの兄妹とのあいだでは、「天国と地獄」のあからさまな視界の上下をもっていた。田中記者が、いやその1年前には、殺人犯が路上からエリート一家の居丈高な高級住宅を、あたかも黒澤『天国と地獄』の山﨑努のように見上げていた。  慶応大学のパスティーシュとおぼしき名門「文応大学」の付属校からエレベータで上がってきたブルジョワ学生の別荘の庭には極端な高低差がしつらえられ、付属から上がってきた「内部生」たちは庭の上部、「外部生」は下部で遊んでいた。この上部と下部を往来する人物が2名描かれる。この2名が上下往来の悲劇を演じてしまうことになる。  本作が長編デビュー作だという石川慶という聞き慣れない名前の監督は、名匠アンジェイ・ワイダやイエジー・スコリモフスキなどを輩出したポーランド国立ウッジ映画大学の出身という非常なる異端である。石川慶監督は述べる。 「『愚行録』の世界をF・スコット・フィッツジェラルド著『華麗なるギャツビー』のように僕は捉えていた。(中略)底辺から這い上がろうとした人間がたどり着いた先の悲劇であって」  『華麗なるギャツビー』はレッドフォード主演版(1974)にしろ、ディカプリオ主演版(2013)にしろ、眼前にひろがる視界をめぐる劇であった。特にディカプリオ主演版が湖面の向こう側に明滅する光という水平の視界と、極端な高低差の視界を設けていたのと同様、『愚行録』も上下の往来によって招かれる悲劇を、じつにスリリングにカメラにおさめてみせた。撮影には、監督のポーランド時代の友人で、クシシュトフ・ザヌーシなどの撮影に携わってきたピオトル・ニエミイスキが当たった。日本映画のカメラを東欧の技術者が担当するというこの意表を突いたスタッフィング。そしてその陰鬱な画面は、ポーランド映画史にその名を刻むクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『殺人に関する短いフィルム』(1988)を思い出させるくすみっぷりである。 「カメラマンを海外から呼んでも、グレーディング(色彩補正)を日本でやると、日本の湿度感の画になってしまうんです。だから今回はカラリストも『イーダ』(2013 パヴェウ・パヴリコフスキ監督)というポーランド映画と同じ人にお願いして、人の顔の肌など細かく調整してもらいました」(石川慶監督 談)  全体に陰鬱な画面に覆われる現在シーンに比し、加害者や被害者たちの大学時代は、あざやかな色彩に包まれる。もちろんそれは青春のあざやかさだろう。しかし今、聞き取り調査に応じた彼ら彼女らは30代となっている。被害者となった夫の学友たち、会社同僚、妻の「文応大学」の同級生たち——彼ら彼女らを演じるのは、彼ら自身だ。つまり1980年代半ば生まれの俳優たち——小出恵介(夫役)、市川由衣、眞島秀和、松本若菜(妻役)、臼田あさ美、中村倫也、そして満島ひかりの学生時代も——が若作りの変装をして、彼らの回顧の中の大学生役を演じているのだ。そのため、大学生たちのことごとくが本当の若者というより、彼ら自身の記憶の中でたゆたう擬態でしかない、という事実があからさまとなる。  日本社会の歪み、ゆがみを、時空間を縦横に飛びながら、極端な高低差がかもし出す不快さを凝視しながら、じわじわと移動する気味の悪いポーランド的なカメラワークでとらえる。これは日本映画史において、かなり異端的な事件ではないか。こういう無茶な、薄気味悪い映画が、満島ひかりや妻夫木聡といった豪華なキャスティングのもと、メジャーとして実現したことが興味深い。  ひたすら緊張を強いる本作で、数少ない安逸をもたらすシーンは、ふたつ。ひとつ目は、満島ひかりが精神鑑定を受けるシーンの白い壁と明るい陽光の部屋。彼女はみずからの狂気、不幸せと向き合っている時が、最も安逸を感じているようである。そして安逸をもたらすもうひとつのシーンとは、妹・満島ひかりと兄・妻夫木聡の面会シーン。アップとアップの切り返しにおいては、もはや面会室のガラス板がいつのまにか忘れられ、取り払われている。無媒介的に兄と妹が顔と顔を突き合わせて語り合っているかのように、ピオトル・ニエミイスキは切り返しショットを重ねていく。精神科の診察室と留置所の面会室が最も安逸をもたらす空間であるという倒錯と悲しみとを、私たち受け手は、自分たちの生の中にも内包しているかも知れない暗部として、甘受していかなければならないだろう。(荻野洋一)

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