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荻野洋一の『エリザのために』評:クリスティアン・ムンジウの映画とは“負ける映画”である

Real Sound のロゴ Real Sound 2017/01/31 株式会社サイゾー
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 生活が苦しい。仕事が苦しい。社会との駆け引きが、家族との絆が、妻(夫)との不仲が苦しい。人生は本当に厄介で、難しく、こんなはずではなかった。子どもの頃はもっとシンプルに、結婚や出産、育児、出世、昇給についてがんばれば何とかなると考えていたのに。しかし、どれひとつ取っても、満足に値するレベルまで届く分野など、自分にはないではないか。  映画『エリザのために』は、そうした平々凡々とした、どこにでも転がっている生の厄介さを、ロメオという一人の父親(夫)に密着マークして撮りあげた、ヒリヒリと心が痛くなる作品である。「ボヴァリー夫人は私だ」と述べたという小説家ギュスターヴ・フローベールではないが、私たちはこの映画を見ながら、「ロメオは私だ」と心中叫ばないとすれば、その人はよほどの聖人君子か、よほどの鈍感か、そのどちらかだろう。  監督のクリスティアン・ムンジウは東ヨーロッパの国ルーマニアの出身で、長編第2作『4ヶ月、3週と2日』(2007)でカンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドールを獲得し、世界の第一線に躍り出た。ここ10年ほど、ネッツァー、ポルンボユ、プイウなど、ルーマニア・ニューウェイヴと呼ばれる映画作家たちの活躍がヨーロッパで目を引くが、クリスティアン・ムンジウはその中心的な存在と言える。第3作『汚れなき祈り』(2012)もカンヌで脚本賞&女優賞のダブル受賞、第4作である本作も監督賞を受賞し、ベルギーのダルデンヌ兄弟やトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイランと並ぶカンヌ・マスターのような存在になっている。しかしあまりの順調なキャリアゆえに、「ヨーロッパで評価されやすい映画、国際映画祭で賞を貰いやすい映画」と当てはめられてしまう評価も散見される。  イギリスの『タイムアウト』誌による「ダルデンヌとハネケを合わせたよう」という評言は、まさにクリスティアン・ムンジウの作品がどのように受け取られているかを雄弁に物語る。ダルデンヌ兄弟もハネケもカンヌなどヨーロッパの名門映画祭で無類の強さを誇る映画作家たちで、賞獲りの上手さを皮肉ってもいるのかもしれない。手持ちカメラによるリアリズムは、ダルデンヌ兄弟に通じるし、事実この『エリザのために』の共同プロデューサーにダルデンヌ兄弟がクレジットされているのだ。  そう見ると、何だか出世主義者の抜け目ないやり口につき合わされるようで気が滅入ってくるのだが、それに対する処方箋は、作品そのものを見ることの中にしかない。主人公の取るあらゆる行動、“よかれ”と思って下した判断がことごとく事態を悪化させ、複雑化させていく。ロメオは娘エリザの英国ケンブリッジ大学への留学が叶うよう、試験採点の不正を友人のツテを使って画策するし、妻子がありながら、35歳の未婚の母と不倫してもいる。この男に共感する観客はひとりもいないだろう。でも、彼の犯した間違い、彼の取りつくろう嘘、時間稼ぎ、後悔の涙、その喜怒哀楽のすべては、私たち観客自身のものである。共感はしないけれども、いつのまにか共同歩調をとっている。それが、この『エリザのために』という映画のもつ魅力であり、悲しさであり、滑稽さでもある。この映画の抱える悲しみも滑稽さも、私たち自身の悲しみであり、滑稽さである。  堕胎についての女性の生々しい自己保身の記録『4ヶ月、3週と2日』もそうだったが、ムンジウの映画には容易に出口が見つからない。登場人物の行く手はつねに八方ふさがりであり、彼らはつねに七転八倒している。彼らは決して清廉な生き方を選べておらず、うさん臭い生き方のツケを支払わされている格好だ。  それにしても主人公のロメオはなぜ、あらゆる犠牲を払っても娘をケンブリッジに留学させたがっているのか? それは彼自身が述べていたように、ルーマニア革命の挫折ゆえである。1989年の革命でチャウシェスクの独裁体制が打倒され、ロメオと妻は1991年に希望を胸に亡命先から母国ルーマニアに帰国したのだそうだ。だが、民主化運動は停滞し、共産主義時代以上に絶望的な汚職と不正のはびこる社会になってしまった。「自分たち夫婦のようになってほしくはない」とたびたびロメオは娘のエリザに向かって、懇願するように言い放つ。愛する娘のためなら、自分の手を汚すのを躊躇わない。その思いつめた心情だけは、どうやら本物だ。  突破口はあるのか? 映画作家は突破口をあざやかに提示することを拒否する。そして彼の映画それじたいが、いかなるアクロバットもウルトラCも有していないのである。世の中には、どうしようもなく映画の原理が丸裸のまま露呈してしまうというような映画と映画作家が存在する。それは天才による仕事である。私たち観客は彼らの営みを裸形の形で祝福したり、ブーイングを浴びせさえすればいい。しかし、ムンジウの映画はそうではない。彼の映画は愚直なまでにリアリズムを追究し、愚かな登場人物に寄り添うことをあきらめない。アクロバットもウルトラCもない。弱者に寄り添い続け、また映画の理想からも隔てられた“映画弱者”による映画なのだと言っていいのではないか。  娘のエリザ役を演じた女優のマリア・ドラグシがインタビューで語った、次の言葉がヒントを与えてくれている。 「父はルーマニアからの移民で東ドイツに行きました。母はドイツ人で、ドイツに生まれ育った人です。自分がドイツ人なのかルーマニア人なのかははっきりとは決められないです。ルーマニアのほうが家族のつながりが強いというか、汚職もそんな土壌から出てきているのですが、“私があなたを助けるから、あなたは私を助ける”というような関係があるんです。人々が頼りあって生きている。人々の絆は強まるけれど、逆にあなたの助けはいらないと断ることができないというか……」  人間関係の濃密さが汚職の土壌になっているという彼女の証言が間違っていないとすれば、これは根が深いだろう。映画それじたいが汚職や不正を告発しながら、同時に、それらに手を染める当事者たちにどことなく同情的な視線をむけるという矛盾を同居させてしまう。  マリア・ドラグシは続ける。 「昨晩、父と一緒にこの映画を見たのですが、父は自分も映画の中の父親がやったことを自分もやるに違いない、と言ったのです。世界の誰もが共感できる物語なのだと思います。父親がなぜあんなことをするのか、誰もが理解できると思います」  それにしても、私たち観客はそうしたズルズルベッタリな同情論にとどまろうとは思わないだろう。ほんとうに突破口はないのか? しかし、作者はそんな突破口はない、と画面全体で全否定し続けている。あらゆる行動が裏目に出ても、地獄絵図の様相を呈しても、ウルトラCは、ない。彼が最後にできることは、放置しかないようだ。しかしそれは責任を放棄してしまったそれではない。進退窮まったあとに、肝心かなめの娘がおずおずと打ってくる次の一手を、信頼と容認をもって受け止めてみること。支配権を放棄し、娘の主体的な一手に希望を(嘘でもいいから)見出すこと。  そして作品そのものも、アクロバットもウルトラCもないリアリズムの陥穽(かんせい)からのいっきの突破口を夢見るのではなく、愚直にカメラの眼とマイクの耳の力に全的な信頼を置きつつ、いま生起しつつあるカメラ前の現実を甘受するしかない。そういう意味では、クリスティアン・ムンジウの映画とは、負ける映画である。打ち砕かれ、大恥を掻かされ、進退窮まり、それでもカメラは回り、マイクは彼(彼女)の荒い吐息を録音し続けている。  ここに現れる揃いも揃って愚かで、現実容認的で矮小な一群の人間どもを見つめ、その人間どもを甘やかすでも許すでも、断罪するでもなく、ただ見つめてあげて、彼らの破滅の滑稽さに帯同してあげて、そしてそれをカメラの眼とマイクの耳で、ちゃんと跡付けてあげる。その一瞬一瞬に、やっぱりほら、映画が自然と起ち上がってくるではないか。天才の仕事ではなくても、こうやって、しっかりと芽が出るというのを確かめることほど、私たち受け手を勇気づけることはないのではないか。(荻野洋一)

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