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荻野洋一の『バンコクナイツ』評:空族が描いた“桃源郷”は、未知の体験へ観客を誘う

Real Sound のロゴ Real Sound 2017/03/18 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

 『バンコクナイツ』には、味わったことのないような香辛料が混入していて、私たち観客を未知の体験へと連れて行ってしまう。私はこの映画を2度見た。正直に告白すると、1回目はあまり好きになれなかった。つまらないわけではない。それどころか、これは世界の現代映画において最先端を走っている作品である。監督・脚本の富田克也、共同脚本の相澤虎之助らが組織する自主製作&自主配給集団「空族(くぞく)」の前作にして、フランス・ナント三大陸映画祭でグランプリを受賞した『サウダージ』(2011)は異形の大作だったが、今回の3時間2分におよぶ新作『バンコクナイツ』ではさらに表現の幅と深みが増して、すでに古典のような風格さえただよわせる。  にもかかわらず不肖私が当初つまずいてしまったのは、ひとえにバンコクの日本人向け歓楽街「タニヤ通り」の売春店に巣くう日本男児たちに対して嫌悪感のようなものを抱いたからだ。もし自分がドロップアウトしたとしても、「タニヤ通り」には向かわないだろうと思った。この肉欲ずくめ、拝金主義ずくめの楼閣にはまったく用がないと思った。もちろん女郎と女衒のあいだに真心がまるでないとは思わない。ただ、彼ら日本人男性たちはドロップアウトして異国の地で野卑に振る舞ってはいるけれども、日本人同士で固まって生き、日本語しか解そうとしない。登場人物のひとりが言っていたように「タイ語なんて片言くらいがちょうどいいんですよ。(タイの女たちとセックスするためには)タイ語なんて邪魔なくらいです」といったたぐいのクローズドなサーキットが、この映画の前半を規定している。いや、規定しているどころか足を引っ張ってさえいるのでは、とじつに短絡的な疑念を私は抱いてしまったのだ。男たちはおのおの日本社会に息苦しさを感じ、この南国の楽園にずらかってきたのだろう。しかし誰かが「日本に自分の居場所はない」と言っていたように、彼らは孤立を恐れる。そして異郷に自分たち仕様のムラを作りあげてしまう。  ところで2回目の鑑賞を終えた今、私がどういう状態にあるかというと、中毒患者のそれである。1回目からすると、まさに180°の転換となった。『バンコクナイツ』について来る日も来る日も思いをめぐらせ、シーンというシーンを反芻し、サウンドトラック盤をはじめとして、この映画に参加したミュージシャンたちのCDをポツポツと買っては、「空族」のメンバーがいかにしてこれらの音楽シンジケートと知遇を得ていったのかを追体験し、最寄りのタイ料理店に通って、タイ東北部の極辛料理に挑んだりしている。そんな滑稽なミーハー状態に陥ってしまった。最初の辛辣なる鼻息はどこへ行ったのやら。  本作の3時間2分という上映時間が、なんとも絶妙である。長尺なのにまったく長さを感じさせないという不思議。画面のテンポはときに小気味よく進み、ときにのどかに停滞したりして、その緩急のリズムゆえに長さを感じさせない仕組みである。3時間2分というと、マイケル・チミノ監督がベトナム戦争に出征した若者たちの地獄行を悲愴に描いた『ディア・ハンター』(1978)の3時間3分にだいたい匹敵する。あちらはベトナム行、こちらはタイ行である。ただ、見ていくと判明してくるのだが、『バンコクナイツ』はベトナム戦争の傷跡が、ベトナム戦争の黒い影が色濃く残っている作品である。  バンコク「タニヤ通り」を舞台とするわさわさとした群像劇から、一組のカップルが脱出を試みる。女はタイ人娼婦で、「タニヤ通り」の人気店「人魚」のNo.1、ラック(Subenya Pongkon)、男は元自衛隊員の風来坊オザワ(富田克也監督がみずから演じている)。オザワが商用でラオスに行くことになると、口では不平だらけだがどうやらオザワに惚れているらしいラックも同行することになる。彼女の故郷がタイ東北地方、ラオスとの国境の町ノンカーイだから、帰省をよそおった逃避行である。  映画はこのノンカーイへの道行き以降、突如として摩訶不思議な魅力を発揮し始める。ノンカーイでオザワは数度にわたって幽霊と出会う。殺された反体制派詩人チット・プーミサックの幽霊や、夜のジャングルに呆然と現れるベトコンたちの霊である。チット・プーミサックを演じているのはタイの伝説的なシンガー、スラチャイ・ジャンティマトンである。スラチャイ氏は、短命に終わった民主政権下でのダム建設問題を描いたドキュメンタリータッチの作品『トーンパーン』(1976)を、その後は名匠となるユッタナー・ムグダーサニットらと共同で監督している。右派クーデタのあと、『トーンパーン』の製作チームは逮捕された。  ラックと再会を誓ってノンカーイを去ったオザワは、メコン川の向こう側、ラオスの土地に入っていく。そこでは、戦争がつくり出した「闇の奥」が大口を開けて待っているかのようだ。ベトナム戦争時にアメリカ空軍が落としていった爆撃跡が、巨大な穴となって今も手つかずとなっている。映画の冒頭で娼婦ラックが「Bangkok, shit!」と舌打ちしたのは、フランシス・F・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979)のマーティン・シーンの「Saïgon, shit! I’m still only in Saïgon….」というセリフからのイタダキである。この「shit!」という舌打ちによって、地獄行は秘かに口火を切ったのだ。オザワがメコン川を越えてラオス領内に入ったとたんに、相思相愛だったはずのラックへの連絡を怠るようになる。これは「闇の奥」へとまぎれ込んでいく道程ゆえの音信不通なのだろうか。  いや、この音信不通ぶりこそ本作の真の主題であると、私は推測している。ここではもちろん書かないが、本作の結末はじつに皮肉たっぷりな、あたかも作者自身を刺す自嘲的なものとなっている。私はラストの数カットを見て、開いた口が塞がらなかった。作品それじたいによる作品批判とでも呼べばいいのか。映画は当初エキゾチズムとオリエンタリズムのふりをして観客を脱力させ、やがて天国行とも地獄行ともつかぬ一組の男女の行旅によって、まるで半島のごとく細長い伸縮を見せる。さらには男性オザワの(自分勝手ともとれる)不まじめな単独行動によっていよいよ作品本来の冷厳さ、熱帯の中の悪夢の冷感に触れることになる。  口では不平ばかりだが現実認識のしっかりしたラックは、やはり大地との結びつき、家との結びつきから逃れることはできない。彼女の正統的に過ぎる恋愛観は、オザワには不要なものである。それを彼は、彼の優しさなのか冷淡さなのか口に出して表現しようとせず、旅の脱線および音信不通という形でしめした。これで終盤における彼女の殴打の理由が分かるだろう。  ラオスで知り合った活動家グループの誰かが口にする「桃源郷」という言葉。これほど柔らかい語感をあたえる単語もめったにないが、同時にこれほど人肌から遠い単語も、じつはないのである。「桃源郷」とは、峻厳たる山水の向こう側にひろがる美しくも、非人間的な光景である。それは「桃源郷」という言葉を発明した古代の中国人が早くも看破したように、人を遠ざけた先にのみ存在する止水明鏡の領域なのだ。日本の山梨県での2本の人間くさい傑作(『国道20号線』『サウダージ』)を踏み越え、異国に長期滞在してカメラを回すうち、彼らが垣間見たものは現代社会の果ての光景であると同時に、古くは六朝時代の詩人・陶淵明(紀元365-427)が著した『桃花源記』にあるような、決定的な隔絶の物語なのである。ラックにとっては「桃源郷」など、むしろ遠ざけるべき禁断の異郷に過ぎない。あなたは私を愛していたはずなのに、あっちの世界を、「桃源郷」的隔絶を選んだのね——やはり彼女がオザワを殴打するのは致し方のないことである。ここには人種間の隔たりよりも、男女間の隔たりよりも、もっと大きな宿縁の溝があるようである。(荻野洋一)

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