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菊地成孔の『ぼくのおじさん』評:出演者全員が新境地を見せる、のほほんとした反骨映画

Real Sound のロゴ Real Sound 2016/11/21 株式会社サイゾー
© Real Sound 提供

■「作家」と「職人」(今は誰だ?定義は?)

 この、恐らく邦画界では60年代あたりに一般化し、その後の紆余曲折を経て、一度は廃れ切ってしまったものの、また再び、ここ数十年ほどで、気がつけば驚くほどの活況を呈している邦画界の中で、ルネサンスしても良さそうな、しないほうが良さそうな、ある区分の問題系に於いて、山下敦弘ほど突きつけてくる監督はいない。本作は、山下敦弘の最新作である。

 山下敦弘は作家か? 職人か? 最も元も子もない回答は「作家であり、職人である」あるいは「職人的な作家」であろう。  この回答は、山下敦弘個人に対して最も元も子もない上に、一般論としてかなり脆弱である。「そんなこと言ったら、今、誰だってそうだよ。岩井俊二のデビューからシネコンの定着までにデビューした映画監督は全員<作家であり、職人>でしょう。でないと、初のアカデミー賞外国語映画賞受賞作の監督が滝田洋二郎である説明がつかない」と反駁されたら、かなりのクリティカルヒットになることは間違いないからである。  あの黒沢清ですら「ある種、職人」と定義するのは難儀ではあれ可能だ。誰もがガチンコの作家だと信じて疑わなかった園子温がすっかり職人になるという転向の図式を肯定するのには、些かの難儀さも必要ない。  アンダー30の若いユーザーは全員が言うだろうか? 「あのう、作家とか職人って、なんの話ですか?」。筆者の考えではノーである。彼らは言いそうで言わない。この世にゴダールがいる限り、この世にホン・サンスがいる限り、この世に、庵野が、松本人志が、空族が、いる限り。「映画監督に、作家だの職人だの言う区分ってあるんですか? 意味わからない」という「映画ファン」は、恐らくATGがあった60年代にも、ディレカンがあった70年代にもいた。現在も、数こそ知らねど間違いなく存在するであろう「作家も職人も意味がわからない映画ファン」たちは、彼らの末裔であろう。 ■再び、山下敦弘は何故?

 作家なのか職人なのか? という問題系によって、我々を軽くザワつかせるのであろうか? 筆者の考えでは、その基準の一つに「原作の選択」が組しているのは間違いない。

 それは、大根仁という対照物を置くと明確になる。大根の代表作は、ほとんどが漫画原作である。大根仁に作家性を見出すのは難儀か安易かで言えば難儀だ。つまり、良くも悪くも全くザワつかせない。大根仁は、紛うかたなき職人監督である。  勿論、漫画というメディアがダメだとか素晴らしいという話では、ましてや、職人である大根がダメとか素晴らしいと言っているのでは全くない。漫画を映画の原作にするのは、小説から原作にするのとは、第二には構造が違い(いうまでもないが、漫画から映画は「絵から絵」だが、小説から映画は「文字から絵」である)、第一には、特に我が国の、すでに古語であるガラパゴス/ジャパンクール性という、文化的な特殊性と密接に関係がある。  つまり、こういう事だ。「今、我が国で、人気漫画(なるべく連載中)原作のエンターティンメント/オーヴァーグラウンド映画を定期的に制作している監督が、最も職人監督らしい職人監督なのである(ついでにテレビドラマも)」という定義は、荒唐無稽ではないのではないか? ■山下の原作傾向

 どちらかといえば多作家に属し、安定した打率を誇り、そのすべてが例外なくエンターテインメント作品である山下だが、漫画原作は『天然コケッコー』だけである(『超能力研究所の3人』に関して筆者は「準・漫画原作」とカテゴライズしている。漫画には違いないが、有名な漫画ではなく、タイトルも原作漫画と違うからである)。

 『オーバー・フェンス』『苦役列車』『マイ・バックページ』が小説もしくはエッセイ(いかな有名で、作家性と適応関係にあるとはいえ、「エッセイ」を脚本化するというのも、変わった行為ではある)、『リンダ リンダ リンダ』『松ヶ根乱射事件』が、先行企画ありとはいえオリジナル、『もらとりあむタマ子』もそうだ。  この「ヒット漫画もやるが、最低限にしている。小説原作もオリジナル脚本も、満遍なくやる」という統計において、山下と類似する監督に是枝がいる。是枝は『空気人形』『海街diary』が漫画原作だが、満遍ない。因みに山下と是枝は「ぺ・ドゥナの起用でヒットを飛ばした唯二人の日本人監督(『リンダ リンダ リンダ』『空気人形』)である。 ■「体制は漫画だ」とまでは言わないが

 20世紀的な意味での反逆者、反骨精神のイメージとは大きくかけ離れている、山下、是枝に共通する、外柔内剛的な、当たりはマイルドだが芯の強い印象の元となる、一種の反骨精神のようなものが「どんどん漫画原作をやって行く、という流れに流されない」という、どの程度意識しているのかさえわからない(筆者はクリエーターのインタビューの類は読まないので、作風からのみの判断になるが)ダンディズムに起因しているのはほぼ間違いない。「満遍なくやる」のであれば、年に2作平均だとして、2年おきに漫画原作を扱うのが統計というものであろう。

■更に、山下の特異点は

 今や一流脚本家の一人と言って差し支えないであろう、向井康介との関係である。デビュー時にはコンビ的な癒着を見せていた両人だが、現在では「作品によっては組んだり、組まなかったり、そして互いに独立して一流」という関係にある(向井の脚本最新作は『聖の青春』)。

 これは、(ファンタジーギリギリの)理想像としての結婚。に換喩可能である。婚姻があるとき、協力関係でデビューし、名声を得てからは、離婚はしたものの、互いに独立して成功し、ケース・バイ・ケースでパートナーシップを結ぶ。  監督と音楽監督、監督と主演俳優、監督とプロデューサー等々、マリアージュに換喩可能である関係は多岐にわたるが、山下と向井の関係は、少なくとも日本の若手(と言ってもオーヴァー40だが)としては類例がない。山下を今「外柔内剛の反骨精神の持ち主」と仮に断言してしまったとして、では何故、山下が我々をザワつかせるのか?今は死語であると同時に、その効果は都市伝説に過ぎなかったことを証明しているサブリミナル効果のようにして、「山下が、是枝と類似性を持ちながらも、まだ特異点(向井との関係)がある」点が挙げられるだろう。  適度に感動させ、適度に考えさせ、適度に満足させ、大きな失策を決して犯さない山下の先品群が、我々をザワつかせるのは、20世紀的な、「俺はプログラムピクチュアの職人だが、こだわりと魂は絶対に捨てねえ」といった、貧困と左翼性の合併症的な反骨精神とは違う、まさに今日的としか言いようがない、瑞々しく、強弱では計れない、新しい反骨精神に貫かれているからであろう。 ■そんな山下の「静かな問題作」

 最新作、『ぼくのおじさん』は、映画全体が主体的に押し出そうとする「のほほんと心がほっこりする」ムードとは裏腹に、山下作品史上、最も明確な反骨性が露わになっている特異な作品である。静かな問題作、と言ってしまって良いだろう(資料によれば、本作の映画化を強く推進したのは山下ではなく『探偵はBARにいる』の脚本とプロデュースを手掛けた須藤泰司で、小学生の時に原作に惚れ込み、後年、松田龍平に惚れ込むことで、松田主演を想定した脚本を書いて、映画化にこぎつけたそうだ)。

 原作は、すでに「言わずと知れた」というのもギリギリな、昭和中期の代表的な児童文学である。まず、「どの時代に設定をアサインさせるか?」という興味に(例外的なまでに)そそられてしまう。原作発表当時に時代を移してしまうことは、現代映画の、あらゆる意味での時代考証力/再現力水準からしたら、赤子の手をひねるようなものだ。 ■設定年代

 しかし、「今、昭和中期を舞台にする」事には、過分なテーマ性が生じてしまう。「あの頃は良かった/なんだかんだで今が一番」というアンビバレンスに観客を陥れたかったら、室町時代や終戦直後を圧倒する力が、バブルより前の昭和中期にはある。

■スマホの写り込み

 そして山下は、そんなベタはやらかさない。本作は現代の設定だ。さらに「あれー、それやっちゃうと、ちょっと突っ込まれますよ」という、「今の話なのに、スマホやPCが一切出てこない映画(よくある)」にはしていない、ギリギリの必要最低限ではちゃんと出す。誠実な態度である。

 それにしてもしかし、ちゃんと現代の物語として成り立っている『ぼくのおじさん』は、一体何を伝えるのであろうか? 新時代の反骨精神を懐中に呑んだ、新時代の職人監督であり、新時代の作家である山下は、高い可能性で、個人的なノスタルジーと、現代への様々な(わかり易くて強い)反発心、松田龍平への惚れ込み、といった、他者の、どちらかというとあけすけなまでに激しい欲望を柔らかくキャッチして後、何をして自らの作品としてブランディングしたのだろうか? ■出演者全員が、演技の新境地を見せる

 本作の驚愕的なポイントは、出演者が「今まで見たこともなかった演技を、ナチュラルにこなしている」ことであり、それが本作の、ほとんどすべてである(周期的に出てくる「天才子役」の一人である、実質上の主演男優、大西利空の演技は、ほとんどの観客にとって初見であり、つまり真のフレッシュであり、この特異点には当該しないが)。

 プロモーション的には、松田龍平の「ニューキャラ」が押しにならざるをえないだろうし、松田の新境地ぶりは素晴らしい。屁理屈ばっかりこねている、ダメな哲学者であり、純真な人々しか価値を見出せない、愛すべき灰色の天使ぶりは、何せ訥弁風でありながら饒舌であり、そのセリフ回しは、世捨て人特有の、ギリギリな嫌らしさまで包含し、「BOSSの缶コーヒー」から「あまちゃんの芸能マネージャー」まで、また、それで充分であった松田の高い安定性を打ち壊すものだ。個人的な感慨は「松田龍平って、こんなに俗で普通な人なの?」というものである。  しかし、恐るべき事に、本作は、気がつけばなんとほとんど全員が、松田並みの新境地を見せている、つまり全員が、「今までの役とは違う」というルールでアンサンブルを行っているのである。  団地のおばさんとして完成している、コメディエンヌとしての寺島しのぶを、よしんば見る日が来るとして、こんなに早く、ここまで完璧に見せられると、誰が予想していただろうか? ここまで陰気で、面白みが去勢された宮藤官九郎の存在を、いくらもみ上げを伸ばし、ちょび髭を蓄え、顔面に当てる照明を落としたとしても、目の当たりにすると、誰が予想していただろうか? ここまでデトックスされた銀粉蝶を、ここまで化粧っ気のない戸田恵梨香を、ここまで韓国ドラマの脇役である、バイタリティのある元美人の中年女をトレースしたキムラ緑子を、そして彼ら、彼女らが一堂に会する場を、誰が想像しえただろうか?  そして、傑出しているのは真木よう子である。セクシーでもなく、強くもなく、影もなく、つまり、幾つかのよくある現代女優としての強度をガチガチに固めた彼女が今回打ち出すのは、「弱度」としか言いようがない、負の強度である。これはもちろん「弱い女」などといった手垢にまみれたものではない。この点は、出演者全員に共通している。つまり「単なる反転」ではない、「逸らし」っぷりが一人残らず成功しているのだ。  「いるわー、こういう人。写真家やってて、ハワイに住んでる人で、ちょっとネイチュア系の人で、でも日本人日本人した人」という、キワキワの類型を、ダーツの真芯を指先で軽く押さえるように真木は演じきっている。  この、集団的な反抗運動ともいうべき、結構なアグレッシヴは偶然の産物なのだろうか? 事の本質はアグレッシヴであるのに、訴えるムードは、ほっこりでニッコリで、じんわりで軽い(音楽は、ギリギリで作為的にまで昭和感に寄せているが、水準が高いので見て見ぬ振りをする)。SNSでジャパンクールで不景気で不安な現代日本に対するアゲインストは、あるといえばある、ないといえばない。物語は綺麗に前半と後半にディバイドされており、前半だけ見たら、現代か昭和中期なのか判別が難しい。  原作の選択から始まるこんな綱渡りを、山下敦弘以外の誰にできるというのだろうか? そして再び、山下敦弘は作家なのか職人なのか?その問いを突きつけながら、その問い自体を無化してしまう。『ぼくのおじさん』は、のほほんとした反骨映画であり、静かな問題作である。松田龍平と大西利空のコンビに癒されようとしたり、胸をキュンキュンさせようとしたり、泣こうとしたり、あったかい気持ちになろうとしたり、つまり、エンターテインメントに大味な醍醐味を求めているだけの善良な観客は皆、大いに、あるいはそこそこ楽しみながら、意識の底にザワつきを埋め込まれていることに、しばらくして気付くか、あるいは一生気付かないであろう。(菊地成孔)

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