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3200台のiPhoneで医療現場の負担は減るのか 慈恵医大の挑戦

ITmedia エンタープライズ のロゴ ITmedia エンタープライズ 2017/05/11
3200台のiPhoneで医療現場の負担は減るのか 慈恵医大の挑戦: 東京慈恵会医科大学 先端医療情報技術研究講座 医学博士高尾洋之氏 © ITmedia エンタープライズ 提供 東京慈恵会医科大学 先端医療情報技術研究講座 医学博士高尾洋之氏

 「働き方改革」の波は医療業界にも及んでいる。政府が3月末にまとめた「働き方改革実行計画」では、改正法施行後に5年の猶予を設けるものの、医師にも時間外労働時間の上限規制をかける方針が明記された。また、厚生労働省では2016年から2017年にかけて「新たな医療の在り方を踏まえた医師・看護師等の働き方ビジョン検討会」を開催。高齢化、医療を担う労働力人口の減少、公的財源の制約、ICTの発展などの環境変化を踏まえ、医療・介護従事者の働き方やキャリア形成、医療・介護サービスのあり方などについて、改革の方向性が検討された。

 働き方改革に取り組む企業は、顧客へのサービスや従業員の働きやすさを向上するために、業務の効率化が不可欠であると気付き始めている。しかし、世間の病院という組織ではそのような意識が希薄で、非効率なやり方がまかり通っている――。そんな危機感をいだき、改革に踏み出したのが東京慈恵会医科大学(慈恵医大)先端医療情報技術研究講座の先生方だ。

●モバイルとクラウドで救急患者の処置スピードアップ、負担軽減も

 「医療のIT」というと、最近ではAIによる創薬や診断、ロボットによる手術の支援など、最先端技術の応用が話題になっている。しかし、医療現場の生産性を高めるツールとして慈恵医大が注目したのはスマートフォン。2015年に3200台超のiPhone導入を主導した高尾洋之氏(先端医療情報技術研究講座/脳神経外科学講座 医学博士)は、クラウドとモバイル端末によって「必要な情報を、必要な時に受け取れる」ことがポイントだと語る。脳外科医として脳卒中などで救急搬送される患者の治療にあたる高尾氏は、当直医とその場にいないベテラン医師などがリアルタイムに画像やメッセージをやり取りできる医療関係者間コミュニケーションアプリ「Join」を使用することで、必要な処置のスピードが向上したり、自宅や外出中の専門医が呼び出されるといった負担の軽減などの効果がある。

 救急の現場から導入されたJoinだが、今ではさまざまな診療科で使われており、その用途は臨床だけでなく、教育にまで広がっているそうだ。

 「例えば救急部では、研修医の教育に積極的に使われています。CTやMRIで撮影した画像も貼れるので、勤務体系で全員が同時に集まれない救急部では、『この画像を見て自分で診断してみて』と送信して症例経験を共有する、あるいは『こんな患者さんが来たら、こういう病気を見落とすなよ』といったことを教えています」(高尾氏)

●医師たちとのコミュニケーションに欠かせないモバイル

 Joinのような医療用アプリだけでなく、より一般的なアプリも活用されている。例えば、画像付きのマニュアルを手軽に作成してクラウドで共有できるスタディストの「Teachme Biz」。「Wi-Fiの設定の仕方」から薬を処方する際の「安全マニュアル」まで、さまざまなマニュアルが必要に応じてスマートフォンで参照できるようになっている。これを導入するきっかけになったのは、同講座の研究員である畑中洋亮氏が、iPhone導入の説明会を担当したことだった。

 「慈恵医大には4つの病院があって、時間帯によって来られる人と来られない人がいたので、合計で20回くらい説明会をやったんです。説明会だけでこんなに手間がかかるのか、と思いました。病院という24時間365日働いている人たちを捕まえることの大変さが分かったんです。そのとき、今後も何かあるたびに説明会をやるなんて絶対ムリだと思い、『Teachme Biz』を入れました。今は、何か問い合わせがあればマニュアルを作り、『これを見てください』と返しています」(畑中氏)

 病室や手術室の間を忙しく移動し、勤務時間外でも緊急の呼び出しに応じる必要のある医師にとって、診察室のPCに向かう時間は業務の中のほんの一部でしかない。つまり、持ち運べるコンピューターであるスマートフォン、どこからでもアクセスできるクラウドが、生産性の向上に寄与する可能性が非常に大きいのだ。

●看護師たちの行動データを蓄積し、「看護」を見える化

 多忙な医療や介護の現場で生産性を向上させるには、IoTやAIなどの「新技術やパラダイムシフトによるイノベーション」だけでなく、日々の現場業務の無駄を排除し、効率化し、スキルアップを図るといった「改善」も必要になる。なにより、国家資格を取得し、特殊な業務を担う医師や看護師が、それぞれの「専門家にしかできないこと」「専門家としてすべきこと」にどれだけ注力できるかは非常に重要な要因だ。業務の見える化と棚卸し、そして見直しは、生産性向上の入り口といえる。そこで先端医療情報技術研究講座が注目したのが、看護師と看護支援員(看護師のさまざまな業務支援を担当する、看護師資格を持たないスタッフ)の業務だ。

 慈恵医大で大量に導入したiPhoneは、医師や看護師長など、個人に対して貸与しているもののほか、一般の看護師と看護支援員が利用する共有端末がある。2015年に導入したアイホン社のIP型ナースコールシステム「Vi-nurse」は、病室やトイレからのナースコールを、看護師のiPhoneで受信し、どこにいても患者対応ができるようにするものだが、看護師や看護支援員は、Vi-nurseをこの共用端末で利用している。

 しかし畑中氏らが看護現場の課題をより深く知るため、看護現場に足を運んで定点観察をしていたところ、あることに気付いたという。それは、「共有iPhoneを誰が利用しているのか分からないため、手元にスマートフォンがあるのに電話ができない」という現象だ。

 そこで、先端医療情報技術研究講座と慈恵医大看護部、そしてアイホンが、看護スタッフ専用の電話帳アプリ「N-Contacts(仮称)」の共同研究開発をスタートした。「その日誰がどの共用iPhoneを利用しているか」が分かる電話帳を作り、より生産性の高い看護現場の実現を目指したのだ。

 「これは、日本のほぼ全ての医療機関や介護施設の病棟の生産性を向上させる、“コロンブスの卵”的な発明だと思います。慈恵医大のようなスマートフォンではなく、共有PHSなどでも、全く同じ問題が起きているからです」(畑中氏)

 看護師たちは、勤務シフトに入った時に、充電されている共用iPhoneを1台携帯し、電話帳アプリN-Contactsに職員番号を入力してログインする。すると、他の職員のiPhoneの電話帳アプリにも、その職員の氏名と電話番号が表示されるのだ。シンプルな機能だが、これによって共用iPhoneを使っているユーザー同士でも電話ができるようにした。なお、看護スタッフの共用iPhoneの利用を終えるシフト終了時には、電話帳アプリからログアウトする必要があるが、その時に「看護の質」を5段階で自己評価し振り返る機能も備えている。

 さらに、病院内にBeaconセンサーを設置し、iPhoneの詳細な位置情報を検知できる仕掛けも用意した。iPhoneがあった場所と時間を自動的に記録できるので、「いつ・どこで・誰が」というデータが蓄積できる。そのデータを元に、看護スタッフ自身が「何をしたか」だけを記入すればいい、業務報告アプリ「N-Report(仮称)」も共同研究開発を進めている。

 畑中氏は、これまでの日本の医療や看護、介護の現場では、各スタッフが抱えている業務の可視化や、生産性の測定がほとんど行われておらず、結果として現場も経営者も「生産性向上」の意識が低いままになっている、という問題を指摘する。

 「多くの医療機関では、病院評価機構のような機関による“評価項目”としての生産性向上活動を実施・申告するためだけに、1年に1回業務量調査を行っています。しかし、実際の生産性向上にはつなげていない場合がほとんどです。一方で、現場では改善活動としてさまざまな努力をしていますが、それによって『行動がどう変わったのか』あるいは『医療現場スタッフの働きがいや満足度、モチベーションなどの内的感情がどう変わったのか』を定量的、定性的に計測し続ける仕組みはありませんでした。

 これはつまり、アクセルやブレーキを踏んでも、時速何キロになったのか分からないまま運転しているクルマのような状態で、個人や組織としては、燃費がいいのか悪いのか、全く分かりません。私たちはそこを変えたいと考えました。まず『現場で何が行われているか』『現場が自分の業務をどう評価しているか』を把握することから始めようと、看護師や看護助手の働きの見える化に着手しました。なぜなら看護師や看護助手は、医療職の中でも一番数が多く、効率化のインパクトが大きいはずだと考えたからです。そこで、スマートフォンを使って、現場で便利なアプリを提供しながら、現場の生産性を向上するための基礎データを収集する基盤作りの研究を始めました」(畑中氏)

●紛糾する医療の業務データ研究審査 先例を作り、ガイドライン公表へ

 畑中氏らは、看護師と看護助手の業務分析の結果を、大学の研究成果として発表したいと考えている。そのためには、大学内の「倫理委員会」の審査を経なければならない。倫理委員会とは、医系大学や病院などに設置され、人を対象とした臨床研究や疫学研究の内容に対して、倫理的な側面から審査をする機関だが、今回の研究に対しては、多くの議論を呼んでいる。

 「医学的な研究の多くは、医師が実行主体で、被験者である患者さんに投薬や施術など、何らかの介入をして、その結果よくなった、あるいは悪くなった、という前後を比較するものがほとんどです。今回の研究のように、被験者が従業員でもある看護スタッフで、その業務行動や業務への自己評価情報を収集するというのは、iPhoneを導入している慈恵医大だからこそできる、日本で初めてのITを活用した看護管理研究です。一方、研究と業務の境目が分かりにくく、業務の見える化によって生産性が計測され、人事的な観点での評価につながってしまう危険性もあります。従業員でもある被験者に不利に働かないよう、いかに個人情報を秘匿化し、いかに参加同意を取って、その情報を収集し、分析し、発表するか――。その一連の枠組みをゼロから作り直し、また膨大な業務上の行動・感情データが生み出す価値ある知見をいかに引き出すのか。倫理を審査する側もITを活用した情報時代を前提に、前に進む必要があります」(高尾氏)

 ITを使って個々人の行動履歴を蓄積・利用するということにどんなリスクがあるのか、どうすれば問題ないと言えるのか、判断基準を模索中というところだろう。しかし、IoTやビッグデータの時代を迎え、今後はこのような研究も増えていくに違いない。企業内でも、社員の行動履歴を収集し、業務改善や採用活動に役立てるというケースが出てきている。高尾氏らは、今回の研究を実現させたあかつきには倫理委員会での議論と問題点を反映したガイドラインを作成し、他の機関のICTを活用した研究にも役立ててもらえるようにしたいと話した。

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