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76歳の編集者挑む“科学古典のデジタル文書化”――現役時代に夢見た「科学知識を万人へ」

ITmedia NEWS のロゴ ITmedia NEWS 2017/08/10
76歳の編集者挑む“科学古典のデジタル文書化”――現役時代に夢見た「科学知識を万人へ」: 「科学的知識は万人によって共有されるべきもの」とトップに掲げる「科学図書館」 © ITmedia NEWS 提供 「科学的知識は万人によって共有されるべきもの」とトップに掲げる「科学図書館」

 「科学古典が無料で公開されているすごいサイトがある」――こんなネット上での書き込みを見て、筆者は「科学図書館」というWebサイトの存在を知った。

 「科学的知識は万人によって共有されるべきもの」とトップに掲げるそのWebサイトには、北里柴三郎、志賀潔、寺田寅彦、本居宣長、九鬼周造といった日本の科学者・哲学者・偉人や、アルベルト・アインシュタイン、ルイ・パスツール、マックス・プランク、ヴィルヘルム・オストヴァルトなど海外の著名な科学者たちの著作がPDF形式で公開されている。いずれも著作権者の許諾を得て掲載しているという。

 その数、500冊以上。PDFは、本をそのまま画像で取り込んだものではなく、組版(くみはん)用のマークアップ言語「TeX」で1冊1冊組版したものだ。実際にPDFを見てみると、丁寧に組版されており、昔の著作でも読みやすい。文章のコピーもできるため、単語の検索も容易に感じた。

 一体誰が作ったのか。Webサイトには本人のプロフィールらしきものもない。Webサイト内にあったメールフォームから連絡を取ったところ、返信があった。なんと、この500冊のデジタル化は、1人で成し遂げたものという。その正体は。

●正体は76歳のおじいちゃん

 「私がある出版社で編集者をしていた時、このような叢書(※)の企画を提案したのですが、採算性の問題から却下されてしまいました」――Webサイトの管理者であるM.U.さんはこう切り出した。

(※)叢書(そうしょ)……一度世に出た単行本を集めて再出版したひとまとめの書物

 それ以来、企画自体はずっと温めており、いつか機会があれば実現したいと考えていたという。

 M.U.さんはダイヤモンド社と筑摩書房で編集をしていた。筑摩書房を退職後しばらくしてから、Webサイトを個人で立てられる時代が来た。「これで長年温めていた企画を実現できるのでは」と「科学図書館」を立ち上げたという。

 M.U.さんは1941年生まれ。今年で76歳になる。科学図書館は2004年に開設。63歳から始め、13年間運営してきた。

 中学時代から歴史に興味があったというM.U.さん。大学に入学する頃には特に科学の歴史に興味を持ち、科学史関係の書籍や哲学史を読みあさっていたという。大学の専攻は数学史。そこで数学基礎論を教えていた村田全(たもつ)教授が数学史の研究をしていると知って以来、村田教授を囲んだ小規模な数学史勉強会をしていた――と自らの生い立ちを振り返る。

 師である村田教授の著作を広めたいという思いも、科学図書館には込められているという。村田教授との出会いがなければ、このサイトは存在しなかったのかもしれない。

 科学図書館が叢書の形を取っているのは、「オストヴァルトクラシッカー」という叢書の存在を知ったことがきっかけ。ドイツの化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトが1889年に立ち上げ、自然科学に関する重要な古典を集めたものだ。

 オストヴァルトは1909年にノーベル化学賞を受賞した化学者。彼が考案した硝酸の製法「オストヴァルト法」は、高校化学でも習うほど有名だ。高校時代にオストヴァルトの著作『科学の学校』を読んで感心した後、オストヴァルトクラシッカーを知ったことで、「日本でも是非、科学古典の叢書を実現したいと考えていました」(M.U.さん)。

 ダイヤモンド社では『数理科学』の編集を、その後、筑摩書房でも初めは数学に関する本を編集していた。だが、会社の方針から思想書や国語の教科書の編集に業務が移っていったと、出版社時代を振り返るM.U.さん。現役時代にやり残した、科学知識の普及という仕事を今、インターネット上で取り組んでいるM.U.さんの姿にまぶしいものを感じるのは筆者だけだろうか。

●「青空文庫」や「国会図書館デジタルコレクション」にはないもの

 著作権の切れた本のデジタル化・無償公開といえば「青空文庫」を思い浮かべる人もいるだろう。だが「数式の正確な表記がほぼ不可能であるため、青空文庫へは科学関係の本を収録しにくい」とM.U.さんはいう。

 科学図書館では正確な表記のため、数式や科学表記に適した「TeX」を用いてPDFを作成している。始めた頃から十分に習熟していたわけではなく、常にマニュアルとの戦いだったと振り返る。

 TeXを使うことで、M.U.さんが抱いている「国会図書館デジタルコレクション」の欠点も解決できる。国会図書館デジタルコレクション(旧「近代デジタルライブラリー」)は国会図書館が運営する“電子図書館”サイトで、明治以降に刊行された図書・雑誌のデジタル化資料を公開している。

 さまざまな歴史的資料をネット上で閲覧できるが「デジタル化といっても資料の各ページをデジタルの写真にしたものなので、解像度によっては活字が読みにくいものもある」とM.U.さんは指摘する。

 解像度の問題もあるため、科学図書館では写真をそのままアップするのではなく、TeXによる組版を採用しているという。TeXから作成したPDFでは、文章の選択やコピーもできるため利便性も上がる。

 青空文庫にはない科学表記の正確性と、国会図書館デジタルコレクションの欠点だった写真の解像度問題。これらを解決するのが、TeXによる組版のPDF化というのだ。

 ただ、その分だけ1冊当たりの手間もかかる。これまで500冊以上をPDF化してきたM.U.さんだが、「協力してくださる方がいると大変うれしいです」と心中を明かす。

 「一連の作業をしていただける協力者はほとんどおられないでしょうが、スキャナーで読み取ったテキストファイルの提供や、デジタル化するべき本や論文の提案をいただけると大変助かります」

 Webサイトのデザインがシンプルな理由は、「デザインに凝ることに時間を取られるよりも、1つでも多くの忘れられた文献をPDF化して世に出したいと思っているから」。デジタル化が第一だと熱意を見せる。

●若い人たちにこそ読んでほしい

 科学の話題を追いかけると、つい最先端のことばかりに目がいってしまう――そんな人は少なくないかもしれない。しかしM.U.さんは「最先端の科学は、先人の業績があってこそ。新しいことを始めるには、まず過去の文献を振り返ることが必要だと思っております」と、科学の「温故知新」の必要性を語る。

 「科学図書館にアップしたものを若い人たちに読んでもらえるかどうかは分かりませんが、何もしないよりはこうした形で残しておけば、誰かが役立ててくれるのではないかと、微力ながら毎日作業しています」

●編集者としての在り方

 最後に、M.U.さんの名前の表記について記しておく。筆者が「Webサイトではお名前を出されていないようだが、紹介しないほうがいいのだろうか」と尋ねると、M.U.さんは「あらためて麗々しく名前を名乗る程のことでもないと思っております」と答えた。

 「書籍の場合でも、一般に編集者の名前を奥付に書くことはあまり有りませんし、私のこの『科学図書館』は先人の業績のアンソロジーでしかありませんから、ことさら編集者の名前を出す必要はないと考えています。名前を出す必要があるのなら、M.U.とでも表記されれば」

 筆者は、氏の仕事が「もっと世間に知られるべき」と思い記事を書いているので、先人の業績のアンソロジーであってもそれは素晴らしい業績なのではないかと考えている。

 一方で「編集者が名前を出す必要はない」と考えるM.U.さんの“編集者としての在り方”も共感できる。現役時代から今の今まで貫く姿勢に感銘を受け、ここでは名前を伏せることにした。

 記事執筆中、筆者はM.U.さんのことを「元編集者」と安易に書いていた。違う。科学図書館のため、科学古典のデジタル化作業を続ける彼は、今も紛う事なき「編集者」だ。

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