古いバージョンのブラウザーを使用しています。MSN を最適にご利用いただくために、サポートされているバージョンをご使用ください。

羽生結弦、5分集中できない、野球選手なりたかった

日刊スポーツ のロゴ 日刊スポーツ 2017/09/13
練習が出来るありがたみ/フィギュアに恋して(7)_03 © 日刊スポーツ 提供 練習が出来るありがたみ/フィギュアに恋して(7)_03

<羽生ヒストリー(2)>

 小学校低学年の頃、羽生結弦は練習が嫌いだった。通っていたリンク「オレンジワン(現アイスリンク仙台)」では、後に五輪金メダルを獲得する荒川静香や、バンクーバー、ソチ両五輪8位の鈴木明子らが一緒に滑っていた。日本男子初の世界選手権メダリスト佐野稔を育てた名コーチ、都築章一郎からは「絶対に世界選手権で1番になるんだよ」と言い聞かされ、スケーティングやジャンプの基礎をたたき込まれた。しかし、才能にも環境にも恵まれているにもかかわらず、5分も練習に集中できない。すぐに外に飛び出し、ボール遊びに興じた。野球選手にもなりたかった。

 本気になるきっかけは04年。その冬、フィンランドで行われた自身初の国際大会で優勝するとともに、ノービスクラスの日本一決定戦、全日本ノービス選手権のB(9歳以上11歳以下)で優勝。勝つ喜びを知った。だが、同時期に自宅近くの拠点リンクが経営難で閉鎖となり、新たに車で約30分かかる場所へ通わなければならなかった。十分に練習が積めないこともあり、同選手権は05年2位、06年3位。同期の田中刑事らに後れを取った。

 06年トリノ五輪で仙台出身の荒川静香が金メダルを獲得したことにより、宮城県と仙台市が動き、07年3月、2年半ぶりに慣れ親しんだリンクが再開。また練習を十分に積めるようになった。この年、七北田(ななきた)中1年時の文集に羽生はスケート部唯一の部員として、こんな文を寄せた。「僕は4歳からスケートをずっと習っていますが、何回か感謝の気持ちを忘れていました。練習がつらくて逃げ出して遊んでばかりいたり、それを親におこられるのがいやでむつけて(宮城の方言で、いじけるの意)みたりしていました。でも、好きなことをやらせてもらっていると部長になってから感じてきました(原文ママ)」。勝利の喜び、敗れた悔しさ、練習が出来るありがたみを知り、羽生はスケートに没頭していった。(敬称略)【高場泉穂】(つづく)

▼2004年(平16)

 10月 全日本ノービス選手権B優勝

 同12月 テンペレ・サンタクロース競技会ノービスA(フィンランド)優勝

 同12月 コナミスポーツクラブ泉・スケートリンク(現アイスリンク仙台)閉鎖

▼2005年(平17)

 10月 全日本ノービス選手権B2位

▼2006年(平18)

 2月 トリノ五輪で女子シングル荒川静香が金メダルを獲得

 同10月 全日本ノービス選手権A3位

▼2007年(平19)

 3月 拠点リンクが、アイスリンク仙台として再開

 同4月 七北田中入学

 同11月 全日本ジュニア選手権7位

日刊スポーツの記事をもっと読む

image beaconimage beaconimage beacon