那須川天心23歳、武尊戦後の独白「ボクシング? まだちょっと余韻に」「やりたいこと…サバゲーかな(笑)」酷評されたメイウェザー戦も糧に
那須川天心の8年に及ぶ格闘家としてのキャリアは、キックボクシングという競技そのもののステータスに大きな変化をもたらした。それはRIZINにおけるキックの扱いを見ても明らかだ。率直に言って、かつてRIZINでのキックはMMA(総合格闘技)の“刺身のツマ”のような扱いだったが、那須川の登場によってメインカードに格上げされた。那須川も「キックの地位は上がったと思う」と深く頷く。
「でも、やりすぎてしまった感もあるんですよね」
どういうことだろうか?
「なんだろう……。僕はずっと同じことをするタイプではないんです。だから周り(の価値観)が追いついてこない。なにか新しいことをやるときには、いつもドギマギした感じがありました」
「あのときはMMAに出るしかなかった」
武尊戦の翌日、那須川の独白を聞いて、筆者は世界で初めての総合格闘技であるシューティング(現・修斗)を創設した初代タイガーマスクこと佐山聡の存在を思い出した。
佐山が打撃も組みも寝技もできる格闘技の構想を語り始めたとき、世間は冷笑した。
「プロレスとどう違うの?」
結局、佐山の発想が世の中に理解されるまで10年近くの歳月を要した。それと同じようなことだろうか。実際、RIZINに登場するようになった那須川は変化球を投げ続けた。2016年12月29日のRIZINデビュー戦はキックではなく、MMAだった。
もちろん那須川にとっても、MMAは初体験。新たな挑戦が発表されると、世間の反応は冷ややかだった。
「そこまでしてRIZINに出たいのか」
大晦日のRIZINはファイターにとってのNHK紅白歌合戦のようなもので、出場すればそれだけで箔がつく。地上波で自分の試合が放送されたら知名度はさらに高まるので、当時の那須川の行動を売名行為に近いと見なす者もいた。
那須川は「いまでこそキックボクサーがMMAをやることは当たり前になったけど、僕が挑戦したときなんてかなり否定されていた」と振り返る。
「でも、キックボクシングの外に出るという意味では、あのときはMMAに出るしかなかった」
当時からキック界で那須川は高い評価を受けていたが、キックボクサー同士の試合だけでは、どうしても市井の人々を巻き込みにくい。試合の放送もCSのレベルにとどまっていた。
しかしながら従来のキックの価値観から一歩外に出て、他競技に踏み込むとなると話は変わる。那須川はRIZINで大博打に出た。結果、初のMMAはパウンドによるTKO勝ち。さらにマイクで2日後のRIZINへの参戦も直訴し認められると、連戦の疲れも見せず覚えたてのニンジャチョークで一本勝ちを収めた。
挑戦が決まったとき、那須川は筆者に「寝技とか、まだよくわからないんですよね」とこぼしていたが、本当に強いファイターはどんなルールでも強いことを証明してみせた。
メイウェザー戦は「ナンセンス」と酷評されたが…
RIZINが用意した最初の高いハードルをクリアすると、やがてラウンドごとにルールが変わるミックスルールにも挑戦した。
「そんなのは競技じゃない。客寄せパンダにすぎないじゃないか」
ごもっともな意見だ。確かに競技ではないが、市井の人々を巻き込む力を持つこともまた事実だった。極めつけの変化球は、フロイド・メイウェザー・ジュニアとのボクシングルールによるエキシビションマッチに挑んだことだろう。エキシビションといっても“しょっきり”でなく、リアルファイト。つまりエキシビションの形を借りた新たな試合形式だった。
パウンド・フォー・パウンドで“史上最強”と評されることもあるメイウェザーのベストウェイトはウェルター級と、那須川のそれより10kg以上重い。結局、那須川は3度ダウンを奪われる屈辱を味わったが、メイウェザー戦を境にツイッターのフォロワーは急激に増え、武尊のそれを抜いた。
良識あるボクシングファンから「マッチメーク自体、ナンセンスの極み」と酷評された一戦も、「vs世間」という一点では那須川の勝利だった。本人も「確かに知名度の部分ではそうかもしれない」と受け止めている。
「実力はまた別だけど、そこもひとつの目安として捉えていました」
ダウンを奪った左について父は「昔の打ち方に戻した」
正真正銘のラストファイトとなった武尊戦は、キックボクシングの魅力を最大限に見せつける内容だった。
大会前日、東京ドームでリングチェックをする那須川を見た写真家の長尾迪は、神童の動きに目を奪われた。「天心の試合をずっと撮っているけど、動きの軽さ、スピード、体のキレ。全てが過去最高の出来だった」。果たして1Rから那須川は切れ味とスピード感抜群の右ジャブで武尊の機先を制した。ラウンド終了間際には対戦相手の視界には入らない角度から痛烈な左フックを放ち、先制のダウンを奪った。
セコンドには父・那須川弘幸氏の姿があった。幼少の頃から二人三脚で歩んできた父子鷹人生。親子だから、意見も遠慮なく言い合える。前戦では那須川の対戦相手である同門の風音のセコンドにつき、確執も伝えられた。筆者から見てもヒヤッとする場面が幾度もあったが、親子は親子。武尊戦が決まるや、最大の強敵への対策を一緒に練っていた。
いみじくも那須川は、「終わり良ければ全てよし」と父との関係を結論づけた。
「最後に向かって2カ月間はずっと一緒に調整できたし、いいもの(試合)ができた。なによりも父の日に勝つことができたことがうれしい」
最近の那須川は“うまさ”が際立ち、KOやダウンを奪う回数が減っていたが、武尊戦では倒せるモードに戻っていた。試合後、弘幸氏は「いろいろなことを考えていたら、結局昨日は一睡もできなかった」と吐露したあと、満面の笑みを浮かべた。
「あの左はよかったでしょう? 昔の打ち方に戻したんですよ」
「武尊選手をすごく応援したくなった」という声も
那須川vs武尊を大将戦に据えたRISEとK-1の全面対抗戦は、RISE勢が大差で勝ち越した。いつもどちらが勝つかわからないマッチメークで揉まれ、積極的に海外や他団体の強豪とも闘ってきた成果が現れたか。
試合後の会見でRISEが勝ち越したことについて問われると、那須川は「(最終的に)どっちが強かったというのはない」と持論を切り出した。
「応援している人たちはRISE派、K-1派に分かれていたと思うけど、選手たちはみんな頑張っていたし、そうじゃないものが結構生まれたと思うんですよね」
対抗戦の先にあったもの──それは勝ち負けを超越した感動だったか。
「僕の友達や身内、いつも応援してくれる人でも、武尊選手のことをすごく応援したくなったといっていました。RISEしか観ていなかった人がK-1を観たくなったりね」
いがみ合い、選手の引き抜きが絶えないキック界に「もっと仲良くやろうよ」と和平を呼びかけることができるのが、那須川天心の本当の強さだった。
「選手同士はいがみ合っているわけではないし、一番になりたいと思っているのは一緒。問題は大人の事情だけです。ここでひとつになったんだから、またひとつになるチャンスはあるはず」
「ボクシング? とりあえずちょっと余韻に…」
ラストマッチ後、那須川は初めて一睡もせず一夜明け会見に臨んだ。その後、筆者に「昨晩は試合を何百回と見返したり、友人や知人に連絡していた」と打ち明けた。決戦直前になりフジテレビは放送を取りやめたが、ABEMAによる有料配信(PPV)は50万人以上が購入というレコードを残した。
格闘技の放送・配信は新たなステージに突入したのかもしれない。那須川も「反響は地上波で格闘技をやっていたとき以上にあった。時代も変わってきているのかなと思いました」と新しい風を感じている。
まだ自分のキックボクサー人生を振り返る余裕はない。
「そういうことをするのは、もっと落ち着いてからでしょうね」
そもそも、那須川は過去に大きなこだわりは持たず、「自分はこんなことをしていたと自慢するような人にはなりたくない」と考えるタイプだ。
「未来を語る方がカッコいいですよ。絶対に」
とはいえ、那須川にとっても武尊戦のインパクトは想像以上に大きく、次のステージに対する言及は避けた。
「ボクシング? とりあえずまだちょっと余韻に浸っていたい」
元キックボクサーとなった現在、何をやりたい?
「なんですかね。サバゲーかな(笑)。まだやったことがないので、ちょっと行きたいと思っています」
歴史に残る変革者は、8年前のデビュー当時と同じ、少年のような穏やかな微笑を浮かべた。<前編から続く>