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川崎F・中村憲剛「黄金の1年」といえる転換点 Jリーグの歴史を動かしてきた「心の声」とは

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2018/03/13 10:00 飯尾 篤史
2017年シーズンにリーグ優勝を決め、チームメイトともに中村憲剛選手(最前列中央右)は喜びを爆発させた(写真:The Asahi Shimbun/Getty Images) © 東洋経済オンライン 2017年シーズンにリーグ優勝を決め、チームメイトともに中村憲剛選手(最前列中央右)は喜びを爆発させた(写真:The Asahi Shimbun/Getty Images)

 プロサッカー選手にとって、栄光に満ちたシーズンであれ、挫折にまみれたシーズンであれ、振り返ってみれば、キャリアにおいて大きな意味を持つ。そうした濃密なシーズンを描き、その選手の生き様を浮かびあがらせているのが、飯尾篤史氏が上梓した『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』だ。

 本書に登場するのは、中村俊輔、中村憲剛、小笠原満男、大久保嘉人といった日本サッカーを引っ張ってきた選手たち。今回はその中から、2016年シーズンのJリーグMVPに選ばれ、2017年シーズンにリーグ優勝を果たした川崎フロンターレの中村憲剛にとっての分岐点を取り上げる。

 あの年があったから今がある――。

 そんなふうに、プロ生活の節目と言えるシーズンはいつだろう? そう訊ねると、中村憲剛は「難しいな」と考え込んだ。

 16年シーズンにプロ14年目を迎えた彼にとって、思い出深いシーズンはいくつかあるはずで、そう簡単に絞れるものでもないのだろう。

 そこで「2007年はどうだろうか?」と提案した。クラブで初めて国際大会に出場し、日本代表としても初めて国際大会を戦い、クラブでカップ戦決勝の舞台に初めて立ったのが、この年だったからだ。

 「なるほどね」と納得する表情を見せた憲剛は、記憶の糸をたぐるようにして言葉をつないだ。

 「確かにものすごく濃密で、目まぐるしかったのを覚えている。フロンターレに対しても、自分に対しても、周りの見る目が急激に変わっていって……」

 横浜F・マリノスの03年、04年の連覇によって鹿島アントラーズとジュビロ磐田の2強時代に終止符が打たれたJ1リーグはその後、05年の王者・ガンバ大阪と06年の覇者・浦和レッズによる2強時代を迎えようとしていた。その両雄に割って入ろうとする新興勢力――それが川崎フロンターレだった。

 

 05年、5年ぶりにJ1復帰を果たすと、06年は開幕から快進撃を続け、2位でシーズンを終える。J1復帰からわずか2年でACL 出場を決めた川崎は、優勝候補の一角として07年シーズンを迎えた。

 手元の『週刊サッカーダイジェスト』を眺めながら、憲剛が振り返る。「ここにも、フロンターレが『強豪』って書かれているけど、そんなこと、1年前は誰も言ってなかった。これだけでも立ち位置の変化がわかりますね」

 もっとも、立ち位置が変わったのはチームだけではない。チーム以上に変化を味わっていたのは、憲剛自身だった。

日本代表デビューは2006年10月

 06年夏のドイツ・ワールドカップ終了後に日本代表監督に就任したイビチャ・オシムによって代表に抜擢された憲剛は、06年10月4日のガーナ戦で代表デビューを飾る。その7日後のインド戦では豪快なミドルシュートを叩き込んで代表初ゴールをマークし、11月15日のサウジアラビア戦ではボランチとして堂々と攻撃を組み立てた。

 07年を迎え、日本代表の新星として注目される憲剛への取材攻勢は加熱する一方だった。トレーニングを終えた直後や、クラブハウスを出る間際、車に乗り込む直前にも、多数の記者に囲まれた。

 「代表に選ばれるようになって、知らない記者からコメントを求められるようになった。どこに何を書かれるのかわからないから、ちょっと怖かった。そういう意味では、メディアとの向き合い方を覚えたのも、この年でしたね」

 07年3月にはヨーロッパでプレーする選手たちが日本代表に合流する。最初に呼ばれたのは中村俊輔と高原直泰だった。前年に代表デビューを果たしたばかりの憲剛にとって、俊輔も高原もテレビでしか見たことがない選手だったから、同じチームでプレーするのが不思議な感覚だったという。

 「3月のペルー戦の時、ホテルで俊さんと初めて会ったんです。そうしたら『フロンターレの試合、見てるよ』って言われて、すごく嬉しかったなあ」

ボランチとしてサポートする任務を託された憲剛

 新体制発足から1年が経った7月には、日本代表はベトナムへと乗り込んだ。アジア王者を決める大会、アジアカップに出場するためである。チーム作りの進捗状況を測る場となるこの大会で、オシムは俊輔を右MFに、遠藤保仁を左MFに配置する。ボランチとして彼らをサポートする任務を託されたのは、憲剛だった。

 「震えましたよ、正直。2人を生かすも殺すも自分次第。だから、考えていたのは、俊さん、ヤットさんをいかに気持ち良くプレーさせられるかっていうことだった」

 気温は30度を優に超え、風がなく蒸し風呂のようなハノイで、オシムジャパンは2勝1分でグループステージを突破し、大会3連覇に向けて突き進む。憲剛もパートナーの鈴木啓太の支援を受けながら、俊輔と遠藤が欲しいタイミングでボールを供給し続けた。

 「でも、俊さん、ヤットさんと膝を突き合わせて話した記憶がないんです。ピッチでちょっと話すだけでわかり合えた。だから『日本代表ってやっぱり凄いな』と思った。上手くてサッカーIQの高い選手たちの集合体――それが日本代表なんだなって」

 準々決勝でオーストラリアを退けた日本は、しかし、サウジアラビアとの準決勝に2-3で敗れると、韓国との3位決定戦でも0−0のままもつれ込んだPK戦で屈してしまう。3連覇を逃した責任と悔しさを感じながら、憲剛はこの時点で日本代表の未来をこんなふうに見据えていたという。

 「暑さと湿度が凄まじくて、みんな疲弊しているのに、オシムさんはスタメンを固定し、練習量も落とさなかった。だから、もちろん優勝を狙っていたんだけど、一方でチーム作りの一貫という考えもあったと思う。アジアカップで築かれたベースを元に、この先チームがどう変わっていくのか楽しみだった」

 アジアカップの閉幕から2カ月後、ACL初参戦ながらグループステージを突破した川崎は、イランのセパハンとの準々決勝を迎えた。

 9月19日の初戦は敵地でのゲームである。1600メートルの高地にあるイスファハンはトレーニングをするだけで息苦しさを覚えるほどだった。

 「空気は薄いし、乾燥していて口がパサパサになるし、グラウンドもボコボコ」というアウェイの洗礼を受けた川崎は、0−0で試合を終える。

 「勝つチャンスはあったけど、アウェイだし、0−0は上出来なんじゃないかって思っていたんです、この時点では」

 ACL初体験だった憲剛とチームメイトがホーム&アウェイの難しさを思い知るのは1週間後、ホームゲームがキックオフされた直後のことだった。

 「合計スコアが並べばアウェイゴールが多い方の勝利。ということは、先制されたら2点取らないといけないわけで、急にプレッシャーに襲われて……」

 カウンター狙いで守りを固めるセパハンを川崎は攻めあぐね、時間ばかりが過ぎていく。

 ジュニーニョや鄭大世がドリブル突破で打開しようとするが、セパハンの堅い守りをこじ開けられない。密着マークを受けていた憲剛も5本のシュートを放って奮闘したが、身体には限界が訪れていた。

 実は憲剛は、セパハンとの第1戦の1週間前に日本代表のオーストリア遠征から帰国したばかりだった。わずか1週間でオーストリア→日本→イラン→日本とフライトを繰り返し、移動距離は赤道1周分の9割に達していたのだ。

 0−0のまま突入した延長前半に足が攣った憲剛は95分にピッチから退き、PK戦の末にチームが敗れる様子をベンチの前で見届けることになる。

 「第1戦でも足が攣って途中交代しているんです。今思えば情けないけど、当時の自分には限界だった。ただ、これを経験したから、その後どんな過密日程にも対応できるようになったと思う」

 そう振り返ると、「だんだん思い出してきた! 悔しいな、これ、絶対に勝てたよ」と、あらためて悔しさを覗かせた。

ナビスコカップのタイトルも逃した2007年

 ACL制覇の夢がベスト8で潰えた川崎は、2000年以来の決勝進出となったナビスコカップに照準を切り替えた。11月3日、国立競技場で行われたガンバ大阪との決勝は、どちらに転がってもおかしくない展開だった。

 「ガンバはヤットさん、フタ(二川孝広)、ハシさん(橋本英郎)、ミョウさん(明神智和)と、サッカーをわかっている人たちばかりで、戦っていてとにかく楽しかった記憶がある」

 前半にジュニーニョと寺田周平が迎えた決定機をモノにしていれば、川崎が勝っていたに違いない。だが55分、一瞬の隙が命取りになる。安田理大に決められ、これが決勝点となった。

 「ガンバはこれが2個目のタイトルですよね。あれから9年、うちはいまだにノンタイトルだから、ずいぶん差がついてしまったな……。覚悟が足りなかったのか、なんなのか……」

 ナビスコカップ獲得を逃した13日後、さらなるショックが憲剛を襲う。オシムが脳梗塞で倒れ、病院に搬送されたのである。

 ひと月前の10月17日、この年最後の親善試合となるエジプト戦が行われた。4−1で快勝した後、サポーターに挨拶しながら「来年もすげえ楽しみだな」との想いを憲剛は噛みしめていた。「こうやって強くなっていくんだ」という道筋がくっきりと見えたからだった。

 ところが、オシムの退任が決まり、憲剛にとっての日本代表の第一幕は、突然すとんと幕が下りてしまうのだ。

 「もうオシムさんと一緒にサッカーができないのかって思ったら、ものすごく悲しかった。俺はオシムさんに抜擢してもらったわけだから、俺がダメならオシムさんの見る目が疑われてしまう。オシムさんの期待は裏切れない。それが当時のプライドだったんです」

 この時期の自分に声をかけるとしたら――。そう訊ねると、しばらく考え込んでから、憲剛は口を開いた。

 「日本代表の自分に対しては『もっと積極的にやれ』っていうことかな。自分のキャリアに劣等感があったから、しゃしゃり出ない方がいいのかなって。誰もそんなこと思ってないのに、勝手にそう思って、気を遣っていたから」

代表でもクラブでも未知のことばかりだった

 チームの中心は俊輔、川口能活、中澤佑二らワールドカップ経験者たち。一方、憲剛は年代別の代表にすら選ばれたことがなく、J1でプレーするようになったのも05年からだった。

 「上の人に付いて行くという感じだったけど、ボランチなんだから『こうしましょう』と言っても良かった。アジアカップではそうした気後れがチームの足を引っ張ってしまっていたかもしれない」

 一方、クラブでの自分に投げかける言葉は、それとは逆だ。

 「『もう少し肩の力を抜けよ』ってことかな。この年、初めてキャプテンマークを巻いたんですよ。だから、いつも先頭に立とうとしていたし、周りもそれを望んでいた。チームの勝敗すべてを背負い込んだ気になっていた。この写真なんて、まさにそう。もう少し周りを頼っても良かったのかもしれない」

 視線の先には、準優勝のメダルを首から下げて、うなだれる写真があった。

 日本代表でも、クラブでも、未知のことばかりだった。

 それゆえ余裕がなかったし、息つく暇もなかったが、だからこそ成長もできた――。

 憲剛にとって07年はそんなシーズンだった。

 「振り返ればこの年、何も成し遂げられていないんですよね。でも、だから今でも走り続けているのかもしれない。この年がキャリアの中でズシリと重いシーズンだったのは間違いないですね」

 すべての初体験は苦い想いとともにある。しかし、このシーズンが末っ子気質だった青年を大人のサッカー選手に成長させたのも、また確かだ。

(文中敬称略)

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