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会社勤めしたこともない聖心卒“お嬢さま”社長 なぜ鋳物工場を継ぐ決心をしたのか?

NIKKEI STYLE のロゴ NIKKEI STYLE 2020/06/22 11:00
手塚加津子・昭和電気鋳鋼社長 © NIKKEI STYLE 手塚加津子・昭和電気鋳鋼社長

昭和電気鋳鋼(群馬県高崎市)は、鋼(はがね)を鋳物で成型し建設機械や鉄道などで使う大型の部品・部材を造っているメーカー。大型重機のシャベルのツメや、トレーラーの動力車と荷台をつなぐカプラーベースなどでは国内最大手という小さなトップ企業だ。現社長の手塚加津子氏は2007年、祖父と父が60年かけて拡大してきた重工業向けビジネスを3代目として継承した。会社を守ろうと後を継いだ背景には、中学・高校時代を過ごした聖心女子学院での体験があったという。

「ものづくり」とは全く縁のなかったカトリック系の女子校・女子大育ち。実業に就いた経験もまったくなかった身の上から、祖父と父が2代にわたって守り続けた“家業”の継承を決断した。

自宅は東京都大田区にあるのですが、初夏の足音が聞こえるころになるとたくさんの藤の花が咲く庭があって、父・天野和雄が自慢にしていました。もちろん、私を含めて家族が皆でさまざまな花が植えられた庭を大事にめでてきました。藤の花が咲くと、父と交流があった福田赳夫・元首相にいらしていただいたこともあるんですよ。

そんな父が2001年に亡くなってから、私の人生も大きく動きました。母と一緒に会社を支えてきた主力銀行を訪れて、「(銀行口座の)名義の書き換えを……」とお願いした時のことです。そこで初めて、利益が出ている会社でも負債があるのだということを知り、銀行からも「財産として正の相続をするなら、負の相続もしなければなりませんよ」と言われました。それがなくては、あの大好きな自宅にも住めなくなるとも言われ、まさに青天の霹靂(へきれき)でした。

父の闘病期間は長かったのですが、一度も会社の経営を継いでほしいといわれたことはありませんでした。子どもは私と妹の娘2人だけ。本人に聞いたわけではないので臆測でしかないのですが、おそらくは継がせようとは思っていなかったのではないか。父自身が、祖父で創業者だった天野定次郎から事業を受け継いだ後も、好不況の波をかぶって何度か辛酸もなめたこともあったでしょう。また、会社勤めをしたことのない娘に継がそうという発想がなかったと思います。

当時、私はすでに結婚して夫もいましたが、彼はアサヒビールの研究者として働いていたので、父も声をかけなかったのではないかな。自分の娘が大企業で働く夫と結婚している限りは安心だし生活も大丈夫だろうと、「安全弁」のように思っていたかもしれません。

今、実際に事業を承継して私自身が思うことですが、中小企業の経営について父は「本当に覚悟した者でないとできない」と考えていたのではないかと。「自ら手を挙げた者にやらせる」のが大切だという気持ちがあったと推察しています。

私が手を挙げたのは、やはり自分自身がそれまで生きていくうえで食べさせてもらった恩義がありましたし、このまま会社を解散しては雇用も守れず社員はそれこそ路頭に迷ってしまうかもしれない。自分の損得など考えず、誰に命令されたわけでもなく、「自分のできることをやっていこう、皆とともに働こう」と思ったからです。何ができるかはわかりませんでしたが、「みんなのために仕えよう」という感覚でした。

この「献身」という言葉に近い感覚は、聖心女子学院で中等科と高等科で学んで、そしてボランティアや奉仕活動をやってきたことが、とても大きいと思いますね。振り返ると、人生のいろんな「伏線」がそこにあったような気がしています。

自ら中学受験をすると決意した。聖心女子学院に入るとボランティア活動を指揮する委員となって活躍した。

「シスターの方々が皆、自分自身に厳しく、己の生活をささげていらっしゃることに強く感銘を受けた』と話す © NIKKEI STYLE 「シスターの方々が皆、自分自身に厳しく、己の生活をささげていらっしゃることに強く感銘を受けた』と話す

3つか4つ年上の、かかりつけだった医者のお嬢さまが聖心女子学院に通っていたこともあって、子どものころから気になっていた学校でした。実際に見たのは受験直前の秋か冬かでしたが、第一印象は「なんて美しい学校だろう」と。都心にあるとは思えないほど緑にあふれていましたし、テニスコートが何面もあってすごいな、と思いました。中学受験は自分から両親に頼んで塾に行かせてもらい、勉強に励みました。

その成果もあり、都心の有力女子中学は聖心女子を含めて3校に合格しました。聖心女子は30人しか採用しなかったこともあるのでしょうが、合格者の名前を全て筆で書いて発表していました。子ども心に、聖心女子は「一人ひとりを大事にしているんだなぁ」と感慨を覚えましたね。両親は「大学まであるから、これで安心だ」と喜んでいました。

学校時代に何をしていたかというと、あまり強い想いもなく「のんびりしていた」という印象ですね。……「問題意識を持っていなかったのが問題」というような感じでした。部活動は中等部ではテニス部でしたが、高校では「読書研究会」というサークルにいました。

生活は激変したが、生徒たちの生活を守り指導する聖心女子学院のシスターたちの厳格さと献身ぶりに心打たれた。

それと、その頃は外部から聖心女子に入学した生徒は、寄宿舎で1年間過ごすことになっていました。私のように区立の小学校から来た生徒らが一つ屋根の下で過ごし、言葉遣いだとかテーブルマナー、ベッドメーキングなどを習うのです。学校には校長様をはじめとしてシスターがいらっしゃいました。

中高で10人くらいが担当していたでしょうか。寄宿舎などで生活を指導する舎監を担当していた20代後半の若いシスターの下で、いろいろな礼儀作法や祈りの作法を学びました。当時は今よりもシスターたちが厳格で、自らも髪の毛が見えず、お顔しか出ていないようなハビットを被っておられたので、畏怖すべき対象でした。世俗とは違う環境に入った衝撃もありましたし、シスターの方々が皆、自分自身に厳しく、己の生活をささげていらっしゃることにも強く感銘を受けました。シスターのみなさんのおかげで、穏やかで守られ、愛に満ちた学校生活を送ることができたと思います。

そんなこともあって、中等部・高等部を通じて「もゆる会」という奉仕活動には積極的に参加していました。全校生徒が参加する活動でしたが、私は高等部に入ると委員になって動くようになりました。ボランティアにいく先の施設で何人か足りないから人を集めたり、バザーを主催して寄付金や売るものを調達したりと、さまざまなお手伝いをしました。

もっとも印象に残っているのが、ある知的障害者の施設でボランティアをしたことでした。高等部の終わりのころで、いろんな方とお話しさせていただきながら、「神様はいろいろな摂理を世の中にもたらしているのだな」と考えていました。障害のある方々も自分の運命を受け入れて生きていることがわかりましたし、単なる「かわいそうだ」というのは言葉自体が差別的であるとも気づきました。また、恵まれているとはどういうことかと深く考えました。

西行法師に、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という歌があります。伊勢神宮をお参りした西行法師が、その神々しさに心打たれて詠んだとされています。「どなたがおわすかはわからないが、かたじけなく思えて涙がこぼれる」と。

この歌の精神こそ、ボランティア活動を通じて自分の中に強く植えつけられました。つらいことではない、自分が生きてこられた、生かされてきたのが「かたじけない」という想い。この会社を継いで、労働や経営の厳しさや激しさに触れ、「何ができるかわからないけれども、何かの役に立っていきたい」。そういう気持ちが、今の仕事の根底に流れています。

昭和電気鋳鋼 1939年(昭和14年) に群馬県高崎市で、天野定次郎氏が「昭和電気製鋼」として創業。81年に鋳鋼専業となり、83年に昭和電気鋳鋼に社名変更。鋼を鋳物で成型する鋳鋼品のうち大型重機のシャベルのツメや、トレーラーの動力車と荷台をつなぐカプラーベースなどでは国内最大手。独立系として国内外の建機や産業車両、鉄道車両、破砕機など幅広いメーカーから受注している。2020年3月期の売上高は約26億円。

(ライター、三河主門)

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