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<中高年ひきこもり>一橋大卒で30年ひきこもる50代男性、求め続ける母の愛情

週刊女性PRIME のロゴ 週刊女性PRIME 2019/06/01 21:00 週刊女性PRIME [シュージョプライム]
※写真はイメージです © 週刊女性PRIME ※写真はイメージです

 現在、全国に100万人以上いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は今年初めて、40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。

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中高年のひきこもり~母からの虐待~

池井多さん(56)のケース

 今年3月、内閣府は40歳から64歳までの中高年の「ひきこもり」が推計61.3万人と発表した。これは6か月以上連続して「自室からほとんど出ない」「自室からは出るが、家から出ない」「近所のコンビニには出かける」「趣味の用事のときだけ外出する」という“広義のひきこもり群”の数だ。15歳から39歳までのひきこもり54.1万人を上回り、大きな話題となっている。

 今回お会いしたぼそっと池井多さんは56歳。仲間内では「ぼそっとさん」と呼ばれているが、ここでは池井多さんと記す。中肉中背、落ち着いた風情を漂わせ、低めの声でソフトに、だが論理的で知的な話し方をする彼は、国立の一橋大学を卒業している。断続的に30年にわたるひきこもりを経験、「基本的に今もひきこもりです」と微笑(ほほえ)む。

 母親と、母に強制された父からの虐待によって、うつと複雑性PTSDを発症したことが原因だ。大人になるにつれて家族問題がこじれ、この20年近く両親と、8歳違いの弟とは没交渉、現在は体調と相談しながらひきこもり関連イベントのファシリテーターをしたり、英語やフランス語など語学の才能を活かしてネット上で欧米のひきこもりの人へのインタビューを行い、発信している。

「死んでやるから」という母の脅し

「根っこは母からの虐待ですね。心身ともにですが、大人になって振り返ると、身体的なものより精神的なもののほうが悪影響を及ぼしている。いつも同じ構造の虐待が起こっていました。私が“スパゲティの惨劇”と呼んでいる虐待があるんです」

 4歳から学校へ上がるくらいまでの話だ。夕方になると、母親が「何を食べたい?」と聞いてくる。だが、天真爛漫(てんしんらんまん)に答えられるようには育てられていない。もし食べたいものを言ったら全否定されるとわかっているから、「何でもいい」と答える。すると母は「何でもいいじゃわからない」と不機嫌になる。

“スパゲティ食べたいでしょ?”と母親が言うわけです。“もちろん食べたい”と私は言う。父が帰ってくる時間を見計らったようにナポリタンを出してくるのですが、私は当時からグズでしたから、スイスイ食べることができない。

 すると突然、母がキレてナポリタンの皿をシンクに叩きつける。そこにちょうど父親が帰ってくる。母は“この子が食べたいって言うから作ったら、こんなもの食えるかって捨てたのよ”と言いつけるわけです。父親は“そんなことをしたのか”と言う。母親の思いどおりのストーリーが完成して私は有罪が決定する

 私はほぼ口を半開きにしたまま聞いていたと思う。幼い子どもの気持ちを考えるといたたまれない。それだけでもすごい話なのだが、そのあとがもっと悲惨なのだ。

 母は父に「怒ってやって」と命令し、父はズボンのベルトをとって彼を鞭(むち)打つ。彼は屈辱に耐えながら、時間が過ぎるのを待つしかなかった。

「母は有名大学出身のお嬢様で、父は高卒。だから父にとって母が言うことは絶対だった。父が母を諫(いさ)めたり反発したりするのを見たことがありません。あのとき父は何を考え、感じながら私を打っていたのだろうと思いますね」

 さらに母は毎日のように、幼い彼に「言うことを聞かないと、お母さんは死んでやるからね」と言い続けた。

「それがものすごく怖かった。子どもにとっては、意地悪な母親でも母親なんですよ。おまえを殺してやると言われたら逃げるけど、死んでやると言われたら身動きがとれない

 以前、母娘問題で悩む女性に話を聞いたことがある。彼女も小さいころから、母の意向と違うことをしようとすると「あんたがそんなことをしたら死んでやる」と脅されていたそうだ。だから「母の思いどおりの人形になるしかなかった」と彼女は泣いた。

 池井多さんもそんな脅迫を受けていた。しかも父も渋々かもしれないが加担していた。

強迫神経症に悩んだ人生の暗黒時代

小学校低学年のころから死にたいと思っていました。本を読んで、理科室でシアン化カリウム(青酸カリ)を探したこともある

 小学校3年生から中学受験の勉強をさせられ、午前2時まで寝かせてもらえなかった。

 その後、父の転勤で一家は名古屋へ。母は名古屋で塾を始め、かなりの収益を上げていたようだ。彼は引っ越し先の学校で「関東から来た異端児」といじめられていた。

学校でも家でもいじめられて人生最大の暗黒時代でしたね。毎週日曜は、名古屋から新幹線で東京の塾に通わされ、いつも疲れていた

 そのころは強迫神経症に悩まされていた。不吉なことへの恐怖が強かったのだ。

当時、同級生のお母さんが亡くなったんですよ。私はそれを聞いて、その同級生が触った机、触れたものなどにいっさい触ってはいけないと自分に言い聞かせた。そうしないと自分の母親も死んでしまうと思い込んだんです。そして実はそれが私の希望でもある。だからよけい怖い

 心の中に「母親なんか死んでしまえばいい」という願望があった。だがそれが現実になるのは怖い。恐怖感が募ると頭を激しく振り続けた。そうすると意識が遠のくから恐怖から逃れられる。だが、頭を振っているところを母親に見られると激しく叱られた。

母は私に一橋大学に入ってほしかったんです。昔から、“東大生はバランスを欠いている、早稲田は下品、一橋生がいちばん”と言っていた。私は母が一橋生にフラレ、大学を卒業してすぐにあてつけのように高卒の父と結婚したんじゃないかと推測しています」

 反抗期もなかったが、さすがに高校生になると、「母の言いなりになってたまるか」という気持ちが芽生えた。だからあえて1年浪人、そして一橋大学に合格した。

「東京に合格発表を見に来て受かっているとわかったとき、公衆電話から家にかけたんです。合格を伝えて、もし母が“おめでとう”とか“今までごめんね”と言ったら、私はすべて水に流すつもりでいた」

 だが母は「あ、そう。早く帰ってきなさい」とひと言。

 池井多さんの中で何かがキレた。このまま一橋大学を出て、母の望む一流商社マンになる。それが自分の人生かと思うと愕然(がくぜん)としたという。

 東京の下宿や大学寮で暮らし始めたものの、講義には出ずバイトばかりしていた。それなのに就職活動では、やたらと内定が出る。

でもある日突然、身体が動かなくなったんです。それが最初のひきこもりですね。このままスイスイ内定をもらったら母の思うつぼ、母を追認することになる

 当時、大人気の一流企業に内定していたのに、それを蹴って2年留年した。

「朝6時まで起きていて、食堂でうどんを食べて寝る。ただ、親から生活費をもらっていなかったから、塾講師のバイトは休めない。ぎりぎりまで寝ていて、這(は)い出して行く。地獄の苦しみでした」

死に場所を求め、海外で「外こもり」

 本当は早く死にたかった。苦しくて医者に行き、うつ病だと診断されたが、死ぬ勇気は出なかった。

 そこで彼は突然、「外こもり」をしようと考える。つまり海外で死のうと考えたのだ。

「どこで死のうかと考え、アフリカが浮かびました。子どものころから、母に“アフリカの子に比べたらおまえはどれだけ幸せか”と言われていたので、本当にアフリカの子が不幸なのか自分の目で見てから死にたいとも思った

 26歳のとき、彼はまずドイツの知り合いのところに身を寄せ、そこからアフリカへと渡った。スーダン、エチオピア、ケニア、内戦の激しかったモザンビークにも行った。

「放浪目的ではなく、自分では死に場所を求めていた。野宿したり安宿に泊まったり。いっそ殺されてもいいと思っていたのに無事なんですよね」

 今思えば、自分にも見栄があったのだろうと彼は振り返る。働きもせずに日本にいるのはカッコ悪い、周りにも知られたくない、海外放浪ならカッコいいのではないか、と。

 3年間、アフリカにいたが、「結局は死ねず、死なずだった」と自嘲ぎみに話す。そんなとき宿泊していた場所に、母親から「父が病気で死にそうだ」と連絡があった。あわてて帰ると、父は元気に会社に行っていた。

「実は母が私に会いたかったのではないかとひそかに思っていたんです」

 その後は埼玉に転勤になった父親とともに団地で暮らすことになった。名古屋で塾を経営する母に代わって、「専業主婦の役割を押しつけられた」のだ。後に、留学から帰ってきた弟と暮らすことになる。一方で家庭教師をしたりアフリカの旅の話を書いて本を出版したりもした。

「たまたま私を評価してくれる国際ジャーナリストがいて、中国の取材を頼まれました。でも、やはり心身の状態がよくなくて、納得できる仕事はできなかった」

 そのジャーナリストは’95年に亡くなってしまう。何かをつかもうとしていた彼の頼みの綱が切れた。そして弟との関係も悪化していた。

留学から帰国した弟の態度が変わっていた。“ガールフレンドを連れてくるから、はずしてくれ”と5000円札を投げてよこしたことがあって、どこでそんな言い方を学んだのかと愕然としました

家族への手紙、原稿用紙700枚

 ’95年から’99年まで、彼はその団地でフロイトを読みながら、自分を模索し続けた。

「カーテンの外に光が見えるのがイヤだった。自分だけ置いてけぼりにされている気がして。昼も夜も雨戸を閉めて精神分析をしていました」

 やはりこのままではいられない。家族の構造に問題があるのだから、解決すれば自分も普通に働けるようになるのではないか。彼はそう思った。

家族にあてて原稿用紙700枚くらいの手紙を書いたんです。自分史みたいなものです。私の心を蝕んだ家族のゆがみについても書いた。最後は、家族会議を開きたいという思いで締めくくりました。4人で集まって問題点を話し合いたかった。ところが実家に戻った私に母は“何も問題なんかない”と言い張り、父と弟はだんまりを決め込んだ

「愛されていた」。ただひとつその確認をしたかったのではないか。吐き捨てるように話をする彼を見て、そう思った。この世にいてもいい存在なのだと納得したかったのではないだろうか、と。

 池井多さんは論理的で頭の回転も速く、なめらかに話をするが、話し終えたときの眼差(まなざ)しに、ときおり何とも言えない寂寥感(せきりょうかん)のようなものを漂わせることがある。私の思い込みかもしれないが。

母にはただひと言、謝ってほしい

 彼はひとりで、とある精神科クリニックを訪れ、福祉とつながって生活保護を受給することとなった。だが、彼の優秀さはここでも搾取される。クリニックが運営しているNPO法人の事務局長に任命され、8年近くただ働きをさせられたというのだ。

治療過程の“作業”という理屈ですが、私は動き回って助成金をとってきたりもした。なんかおかしいと思っていたら、見事に切られました

 ある日突然、事務局長を解任されたという。

 今、彼はその顛末を記事に書いたり、同様の被害者の話を聞き集めたりしている。

 同時にひきこもりと老いを考える『ひ老会』も主宰、仲間たちとともにこの先を考えていこうとしている。

母には無限に聞きたいことがあります。でも本当はひと言謝ってくれればそれでいい。それさえ高望みでしょうけど。恨みや憎しみがあまりに大きくて、もう感情としては出てこないんですよ

 彼は妙に穏やかにそう言った。あきらめが、うつになっている。まだ憎しみもある。

「怒りや恨みって、結局、マイナスの愛着なんです」

 彼は今さら求めても無理だとわかっているのだ。それでも、どこかに残っている「子どものころの彼」が親の愛情を求め続けている。

【文/亀山早苗(ノンフィクションライター)】

かめやまさなえ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆

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