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南京大虐殺の嘘:あり得なかった「市民の大虐殺」

JBpress のロゴ JBpress 2019/04/09 06:00 森 清勇

 NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」(日本テレビ・2015年10月4日放映)は、「ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞」をはじめ、1つの番組で7本受賞した。

 番組製作者の清水潔氏は「事実の証明に苦労した放送だったので、・・・それを後押しして頂けたようで嬉しく思う」と、著書『「南京事件」を調査せよ』(2016年8月刊)で述べている。

 日本テレビは2018年5月14日に「南京事件Ⅱ」を放映。これを観た福田康夫元首相は、「日本軍が中国人を殺したのは事実なんだ」と思い、また幼少の一時期を同地で過ごした懐かしさと、習近平主席が「南京大虐殺記念館」の内容を大幅に入れ替えたと知り同館を訪問する気になったという。

 著書は1年余後に早くも文庫本となり、その「あとがき」では産経新聞(平成28年10月16日付)や一部の人からもの言いがついたが、調査報道の真髄に迫るのが評価されていることが分かる。

 多くの捕虜を抱えた103旅団(13師団)の捕虜対処では、飯沼守上海派遣軍参謀長の日記でも記述が曖昧で、肝心なところは「噂アリ」の記述でしかなかった。

 すなわち、歩兵第66連隊と山砲兵第19連隊の約2万に上る捕虜対処には不明なところが多かったのである。

 この点を1次資料発掘で解明した労を多とし、善悪はともかくとして、戦争の悲惨さや軍人の生き様などに視聴者を向きあわせた功績は大きいとみる。

 ただこの一文を草するのは、次に述べる2つの危惧からである。

南京事件の本質は「捕虜」問題に非ず

 一つは、放映と著書に「南京事件」と冠しながら、主たる部分が「兵士たちの日誌とその検証」による“捕虜問題”であり、「南京事件」=「捕虜問題」と勘違いさせる危惧である。

 そもそも、「南京事件」の主たる争点は、中国が高校で使用する教科書『世界近代現代史』にある「1937年12月~1938年2月の間だけでも南京一都市において、30万人もの武器を持たない中国人が、日本のファシズムの残酷な大虐殺に苛まれた」とする内容の真偽である。

 すなわち「約6~7週間」に「南京一都市」で「30万人」もの「武器を持たない中国人=一般市民」の「大虐殺」があったか否かである。

 中国がその事実を示すものとして開設している展示館は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」と表示され、日本では分かりやすく、約(つづ)めて「南京大虐殺」と称することが多い。

 同館の至る所に「30万人」とあり、期間は「1937.12.13-1938.1」と明記されている。

 中国共産党の決定と言われるこの内容は、南京攻略戦で南京が陥落して以降の約40日間で、捕虜や城内の市民30万人を日本軍が殺害したというものである。

 この視点に立つと、「南京事件 兵士たちの遺言」や『「南京事件」を調査せよ』の「主たる部分」は幕府山周辺での数万の捕虜の捕獲から殺害に至る数日間の状況でしかいないので、南京事件イコール捕虜殺害という誤解を与えるのではないだろうか。

 「南京事件」とは何かを曖昧にしたままの議論は、ことの本質を矮小化しかねない。

 放映と著書の内容からは「南京事件」の冠でなく、「南京攻略戦における捕虜処刑 兵士たちの遺言」などが適切ではなかっただろうか。

 以上からも分かるように、日中の歴史戦における「南京事件」の本質は、教科書で記述している通り、「市民30万人の虐殺」があったかなかったかである。

 「南京事件」の国内論争では便宜上「大虐殺派」「中間派」「まぼろし派」と三分される。これは捕虜の処刑ではなく、市民虐殺を「10万~30万人(ここでは捕虜も含む?)」、「数千人~2万人前後」、「ほぼゼロ」とみることからの区分けである。

 戦争(や事変)で戦死者や捕虜が出ることはもとより承知で、「遇難同胞」とは呼ばないであろう。教科書が記述するように、記念館の「大屠殺遇難同胞」は「武器を持たない中国人」、すなわち「一般市民」の意であると理解できよう。

 中国が「南京大虐殺」をユネスコの「記憶遺産」に登録する行為に日本が反発したのは、捕虜数万人の問題というよりも、「一般市民」数十万の「大虐殺」などの人道に悖ることはしていないとみているからである。

 一般市民の大虐殺があれば「犯罪国家」の誹りは免れない。それゆえに、市民の大虐殺の有無は国家と軍人の名誉にかかわる大事である。

 南京事件の争点は一にこの市民大虐殺であり、「南京事件」と銘打ちながら「主たる部分」を捕虜問題、しかも虐殺問題として扱うことは、羊頭狗肉とさえ言えるのではないだろうか。

 清水氏は放映後に残った疑問として、「南京事件が否定され続け、闇へ封じ込まれようとするのか」と語っている。

 日本は闇へ封じるどころか、河村たかし名古屋市長が「姉妹都市の友好を高めるために真実を突き止めたい」と発言したのに、少年たちの相互訪問を含む多くの友好記念行事を取りやめたのは中国側であったのだ。

捕虜殺害は違法だったか

 もう一つは捕虜の処遇である。これは戦時国際法に則った処置か否かであり、日本側は一部違法の面もあろうが、基本的に適法であったとみていた。

 蒋介石やその後の中国を率いた毛沢東は、日本軍の掠奪・暴行・放火などに言及するが、捕虜問題には言及していない。

 ましてや虐殺に触れていないということは、取り立てて非難するほどの市民虐殺(戦闘に巻き込まれての死亡は虐殺ではない)はなかったし、捕虜の殺戮も戦時国際法から逸脱するものではなかったと認識していたからではないだろうか。

 兵士の陣中日記などでは殺戮の詳細な状況を書き残しているが、「(敗)残兵掃蕩」を行なっているのであり、「虐殺」という認識はないのでその用語も使用していない。

 殺戮の命令を下した指揮官たちは、戦いは続いており、自軍の糧食にも窮するところに数十倍の捕虜をかかえて困惑した。

 収容棟では火災が起き逃亡兵が出る、解放のため移動中には反乱が起きるなどから最終的に処刑する。簡単な裁判すら開いていない不備もあるが、「虐殺」どころか、適法の意識で行ったわけである。 

 捕虜処刑は戦時国際法に関わる違法性の問題で、人道に悖る処刑、すなわち犯罪云々ではない。ここで、戦時国際法の専門家たちの見解を見てみよう。

 外交史家で国際法学者の信夫淳夫博士は、「俘虜の人道的取扱も、捕獲軍の作戦上の絶対必要の前には之を犠牲にするの已むを得ざる場合あることも肯定すべきである」(『戦時国際法講義』)として、下記のハレックの説を示している。

 「極めて多数の俘虜を捕獲したるも之を安全に収容し又は給養することが能きず、しかも宣誓の上解放したればとて彼ら能く之を守るべしと思へざる場合も時にあるであらう。・・・軍の安全に直ちに脅威を感ずるをも顧みず之を解放せざる可らざるか、将た自衛の法則として彼等を殺害するに妨げなきか。仮に軍の安全が敵―たとひ我軍に降伏したものにせよ―のそれと両立し難しとせば、敵を殺害することが国に忠なる所以とすべきか」

 「俘虜を殺害することの風習は今日文明国間に廃たるるに至ったが、権利そのものは依然として捕獲者の手に存し、絶対の必要ある場合には今日でも之を行ひ得ぬではない。・・・ただ必要の度を超えては、何等苛酷の措置は許されない。随って軍の執れる手段が果して絶対必要に出でしや否やは、事毎に周囲の事情を按じて之を判断すべく、軽々しくその当否を断ずべきでない」

 国際法学者の田岡良一博士(『増補・国際法学大綱下巻』)は、「敵兵にして降を乞ふ者の生命を害する事は、慣習法上禁止せられ、ヘーグ陸戦条規23条(ハ)号も亦之を規定する。然し乍ら戦闘の進行中に敵軍の一部が投降の意を示しても、我が軍が之を収容して後方に送る為には我部隊の進撃を一時中止する必要を生じ、其事が我勝利を危くする惧ある場合には、敵の降伏信号を黙殺して攻撃を継続することを許される」

 「陸戦条規23条(二)号の〈助命せざることを宣言すること〉の禁止は、敵兵の投降を認めない事を戦闘の開始に先立って予め宣言することを禁止するのみであって、戦闘の進行中に臨時に生ずる軍事上の必要に基づいて投降を拒否する事は之を禁止するものでないと解すべきである」としている。

 外国人記者が殺害の状況を報道し、また宣教師らが日本軍の悪行を報告しているが、「虐殺」か否かを批判しなかったのは、彼らには戦時国際法が念頭にあったからだと見ることができよう。

 そもそも虐殺云々は、戦後8年も経って南京と東京で行われた裁判で初めて出てきたことである。

 しかも、捕虜などの殺害は多くても2万~3万人であるが、裁判前後からの中国の口吻は「12月13日から6、7週間」「30万人」の殺害などであり、これが「南京大虐殺」(または掠奪・暴行・放火なども含めて「南京事件」)と称されてきたのである。

 繰り返すが、安全区内で摘出された敗残兵や便衣兵、並びに城外の揚子江南岸一帯(主として幕府山周辺)で捕獲された捕虜の殺戮やその方法だけが問題にされてきたものではない。

戦争にも国際ルールがある

 戦争といえどもルールがあり、それはハーグ陸戦法規などの戦時国際法で規定されている。この中で、捕虜や敗残兵、便衣兵などについての考え方も記されている。

 著書では、日本軍は中国人兵士の捕虜を残酷に扱ったという流れで貫かれている。日清戦争時の旅順虐殺事件なども引き合いに出して、日本軍がしばしばやってきたことで、南京事件だけが特異ではないということを示したかったようだ。

 しかし、そうした事例は事案が起った経緯を省いて日本側の行為のみを一面的に記しており、多分に誤解を与える。本論の焦点ではないが誤解があるようなので、まず旅順虐殺問題から取り上げる。

 近代化による文明国家を意識していた日本は、日清戦争以後の戦争にも国際法の専門家を同道した。

 戦争や事変は国家の名誉を懸けた戦いであり、戦死者が出るのは覚悟の上である。しかし、国家を背負って戦った戦死者には相互に尊崇の念が払われて然るべきである。

 米人記者は「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊るされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られた恐ろしい門があった」とワールド紙に記し、「その後、大規模な殺戮が起った、激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と報道したのである。

 実際、清国兵は日本兵士の死体や負傷者の首を刎ね、切り裂いた腹部には石を詰め、腕や睾丸までも切り取って路傍に放置する状況で、戦死者の扱いどころか、猟奇事件もどきに扱ったのである。

 この状況に激昂した日本兵は、便衣兵や武器を隠し持っていた市民などまで殺害したのである。米人記者は事実を報道しているが、「虐殺」として批判していないことが肝心である。

 日露戦争の第2軍司令官大山巌大将は、「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。東鶏冠山では日露軍が150メートルの距離で対戦した。

 しかし、一端休戦が宣せられると戦死者を収容し、その後双方が酒やウォッカを持ち寄り、しばし歓談し芸を披露して過ごす。その後、再び死闘を繰り広げたのである。

 南京攻略戦の途上において、掠奪、暴行、放火(これらも、米人記者によると9割以上は撤退する中国軍の常習的な焦土・清野作戦による)があり、また徴発などで一般市民を巻き込んだこともあるであろう。

 また、捕虜の取り扱いについては軍の上層部が戦時国際法に疎かったという批判もあるが、師団長の「捕虜ハセヌ方針ナレバ」に旅団長や連隊長が苦悩するが解放の方向で動くなど、文明国としての基本が機能していたことは確かである。

武勇談から一転「加害者」への危惧

 先述のように、捕虜の数は多かったが、戦時国際法で見たように処分は正当で犯罪視されることはないと思っていたに違いない。そして、堂々と陣中日記などに書き綴っていった。ある意味「武勇談」として・・・。

 実際のところ、当人たちがどういう気持ちで書いたか判然としない。しかし、当時の日本社会は万雷の拍手を以て彼らの武勇を歓迎していた。

 捕虜の捕獲は戦勝の証であった。しかし、捕虜が捕獲部隊の数十倍で処遇に窮する。そして、日本軍に危害を及ぼさない安全な場所まで連行して解放することにした。

 しかし、収容場所で火災が起きたり、解放場所へ移動中に反乱が起きるなど、意図しない状況に遭遇する。この間に逃走したものも多い。残りは最終的に処刑される。

 捕虜殺戮の陣中日記などを実行者たちはなぜ隠していたか。当人たちがいない現在、正確な答えは見出せない。

 ただ、大隊長副官や砲兵小隊長で白兵戦をする立場になかった2人の将校が、戦場を移動する合間に練り上げた仮想の武勇談としか思えない「百人斬り競争」を新聞記者に語ったばかりに、南京における裁判で死刑を宣された。

 この時点から、捕虜処刑を実行した兵士たちは、自分の所属が特定される可能性、危険性を感じ、それは恐怖と沈黙に代わっていったのではないだろうか。

 城内の安全区での便衣兵や敗残兵の摘出と処刑は計画的であったが、城外(幕府山周辺)の捕虜問題は偶発的であったと言えよう。

 兵士たちの日記からは幕府山周辺の捕虜殺戮が計画的に行われたかのように読み取れるが、上級指揮官たちは、これほど多くの捕虜が出ること自体を想定していなかった故に慌てふためいたのである。

 兵士たちが残した殺害状況は、隔離・解放のための移動間の叛乱が一段落し、処刑を決意した後の最終段階で、ここでは「計画的」のように実行されたであろうが、これをもって、「(当初から)計画的」であったとは言えない。

 当初の計画は安全な場所での解放であったが、叛乱などから処刑に決し、その処刑は何人かずつという具合に整然と、清水氏流に言えば「計画的」に行ったということである。

 また、都合の悪い記録は焼却され残っていないかのように述べるが、程度の差こそあれ、各級の指揮官は書き残している。

 捕虜の殺害と資料の焼却については、阿羅健一氏が「南京大虐殺記念館を訪れた 福田康夫元首相の過ち」(『Hanada』2018年9月号所収)に書くように、計画的な虐殺も焼却による封印もない。

揺らぎ始めた中国側の言説

 大切な論点なので繰り返すが、日中の歴史戦は「南京で日本軍が中国の一般市民(と捕虜等)30万人を殺したか否か」で、捕虜の殺戮やその計画性などではない。

 日本の研究が進んだゆえであろうか、「南京事件」についての中国の見解が当初の言い分(教科書記述)から変化している。

 2005年6月、櫻井よしこ氏らと議論した中国社会科学院近代史研究所の歩平所長は、「30万人という数字について、・・・これはたんに一人ひとりの犠牲者を足していった結果の数字ではありません。被害者の気持ちを考慮する必要」があると述べ、ヒロシマの被害者が「±1万人」とされるのと同様だとした。

 一人ひとりを足したのではないというのも驚きだが、±1万人は傍証はあるが最終的に確認できないもので、「感情」でプラスマイナスされているのではない。「科学院」でありながら、少しも科学的でない説明だ。

 極めつけは習近平国家主席が国賓として英国を訪問した時のエリザベス女王主催の晩餐会における挨拶(2015年10月)であった。

 虐殺場面を撮影しようとした英国人記者が日本軍に捕まり、殺されるところを中国共産党の兵士が助けたとの美談を英中友情の物語として披露したのである。

 ところが、記者が上海に入国したのは南京事件の終わる時期で、しかも南京に行かずに漢口へ行っており、事件の撮影も共産党兵士の救助もあり得ず、中独などの合作映画用に脚色したことを評伝作家が認めたのである。

 何としても南京事件を歴史戦として継続させたい一心がもたらした勇み足というにはあまりにお粗末ではないか。

 それがあってかどうかは分からないが、「南京大虐殺記念館」の第1回目のリニューアルは20年後であったが、今回の第2回目は8年後の2016年末から約1年間で、2017年12月にオープンした。

 ところが驚くなかれ、「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」として顕彰された本多勝一記者の顔写真や著書『南京への道』『裁かれた南京大虐殺』、そして中国取材に使用したペンやノート類などの資料、並びに全世界に衝撃を与えた中国系アメリカ女性のアイリス・チャン執筆の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』などが撤去されたというのである。

 「史実の新たな証拠を集めた」と評してオープンした結果は、「大虐殺」に関連した写真と物品類それぞれ3000点が、写真は2000点に、物品類は1000点に削減され、新たに習近平主席の写真と慰安婦コーナーの新設となったというのだ。

 南京大虐殺の「動かぬ証拠」であった写真や資料などの物品類が、習主席の「偽美談」を後追いするような形で撤去されていったのを、どう解釈すればいいのだろうか。

 そうした状況の中で昨(2018)年6月、同記念館を福田康夫元首相が訪問し、献花までして批判された。

 案内した張建軍館長は、「30万人というのは南京城内の人だけでなく、南京に至るまで日本軍が殺害した人も含む」と説明したという。

 清水氏は調べれば調べるほど厄介な南京事件であることが分かり、報道局長と同席の車で「これは相当に難しい」と、「危険な企画は消滅する」ように本音を呟いたという。

 ところが次の会議で局長は「清水さんが・・・やる気を出しているので担当してもらおうと思います」と説明した。清水氏自身が「史実というものはこうして修正されていくらしい」と書いている。

 中国の「南京事件」に対する言説は、架空物語をも導入しなければ成立し難くなりつつあるようだ。

おわりに

 支那事変、そして南京事件における日本の加害を筆者は完全否定するものではない。

 しかし、発端である盧溝橋事件は、正当に駐屯していた日本軍の訓練を中国共産党が混乱させるために射撃してきたものであった。それでも不拡大方針の日本側は停戦協定を結ぶ。しかし、その後も協定は破られ拡大していった。

 英米なども日本同様に租界や居留地を有し、軍隊も駐留していた。外国人排斥の意図で行う中国の攻撃に対する英米の反撃は強力で、損失が大きすぎた。

 しかし、日本は幣原軟弱外交と称されたように、非合法の攻撃を受けても隠忍自重し反撃しなかった。そうした対応を中国側は日本側の「弱み」とみて益々増長していった。

 南京への飛び火も、ドイツから軍事顧問団を迎えて従来にない強固な防御陣地を構築していた蒋介石軍の使嗾からスタートしている。

 そして上海の堅陣を突破されると、直後の1937年11月、国民党直属の国際宣伝処を新設し、「兵士の戦い」から「プリンターインクの戦い」(フレデリック・ウイリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕』)、すなわち「宣伝戦」に戦術を変更する。

 ここでは蒋介石夫人宋美齢の人脈で、南京在の米人宣教師らが活躍し、南京で起きた掠奪・暴行・放火など、ほとんどは中国側がやったにもかかわらずすべて日本軍の仕業として世界に喧伝されるようになっていく。

 そうした流れが生み出した「南京事件」であると筆者は見ているが、いかがであろうか。

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