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愛妻をがんで亡くし、自らも「がんサバイバー」のエリート医師が味わった絶望と希望

週刊女性PRIME のロゴ 週刊女性PRIME 2018/10/07 17:00 週刊女性PRIME [シュージョプライム]

 7月23日、埼玉県熊谷市で観測史上最高の41.1度を記録した直後の午後3時。

 札幌市の北海道がんセンターは、がんの専門病院らしからぬ歓声に包まれていた。入り口周辺には、白衣姿で拍手をする人もいれば、『ずっと一緒にいたいから がん検診』と書かれた幟(のぼり)を手にした人もいる。

 そんな人たちの輪の中に、20名ほどの人に囲まれた男性が、『がんサバイバーを応援しよう』と書かれた幟を手に飛び込んできた。

 男性の名は、垣添忠生さん(77)。検診による早期発見や早期治療、生活習慣の改善を呼びかけることでがん撲滅を目指さんとする『日本対がん協会』の会長であり、東京築地の国立がん研究センターの名誉総長。そして自身も腎臓と大腸のがんを患い、がんとともに生きる“がんサバイバー”のひとりでもある。

公益財団法人「日本対がん協会」会長 元国立がんセンター総長 垣添忠生さん 撮影/森田晃博 © 週刊女性PRIME 公益財団法人「日本対がん協会」会長 元国立がんセンター総長 垣添忠生さん 撮影/森田晃博

 この日は全国700万人のがんサバイバーたちを励まして、健康な人には予防と検診の大切さを啓蒙。さらには寄付を訴えるのを目的に全国を縦断した“がんサバイバー支援ウォーク”総距離3500キロの最終日だったのだ。

 ウォークは2月5日、大雪に見舞われた九州がんセンターを皮切りに、四国、近畿、関東、東北、北海道と北上。途中、仕事による数回の中断をはさみながら、全国がんセンター協議会加盟の32病院を96日間で訪ね歩くという苛酷なスケジュール。時折、各地の患者団体の人たちに先導してもらいながらも、1日数十キロを原則ひとりで歩き続ける垣添さんを励ましたのは、幟を見た歩行者からの温かい励ましや、ドライバーたちからの“頑張れ!”という声援、そして日本の美しい風景だったという。

 がん患者とその家族を支援する『リレー・フォー・ライフ・ジャパンとまこまい』事務局長で、最終日をともに歩いた下村達也さんが、その道のりと熱意に感嘆する。

「(垣添)先生は、今日は17キロぐらい歩いています。77歳とは思えないほどお元気で、足が速い。このウォークで、赤かったリュックはオレンジ色になったと言っていました」

 リュックの色を変えるほどの雨風にさらされて、この日ようやっとゴールイン、月桂樹の冠を贈られて、会心の笑顔を見せる垣添さん。

 だが、もっとも喜んで迎えてくれたであろう人が欠けていた。2007年12月31日に肺の小細胞がんで帰らぬ人となった、最愛の伴侶・昭子さんである──。

◇  ◇  ◇  ◇

 3500キロを歩き切る不屈の人・垣添さんに、「妻の死後は、自死すらも考えた」と言わしめた人との出会いは、1967年、東京大学医学部を卒業した直後のことだった。

 垣添さんが静かに語りだす。

「卒業したあと医師免許を取るまでの2年間ほど、今はもうない東京都杉並区の病院でアルバイトをしていました。妻の昭子とは、そこで出会ったんです」

 当時の医学生には、医師国家試験受験資格を得る前に、実地訓練を積むことが義務づけられていた。大学病院や総合病院で1年以上、インターンとして安い給料で働くことが欠かせなかったのだ。

 東大医学部出身であれば、東大附属病院でインターン研修をするのが通例だ。ところが当時は学園紛争の真っただ中。医学部でも卒業試験や研修のボイコットが相次いでいた。こうした理由で、医学部の仲間5人とともに、先の病院で週1回のアルバイト勤務をしていたのだ。

「昭子はリウマチという診断をされての入院だったかな。後になってSLE(全身性エリテマトーデス)という難病だとわかったんですけどね。

 私は週1回、病院に来る若手医師のひとりとして、外来の診察を手伝ったり、回診を手伝ったり。

 初めての出会いは回診のときだったかな。同じように白衣を着ていても、私は仲間とちがって貫禄がなくて、医師には見えなかったらしい。後になって“心電図かなんかの技師さんかと思ってた”なんて言っていましたね」

 昭子さんはほどなく退院、垣添さんも退院後の患者さんを往診する役目を任された。

「彼女、コーヒーが好きだったから、往診に行くとかならずコーヒーを1杯入れてくれてね。闊達(かったつ)で、話の面白い人なんです。打てば響くように反応する。

 それで、数回会っただけで漠然と“結婚するならこんな人がいいなあ”と。そのうち、“結婚するならこの人しかいない”と思うようになった」

 だが結婚までには、思いもしなかった展開が待っていた。

「その人と結婚するなら自殺します!」

 出会って1か月で結婚を意識したという運命の出会い。だがこの恋には障害があった。

 昭子さんは垣添さんより12歳年上の38歳であったばかりでなく、既婚者だったのだ。夫とは10数年にわたって別居中。離婚協議中ではあったが成立はしておらず、厳密にはまだ人妻の身であった。

 一方、垣添さんといえば、医学部を卒業して間もない26歳。学生とも、医師とも言い切れない研修医という微妙な立場である。そんな2人の熱愛は、周囲を慌てさせるのに十分だった。

結婚したい。12歳年上で、これから離婚することになっている女性なんだ──

 両親にこう切り出すと、2人の表情がみるみる厳しくなっていった。

 英国王子が離婚歴のある年上女性と結婚する時代である。離婚や再婚も、現在ならば珍しくもない。だが、これは50年ほども前の話。垣添さんはこの日以来、四面楚歌(しめんそか)の状態に。数回目の話し合いの場で、とうとう母親が叫んだ。

 “その女性と結婚するなら、私は自殺します!”

「これはいくら話しても埒(らち)が明かないと思ってね。傘を1本つかんで家を飛び出した」

 向かったのは昭子さんの家。2人はその日からともに暮らし始める──。

◇  ◇  ◇  ◇

 がんサバイバー応援のためならば3500キロも歩き切るし、愛する人のためなら、駆け落ちもいとわない。

 そんな垣添さんは、1941年、安田銀行(現みずほ銀行)大阪支店に勤務する銀行マンを父に、4人兄弟の3番目として生まれた。

 ’41年と言えば、太平洋戦争勃発の年である。

「戦争の世代ですから、一時は両親の故郷である飛騨高山の親戚のもとに疎開していてね。食べ物がなくて、ものすごく飢えた覚えがあります」

 1945年、終戦。一家は信貴山のふもと近くの大阪府八尾市の社宅に落ち着いた。

 干ばつ対策として作られていた大きなため池を絶好の遊び場に、4歳の少年は野生動物のように日がな1日、野山を駆け回っては、自然の驚異に目を見張った。

 池辺ではカマキリがギンヤンマを捕らえ、池から巨大な食用ガエルが現れたと思ったら、またたく間にそのカマキリを丸呑みにする。そんな一瞬のドラマなどなかったかのように、静まり返る水面……。

 厳しくも美しい自然のありさまに、生けるものへの興味と敬虔(けいけん)の念が芽生えていった。

「こうした経験が、後に医者を目指すベースになりました」

 父親の転勤により1949年、東京は新宿の小学校に2年生で転入。中学高校は国立市にある桐朋学園に入学した。

 ここでは宮本大典先生の指導のもと、群論や行列式など最先端の数学の面白さに開眼。この経験が東大理科二類受験に役立った。数学の問題を、教えられた行列式を使うことで簡単に解くことができたのだ。

 医学部志望はペットとの別れがきっかけだったと言う。

「高校2年の17歳のときだったか、ペットのシェパードのエドが死んで。ジステンパーという病気にかかっていたんだね。学校から帰って抱っこしているうち、だんだん冷たくなっていって。でも死ぬ前にたびたび痙攣(けいれん)を起こしていた。無知は罪悪だと思いましたよ。痙攣は脳にウイルスがいったせい。わかっていたら、打つ手はあったのだから」

 母親も一因だった。

「病弱でね。それで医学部に行こうと思ったんです」

 垣添さんは母親の反対を振り切るようにして家を出た。もしも医師への道を選ばなければ、両親が望んだような女性と、平穏な結婚をしたかもしれない。垣添さんが医師を目指した一因に、そんな病弱な母への強い思いがあったのは皮肉である。

年上妻の内助の功に支えられ

 話を昭子さんとの出会い直後のことに戻そう。

 駆け落ち同然で昭子さんの家に転がり込んだ垣添さんだったが、大切な医学書すらも手元にない。

「そうしたら何日かたって母親から電話がきて“医学書とか洋服とか持っていってちょうだい!”と。それで小さいトラックを雇って、彼女の家に運び込んで」

 そんな状況下でも垣添さんは着々とインターンとしての経験を積み、1969年1月に医師免許を取得。晴れて一人前の医師となった。同年3月、昭子さんの離婚成立をうけて杉並区役所に婚姻届を提出。2人は正式に夫婦に。

「結婚式も指輪の交換もしなかったね。彼女が再婚だったこともあったけど、当時はそんなお金もなかったし」

 新婚旅行から帰った直後、垣添さんは板橋区にある都立豊島病院に就職、泌尿器科の医師としての第一歩を踏み出す。

「彼女は津田塾出身で、英語が得意だったのね。私がアルバイト中で給料が安かったころは、子どもに英語を教えたりして生活を助けてくれた」

 1971年には専門外の外科での研鑽(けんさん)も積みたいと、埼玉県の藤間(とうま)病院に出向した。

「泌尿器科が診る腎臓や膀胱(ぼうこう)は腹膜という薄い膜の外側にあるんだけれど、当時の泌尿器科では、膜の内側の胃や腸の様子はまったく診ずに縫合してしまっていたの。私は必要があれば腹膜の中も診るべきだし、腸の手術もすべきだと。そのためにも、外科の知識と技術を身につけたかった」

 超多忙な勤務の中で、副院長ががん手術の際に見せる手技に魅了され、懸命に学び取った。垣添さんは生涯のミッションであるがんとの闘いに、足を踏み入れようとしていた。

 32歳になった1973年には東大医学部に戻り、泌尿器科文部教官助手に。膀胱がんを専門に選ぶ。さらには、

「膀胱がんがなぜ再発するのかを研究したかった。国立がんセンター研究所の杉村隆先生に連絡すると、“しっかりやれ”と受け入れてくれて」

 それからは東大泌尿器科での仕事を終えてから研究所に行き、11時まで研究に没頭する毎日。昭子さんはそんな垣添さんの帰宅を待ち、日付を跨(また)ぐ夕食に付き合ってくれたという。

「僕の仕事の重要性を理解していてくれてね。その間、昭子は1度も不満を言わなかった。ありがたかったですよ」

 34歳の1975年には国立がんセンター病院の泌尿器科医に採用される。カナダへの留学を経て40歳で同センター健康相談室長に。50歳のときには院長に上り詰め、医師120人、看護師600人、その他のスタッフ合わせて5000名を率いた。

 2007年、65歳で同センター総長を退任したあとは、名誉総長に就任している。

 東京医科歯科大学名誉教授で、現在は埼玉県の秀和会 秀和総合病院理事長を務める坂本徹さんは医師仲間としてこう語る。

「仕事に対しては厳しいことで有名です。僕は心臓外科出身で、この分野ではがんのような転移はまずありません。

 一方、がんは細胞レベルで見て初めて確定診断がつく病気で、診断が難しい。僕の専門の心臓病とはちがう点です。

 さらに垣添先生は国立がんセンターの病院長・総長として患者の負担を考えつつも、将来を見越した医療も開発しなければなりません。

 垣添先生はこうした難しい使命を貫徹されたうえで、対がん協会の会長をして、がんサバイバークラブで患者さんの支援体制まで作ろうとされている。すごい哲学であり、倫理観です」

 医師としての頂点ともいえそうな地位と、同業者からの尊敬。勝ち組中の勝ち組といえそうな、満ち足りた人生。

 そんな垣添さんが、自死を考えるような苦しみに襲われる。それこそが最愛の人・昭子さんとの別れだった──。

「どうしても家に帰りたい」

 垣添さん唯一の気がかりが、SLEという難病を抱えていた昭子さんの健康状態であった。2000年には肺の腺がん、数年後には甲状腺がんを発症する。

 垣添さんが“がんサバイバー支援ウォーク”を通じて訴えているように、がんの5年相対生存率は62.1%(2006~8年)。“がん=死”といった発想は完全に時代遅れで、この2つのがんも手術で治すことができた。

 だが2006年春、手術後の定期検診で4ミリの影が、新たに昭子さんの右肺に発見されたのだ。

「呼吸器診断の専門医に診てもらうと、“なんかおかしい影がある”と。経過観察に入って半年たったあとのCT画像では、私が見ても影が6ミリに大きくなっていて、雪だるまのようなかたちになっていた」

 このときは先端治療である陽子線治療を選択した。治療後、肺の腫瘍が消失したとの主治医からの報告に夫婦で歓喜したのもつかの間、2007年2月の検査で、新たながんである“肺小細胞がん”と確定診断された。ほかの肺がんに比べて発育が早く転移もしやすい最悪のがんだった。

 この3度目のがんに対しても、昭子さんは敢然と立ち向かった。化学療法を試し、放射線治療を受ける。だが……。

「長くて3か月ぐらいじゃないか、と。昭子は告知を淡々と受け止めていましたね。泣き騒ぐなんて、1度もなかった。土日は外泊ができるんだけど、家に帰ると、私に手伝わせて衣類の整理をさせるんだよ。“これは私に、どこに何があるかを教えているんだ”と思った。私は……つらかったけど、しょうがなかった……」

 ある週末の外泊は、銀座にショッピングに出かけた。

「確か2着ほど洋服を買って帰った。彼女、服を買うとファッションショーと称してそれを着て、鏡の前で帽子をかぶってハンドバッグを持ったりするんだけど、体調がよくないはずなのに、実に楽しげにしているんだ。“あれは死に装束を選んでいるんだ”と……」

 12月の中旬には容体が悪化し、寝たきりの状態に。このころ、昭子さんが“どうしても”と希望したことがある。

 “年末年始は、家で過ごしたい……”

 12月28日、昭子さんに外泊の許可が下りる。

「家に帰ると決めたときに“夕食には何が食べたい?”と聞くと、“あら鍋が食べたい”。

 だから宅配便で取り寄せておいて、私が料理して。

 抗がん剤の副作用で口内炎もたくさんできていたけれど、大きなお茶碗2杯分を“美味しい、美味しい!”と食べてね。“家ってこうでなくっちゃ!”とニコニコと本当にうれしそうにしていた

 だが2人の会話は、これが最後となる。

 30日には死期が近いことを表す過呼吸と無呼吸を交互に繰り返す症状が始まる。

 そして翌31日の大みそか。

「夕方の6時15分だったかな。それまで妻は完全に意識がなかったんだけど、突然、半身を起こしてパチッと両目を開けて。自分の右手で私の左手を握って……。言葉にはならなかったけども“ありがとう”と言ったと思っている」

 2007年12月31日6時15分。垣添昭子さん死去。

 駆け落ち同然で結婚し、40年近くをともに過ごした妻。英語が得意でファッションセンスは抜群なのに、セーターは赤にするのか黒を選ぶのかを決められなくて、“どっちがいい?”と、たびたび意見をせがんだ可愛い女性。

 そんな最愛の女性との、永遠の別れであった。

最悪のうつ状態を克服

 50年近くともに暮らした女性の死に、垣添さんは打ちのめされた。

「覚悟はしていたけれど、朝に夕に話していた人と対話ができない。これがつらかった。酔っ払いたいと思うんだけど、ビールなんかじゃ酔わない。だからウイスキーとか40度近い焼酎をロックであおって」

 銀座の日本料理店で席が近かったことで知り合い、垣添さんの“山登りの先生”でもある『日本電装工業株式会社』代表取締役の渡辺仁さん(73)は、

奥さまが亡くなられて2~3か月後、先生にとって最悪の時期に知り合いましたが、暗くて鬱屈(うっくつ)しているのが感じられましたね。最初はそういう人なのかと思っていましたが、お店の人や他の人から、“奥さまを亡くされていくらもたっていない”と聞かされて。それで納得しました」

 昭子さんが残した靴を見てもスカーフを見ても、垣添さんの目に涙があふれ出た。グリーフケア(身近な人と死別して悲嘆に暮れる人が立ち直れるよう支援するケア)の大切さをあらためて考え始めたのも、このころだ。

「最初の1か月ぐらいはみんな気にかけてくれるけれど、そのうち励ますつもりで“いつまでメソメソしているの!?”と、ひどい言葉を投げかけられたりして。そのつらさは、同じ経験をした遺族にしかわからない」

 立ち直りは、百か日を過ぎたころのことだった。

「住職さんが“百か日の法要をしたほうがいい。仏教では百か日は亡くなった人・残された人が死を得心(納得)するとされる日です”と。

 私は死ねないから生きているような感じだったけど、法要を機会に、こんな酒浸り、泣いてばかりではいけない、生活を立て直そう、と」

 昭子さんが亡くなって以来やめていた腕立て伏せや背筋といった日課のトレーニングを再開すると、わずか数回で息が上がってしまった。それでも続けると、100回、200回と回数が上がっていった。体力が回復し、体調が整うにつれ、気分は前向きになり、趣味の山登りやカヌーでの川下りに再挑戦する気力も出てきた。

 以来、今にいたるまでともに何回も剱岳に登山している渡辺さんも、変化を感じ取っていた。

顔つきが明るくなっていくのがわかりましたよ。知り合った先の日本料理店のご主人も先生のことを気にしていて、“先生、明るくなったね!”と。うれしかったなあ。

 本来の垣添先生って、大先生なんだけれど偉ぶらない人でね。友人であることをいいことにそれを感じさせない会話をしていると、“オレだって出るところに出ると少しは偉いんだゾ!”と(笑)。茶目っ気のある人なんですよ」

 ともにお酒が大好きで、2人でよく飲みに出かけると渡辺さん。

 立ち直りに大きな役割を果たした気の合う友人の登場は、垣添さんを心配した昭子さんの、天国からの配剤だったのかもしれない。

3500キロの旅を終えて

 さて7月23日のがんサバイバー支援ウォークの最終日。同センター3階の講堂で、完歩を祝う会が始まった。

 自身も胃がんのサバイバーの高橋はるみ北海道知事が花束を手にお祝いの言葉を贈る。

「がんを予防し、がん医療の充実をはかり、共生することは道民と国民の願いです。垣添会長は自らのパワーでそれを訴えてこられました」

 激励の言葉に応えるように、垣添さんの力強い言葉が響く。

「がんになると、多くの人が孤立感や再発の恐怖に怯(おび)えます。こうした人たちを支えるためにも、がん患者さんがともに交流し、支え合うコミュニティーであるがんサバイバー・クラブをぜひ国民運動に。

 がんを隠すのもやめましょう。がんは特別ではなく、誰でもかかる病気です。10年後にはがんのイメージが変わっていることを願っています」

 自身の腎臓と大腸がんも、ウォークの妨げになるほど特別な病ではないという考えだ。

 こんな言葉とたくましさに、前出の下村さんは、

「先生のがんに関する考えは、患者に勇気を与えてくれます。本当に尊敬できる先生です」

 患者会『グループ・ネクサス・ジャパン』メンバーで、北海道がん対策推進委員会特別委員である悪性リンパ腫サバイバーの佐野英昭さん(62)は、

「今日は最後の2キロぐらいご一緒しましたが、素晴らしい足取りで。私、趣味はフィットネスなんですが、10数年後、こんな元気でいられるかなあと(笑)。垣添先生のように社会的影響力のあるサバイバーがこうして頑張っておられる。患者会の私たちも、先生を見習って頑張らねば」

 乳がんのサバイバーである北野克予さん(63)も、

「垣添先生ががんサバイバーとして医療者として、そしてがんで家族を亡くされた家族として、がん共生に強い思いを持ってウォークをされると知って参加しました。ラストの2キロでしたけどね(笑)。がん患者って疎外感を感じるもの。今日、参加したことで私たちは孤独ではない、つながっていると感じられました。参加してよかったです」

 さまざまな人に希望と勇気を与えて、垣添さんのがんサバイバー支援ウォーク3500キロの旅は終わった。

 今も対がん協会での仕事を終えて自宅に帰ると、遺影の昭子さんとこころの中で対話を続けていると言う垣添さん。帰宅後はきっと無事、完歩の報告をしたことだろう。

 前出・渡辺さんが、垣添さんのこんな姿を証言している。

「先生と一緒に山に行くと、頂上でわれわれに背を向けて、遠くを眺めているような感じなんです。

 何回目かの登山でわかったんですけれど、先生、奥さまの写真を毎回懐に入れて持ってきて、写真に景色を見せていらした。それがわかってからは、“遠慮しないでたくさん見せてあげてください”と。以来、写真と一緒に景色を楽しんでいます」

 生きるということは、もしかしたら貝が真珠を作るようなことなのかもしれない。

 偶然入った砂粒などが核になり、その痛みを和らげようと貝が出した分泌物が固まり、幾重にも重なったものが、天然真珠のあの美しい光沢だと聞く。

 苦しかった日々が去り、友との楽しいひとときや、やり遂げた満足感が積み重なっても、こころの中の核が消え去ることは、決してない。

 だが、それでも積み重なった煌(きら)めきが、見る人に癒しや勇気を与えることはできるのだ──。

(取材・文/千羽ひとみ 撮影/森田晃博)

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