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月収は3万円 80歳女性店主がそれでも池袋で駄菓子屋を続ける理由とは

文春オンライン のロゴ 文春オンライン 2020/12/12 06:10 水谷 竹秀

「不動の人気駄菓子は…」たった一軒だけ残った日暮里の問屋「大屋商店」はいま から続く

 池袋駅東口から明治通りを南へ歩くこと約15分。安産、育児の神が祀られている鬼子母神堂の境内に、その店は構えていた。

 趣のある木造建築の平屋には、楷書体で「上川口屋」(かみかわぐちや)と書かれた屋号が、軒下の中央に大きく掲げられている。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

江戸時代から続く創業239年の「上川口屋」 © 文春オンライン 江戸時代から続く創業239年の「上川口屋」

創業から数えて13代目の店主、雅代さん

 屋号の上には少し控え目な文字で、「創業一七八一年」とある。

 江戸中期の天明元年だ。江戸幕府の第10代将軍徳川家治が治めた時代で、翌年には奥羽(現在の東北地方)・関東地方を中心に「天明の飢饉」が発生した。冷害や浅間山の噴火などで大凶作となり、疫病の流行もあって、餓死者・病死者は全国で90万人を超えたと言われる。以来、明治、昭和、平成、そして令和へと時代の移り変わりを経て239年、今もこの地に連綿と受け継がれてきた駄菓子屋である。

 境内が黄色い落ち葉で敷き詰められた11月半ば、店をのぞいてみると、七五三で参拝に訪れた、晴れ着姿の親子連れらで賑わっていた。駄菓子が並ぶ縁台の奥で、グレーのニット帽をかぶり、チェック柄のエプロンを身に着けた内山雅代さん(80)が1人、買い物客にてきぱきした手つきで売りさばいていた。創業から数えて13代目の店主だ。

「おばあちゃんにお金の使い方教えてもらった」

「1本引いて! ぎゅっと引っ張って! はい、離して! あと10円残っているからうまい棒かきな粉飴か、サラミも買えるね」

「あなたできるかな? おー、おじょうーず、おじょうーず」

 子どもたちを前に、雅代さんは糸引き飴のやり方を語り掛けるように教えていた。常連の大人が来ると、

「あら、お久しぶり!(コロナで)嫌な世の中になっちゃったね」

「今日は23度ですって。動くと暑いですよね」

 などと声を掛け、客からは、

「また来るね、おばあちゃん。元気でね!」

 と励ましの言葉がかかる。

 何気ない挨拶程度のやり取りだが、時には長話にもなる。上川口屋では、ものの数分という買い物の時間に、店主と客とのコミュニケーションが確かに生まれていた。

 雅代さんが嬉しそうに語る。

「子供の頃によく来てくれた子が『おばあちゃんにお金の使い方教えてもらった』って成人式の時に振り袖姿を見せに来るんです。『子供が産まれました。抱っこしてやって下さい』なんて来る子もいます。女の子が多いんですが、中には羽織袴を着た金髪の子が『おばちゃん覚えている?』って。それでスマホで一緒に写真撮るんですよ。そんなの楽しいじゃない? そうやって私とコミュニケーションを取って、お金の使い方とかお金の価値をここで覚えていったんです。それこそお金に換えがたい喜びですよ」

 もっとも、喜びばかりではない。その陰で雅代さんは、店を守り続けるために生活費を切り詰め、ぎりぎりの暮らしを送っていた。

「駄菓子屋のくせに消費税取るのか!」

 駄菓子屋の利益率は、売り上げの2割程度と言われる。持ち家ならまだしも、借家で商いを続けるとなれば、懐事情は相当に厳しくなる。客単価もせいぜい数百円で、1000円を超えることはほとんどない。

 上川口屋の奥の壁には「税込み早見表」と書かれた冊子が貼り付けられ、税込み価格が、10円ごとに記されている。消費税8%の計算がややこしいからと、雅代さんの息子が用意してくれたのだ。めくりすぎたせいか、最初のページはぼろぼろだ。この早見表は1200円までしか表示されておらず、それが客単価の上限を暗示していた。消費税をめぐって、雅代さんがこんな苦い体験を語ってくれた。

「3%の時は計算がやっかいだし、子供からも取りにくいからと我慢してたんです。でも5%に上がった時にさすがに取り始めたら、『駄菓子屋のくせに消費税取るのか!』と文句言う大人がいてね」

 中にはこんな嫌味を言う客もいた。

「5%だったら10円50銭だろ!」

 お釣りを返せないため、雅代さんが2つ買って下さいとお願いすると、

「2つはいらないんだよ」

 と、立ち去られた。

「子供を騙して消費税取るの?」

「消費税を支払っている証拠を見せろ」

 などと迫られたこともある。確かに微々たる金額かもしれないが、駄菓子屋の懐事情を考えると、そうも言っていられなかった。

もやしとパンの耳で凌ぐ

 雅代さんが打ち明けてくれた。

「もともと駄菓子屋なんて儲かるもんじゃないです。昔っから利益率が薄いんですよ。普段は売り上げが3500円~4000円。30日やったとして12万円ぐらいでしょ? 利益率は売り上げの2割だから、うまくいって3万円が私の月収です。お正月の三が日は1日の売り上げが6~7万円いきますけど、でもたった3日間だけです。あとは閑古鳥ですよ。月収3万円でどんな食生活か想像できないでしょ?」

 そう言って雅代さんは店の奥へ行き、両手にもやし4袋を抱えて戻ってきた。

「もやしは3袋で108円。これだって栄養あるのよ! スーパーに行っても、青物はちょー高いんです。大根とかキャベツを買いたい。おでんみたいなのも作りたい。でも大根は200円もするから、100円以上は絶対に買わない。小松菜も体に良いし大好きだけど、4株で200円ぐらいして。2株で100円だった時は飛びつきましたね」

 もちろん、もやしばかりを食べているわけではない。インスタントラーメンに入れたり、ナムルにしたりする。米はあまり食べず、1袋20~30円で売っているパンの耳を買ってくる。最近はパンの耳が売っていないため、賞味期限が近い、値引きされた干しぶどうパンで代用しているという。

「魚も食べますけど、肉は好きじゃないです。今は洋風化して肉食が多いんですってね。でも魚も高いのよねえ。たまには食べなきゃいけないから、サバ缶とイワシ缶を10日に1回ぐらい食べています」

 食事は1日2回。ラーメンばかりで血圧が上がったこともあるが、健康診断では、特に異常はないという。

「切り詰めて生活しなかったらやっていかれないんです。借金は絶対にしたくない。でも私は戦中派でしょ? 朝起きたら食べる物がなくて、サツマイモばかりでよく生きてこられたなあと。そんな時代のことを考えたら、今の食生活だって御の字、天国ですよ」

海外メディアからも注目、あの映画のシーンにも

 上川口屋は、21平米の敷地に建つ。間口は約6メートル。縁台に並ぶ、駄菓子が入った桐の箱は100年ぐらい前から使われているという。店ができた正確な時期は不明だが、雅代さんによると、早稲田大学の専門家が視察に来た際、「明治以前の建築様式だ」と語っていたというから、江戸時代に建てられた可能性が高い。店が建て替えられたという話は聞いたことがなく、その都度、修繕が繰り返されてきた。

 そんな由緒ある店は、宮崎駿監督がプロデューサーを務めた映画『おもひでぽろぽろ』の1シーンにも使われ、日本のメディアだけでなく、台湾のテレビや韓国、中国、スペインなどの海外メディアにも取り上げられた。現在はコロナ禍でいなくなってしまったが、ここ10年ほどはアジア各国を中心に外国人観光客が訪れた。

養子として預けられ、学校が終わったら店番

 雅代さんは現在、この店に1人で暮らす。午前6時に起床し、ラジオ体操と朝食。店は午前10時に開け、夕方5時には閉める。休みは雨の日だけだ。夫は横浜市にいるが、一緒には住んでいない。たまに店に顔を出してくれるという。

 雅代さんは昭和15年生まれ。神奈川県川崎市で6人兄弟の長女として育ち、小学校3年生の時に、上川口屋で働く祖母と叔母のところに養子として預けられた。

「本当は父が養子に預けられる予定だったんですけど、『こんな店の後継ぎになるもんか!』と反発して出ていったんです。それで女の子にしようという話が持ち上がり、私に白羽の矢が立ちました」

 目の前の境内で友達がめんこなどで遊んでいるのをよそに、学校が終わったら店番をした。うらやましかった。日暮里の駄菓子問屋に仕入れに行った叔母を池袋駅で迎え、仕入れの品を運ぶのを手伝った。中学生の頃には自分も風呂敷を背負い、電車に乗って日暮里まで通った。夏休みのかき入れ時は、早朝から1日に2度も仕入れに行っていたという。

「ただ飯ばかり食いやがって!」と叔母から言われ続け

 中学を卒業すると、本格的に店の手伝いをさせられた。

「でも嫌でね。何度も逃げ出しました。川崎の実家に帰っては連れ戻されてね。若いうちは夢や希望があるじゃない? 結婚して子供を産んで、家庭を持ってという望みもありました。色んなやりたいことがあるにもかかわらず、こんなところに縛られてつらかった」

 叔母にいじめられたことも重なり、10代後半には睡眠薬を大量に飲んで自殺を図った。意識は失ったが、一命は取り留めた。20代になってからは副業で和裁の仕事を始め、寝る間も惜しんで働いた。小さい頃から「ただ飯ばかり食いやがって!」と叔母から言われ続けた反発心から、自由になるお金を手にしたかったのだ。

 30歳で結婚。夫と一緒に住む横浜から2時間かけて通い、子供が産まれてからは母の実家の川崎へ移り、そこから通った。長男が小学生に上がる頃、店の近くのアパートへ移り住み、叔母と一緒に切り盛りしてきた。週に何度か、夫のためにおかずを作り、電車やバスを乗り継いで運び届けた。慌ただしい日々だった。

 やがて子供たちは巣立ち、いじめられた記憶ばかりの叔母は平成3年に亡くなった。以来、雅代さんは1人で店を守り続ける。あんなに嫌だった店番も、今では感謝の気持ちを持てるようになったという。

「人と話すのはもともとあまり得意ではなかったんです。でも段々やっているうちに、大勢の人との出会いがあり、色んなお話をして世間も広くなり、ありがたいことだなとつくづく感じます。我が子でさえ連絡が途絶えがちな時代に、昔の人が尋ねてきて、音楽の話をしたりするのが楽しいじゃないですか」

「コンビニは安いけど味気ないって」

 純粋な値段だけなら、大量に仕入れるコンビニには勝てない。おまけに今はネットで何でも購入できる時代だ。少子化も相まって、街の駄菓子屋は今、存続の危機に瀕しているのかもしれない。

「駄菓子屋がなくなっていくのはしょうがないよ。でもね、こういう店で買うほうが良いって言って下さる人けっこういるんですよ。コンビニは安いけど味気ないって。レジ打ちも全部機械。だから頭使わないんですよ。今はスマホでピッピッピッってやれば答えが出るでしょ? 人間はそのうちITに支配され、感情を失っちゃうんじゃないかと思って」

 効率や利便性を追求すれば、そこにはリスクや代償が付きまとう。駄菓子屋という小さな空間にはひょっとしたら、豊かさを享受した現代に忘れられた何かが残っているのかもしれない。雅代さんは語気を強める。

「お金では買えがたい良さをうちは出し続けています。駄菓子屋なんて大したあれじゃないけど、今ではこの店に携わって良かったと思います。駄菓子屋をやるために、この世に生を受けたのではないかとすら考えています」

「昭和」という時代を象徴する駄菓子屋文化が失われつつある今、創業から239年という歴史を途絶えさせないため、後継ぎのことはすでに考えているという。

写真=水谷竹秀

(水谷 竹秀)

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