『鎌倉殿の13人』で石橋山にて源頼朝惨敗! なのになぜ富士川の戦いでリベンジできたのか。関東制覇を果たす源氏と、平清盛を失い木曽義仲にも敗れた平家の都落ち 「合戦」でわかる!鎌倉殿・第2回
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【図】源頼朝の関東制覇を決定づけた富士川の戦い。20万騎を超える源氏の軍勢を前に、平維盛は撤退を余儀なくされる
諸国の武士が次々に蜂起!源平合戦はこうして始まった
平清盛による後白河法皇(ごしらかわほうおう)幽閉後、京では平氏への不満が募っていた。
治承(じしょう)4年(1180)、後白河法皇の子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨(りょうじ=皇子や皇后の命令書)を全国の武士に発した。
この謀反はすぐに露見し、王に味方した源頼政(みなもとのよりまさ)は滅ぼされたが、京の防衛に不安を覚えた清盛は、急遽、安徳天皇(あんとくてんのう)以下、法皇や平氏一門を連れて摂津福原(せっつふくはら=神戸市)へ向かう(福原遷都)。
しかし、平氏の独裁政権に対する反発は急速に高まり、8月に伊豆国(いずのくに=静岡県)の源頼朝が挙兵したのをはじめ、信濃国(しなののくに=長野県)の木曽義仲(きそよしなか)、甲斐国(かいのくに=山梨県)の武田信義(たけだのぶよし)など諸国の武士が次々と蜂起し全国的な内乱に発展する。
治承・寿永(じゅえい)の乱(源平合戦)の始まりである。
一度は大敗しながらも勢力を拡大した頼朝
中でも、急速に勢力を拡大したのが関東の頼朝であった。
伊豆の代官を討って緒戦を勝利した頼朝は、石橋山(神奈川県小田原市)の戦いで大敗したものの、房総半島にわたって急速に勢力を拡大。三浦・小山・千葉・上総・畠山など有力豪族を従えて、わずか1カ月で南関東を制圧し、相模国鎌倉(さがみのくにかまくら=神奈川県鎌倉市)を拠点として武家政権の整備に着手する。
事態を重視した清盛は、新都の建設のさ中、平維盛(これもり)を総大将とする遠征軍を東海道に派遣する。
しかし、平氏軍が駿河国(するがのくに=静岡県)に着いたとき、同国の平氏方武士はおろか、石橋山で頼朝を破った相模の大庭景親(おおばかげちか)や伊豆の伊東祐親(いとうすけちか)の軍勢も壊滅しており、遠征軍は完全に孤立してしまったのである。
富士川の戦い 源頼朝 VS 平維盛
一方、頼朝は20万騎の大軍を率いて鎌倉を進発。これに、駿河の平氏勢を破った武田信義ら4万の甲斐源氏も加わり、富士川(静岡県富士市)で平氏軍と対峙した。
しかし、敵の大軍を前に、平氏軍からは源氏方に寝返る兵が続出する。
官軍である平氏軍には諸国の国衙(こくが=国守の政庁)を通じて招集された駆武者(かりむしゃ=臨時戦闘員)が多かった。彼らは平氏に仕える家人ではないため忠誠を尽くす義理はなく、戦況が不利となれば戦線を離脱してしまう烏合の衆だったのだ。
圧倒的劣勢を前に、総大将の平維盛は藤原忠清(ふじわらのただきよ)の説得を受け、やむなく撤退を決定する。
その夜、甲斐源氏が平氏軍の背後に回り込むため行動を開始したことで、富士川で休んでいた水鳥が一斉に飛び立った。これを敵の襲来と錯覚した平氏軍は、戦わずして京に向けて敗走する。
『平家物語』で有名な逸話だが、公家の日記にも噂として書きとめられており事実であったようだ。同時に、途中の手越宿で火災が発生したことも混乱に拍車をかけたとみられる。
木曽義仲にも敗れ、西国へ落ちていく平氏
富士川の戦いは平氏の自滅により頼朝の勝利であっさり終わったが、その結果は鎌倉幕府の樹立にとって重要な転機となった。
南関東は事実上の独立国として朝廷の支配を脱し、頼朝は鎌倉を拠点として幕府機構の整備や武都・鎌倉の建設に邁進し、武家政権の基礎を固めていくのである。
一方、平氏の勢力は尾張の国(おわりのくに=愛知県)以西に後退し、屈辱的な敗北により武家の棟梁(とうりょう=統率者)としての威信も低下した。翌年、清盛が急死し、凡庸な嫡子・宗盛(むねもり)が後を継ぐと、平氏の退勢はいっそう加速する。
寿永2年(1183)には、信濃を平定し北陸道を進んできた木曽義仲に越中国(えっちゅうのくに=富山県)・加賀国(かがのくに=石川県)国境の俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで大敗。
同年7月、義仲軍が京に迫ると平氏は都落ちを決意し、安徳天皇を奉じて皇位の象徴である三種の神器とともに西国へ落ちていった。
源氏、いよいよ平氏討伐へ
平氏の没落後、京の軍事指揮権を握ったのは木曽義仲だった。しかし、配下の兵の略奪を防ぐことができず、義仲自身の粗野なふるまいもあって急速に信用を失っていく。
一方、頼朝は鎌倉制圧後から和平を提案するなど朝廷との関係改善を進めた。同年10月には、東国の支配権を認める宣旨(せんじ=天皇の命令)を獲得し、鎌倉の政権は公認のものとなる。
京の義仲は後白河法皇との対立を深め、院御所(いんのごしょ)を襲撃して政権を奪う。上洛の口実を得た頼朝は、異母弟の範頼(のりより)・義経を大将軍とする義仲討伐軍を派遣。
義経勢が宇治(京都府宇治市)を突破して法皇を確保すると、義仲は近江の瀬田(滋賀県大津市)に逃れ、範頼勢に敗れ、討ち死にした。
義仲を滅ぼし官軍となった鎌倉軍は、いよいよ平氏討伐に乗り出すこととなる。
源氏と鎌倉のつながりと木曽義仲の数奇な運命
源氏と鎌倉のつながりは、11世紀半ば、源頼義が相模の豪族・平直方(たいらのなおかた)の娘婿となり鎌倉の屋敷地を譲られたのに始まる。以後、源氏は鎌倉を拠点として奥羽への進出を図り、頼義は前九年の役、子の義家は後三年の役を戦い関東に勢力を根づかせた。
義家の曽孫・義朝の時代には、鎌倉を拠点として豪族の所領争いに介入。千葉氏や上総氏、三浦氏などを家人として組織して南関東に勢力を張った。
こうした地盤を受けて、後年、関東を制圧した頼朝は鎌倉に幕府を開いたのである。
一方、義朝一族の勢力に押されて数奇な運命をたどったのが木曽義仲である。義仲の父・義賢(よしかた)は、上野国(こうずけのくに=群馬県)を拠点に北関東に勢力を伸ばし兄の義朝と対立。
久寿2年(1155)、義朝の長男・悪源太義平の襲撃を受け殺される(大蔵合戦)。乳飲み子だった義仲は窮地を脱して母とともに信濃に逃れ、木曽の豪族・中原兼遠(なかはらのかねとお)のもとで養育された。
以仁王の令旨を奉じて挙兵した義仲が、最後まで鎌倉の軍門に降ることがなかったのも、頼朝が父の仇敵だったからにほかならない。頼朝に先んじて上洛した義仲は平氏を都から追い落とし、内乱の転換点を演出するのである。
※本稿は、『歴史と人物7 面白すぎる!鎌倉・室町』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。