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音を立てて崩れ始めた「南京大虐殺」の嘘

JBpress のロゴ JBpress 2019/01/22 06:00 森 清勇

 習近平国家主席は就任後に日本糾弾のための国家記念日を3つ設定した。

 中でも南京事件を一段と強調し、12月13日を「『南京事件』国家哀悼日」としたのをはじめ、南京大虐殺記念館は約1年かけて、10年ぶりの大幅な見直しを行い、2017年12月にオープンした。

強弁で「写真撤去」も隠蔽

 最初のリニューアル(2006~07年)では、1985年のオープン時から日本の研究者らが南京事件と無関係であると指摘していた「連行される慰安婦たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」など3枚の写真が撤去された。

 リニューアル・オープン直後の2008年1月、犠牲者30万人の表記は旧日本軍の「非人道性」を強調しているとして、上海の日本総領事館総領事が日本政府の「問題意識」を南京市幹部らに伝え、見直しを求める申し入れを行う。

 それから11か月後、「産経新聞」(2008年12月17日・18日付)が『中国の日本軍』(本多勝一著)や『ザ・レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン著)などで日本の残虐行為として紹介され、国内外で誤用されてきた3枚の写真の撤去を確認したことに触れている。

 また、「日本の外務省は史実に反すると日本の学問状況を非公式に中国へ伝えていた。問題写真の撤去は、こうした外交努力の成果といえる」と主張する。

 朱成山館長は翌19日、次のように反論したという。

 「3枚は戦争の背景を紹介する写真として使用したことはあるが、南京大虐殺そのものの展示で使ったことはない。置き去りにされて泣く赤ん坊の写真は上海南駅で撮影されたもので、展示会『上海で殺戮行為の日本軍、南京に向かう』で使ったことはある」

 「3枚の写真そのものは、いずれも歴史の事実に符合するものだ。また、新館にこれら3枚の写真を陳列したことはそもそもなく、オープンから1年経っても1枚の写真も入れ替えておらず、日本外務省からの通知を理由に写真を撤去したような事実は全くない」

 2007年のリニューアルでは、当初の2.2ヘクタールから4.7ヘクタールに拡張し、従来の資料館(中央に残置)の東部に新資料館を建築し、西部に和平公園を展開した。

 旧資料館からは3枚の写真が撤去されたわけだが新資料館に変化があったわけでないことは確かであろう。

 こうした絡繰りを行なっていながら館長があえて反論の形で「日本の指摘」を否定したのは、「共産党がやることに間違いはない」と中国人民に言わなければ、「アリの一穴」で事後の収拾がつかなくなるからに違いない。

 中国一流の強弁であることを、賢明な日本人は容易に理解できよう。

南京大虐殺の目撃者に仕立てたつもりが・・・

 2015年10月20日、エリザベス女王は習近平国家主席を主賓として迎えた晩餐会を主催した。席上に添えられたのは1本30万円もする仏ボルドー産の高級ワインの「シャトー・オー・ブリオン1989年」だったという。

 1989年は民主化を求める学生を中国当局が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した天安門事件があった年で、中国が最も触れたくない年のはず。

 1989年ワインは暗喩の皮肉か、かけ値なしのおもてなしか?

 ワインはともかくとして、習主席が女王の前で話したのは中国が独豪などと合作した映画で描かれたジョージ・ホッグ記者の話しである。

 記者は赤十字職員と偽って南京に入城し、南京虐殺の現場を撮影したところ、日本兵に見つかり処刑される寸前に中国共産党の軍人に助けられるというストーリだという。

 習主席にとっては、「南京大虐殺」を現実に目撃した英国人記者で、日本の悪を暴く動かぬ証拠の現場写真を撮った人物である。

 暴露されることを怖れる日本軍が彼を処刑しようとしたこと、それを中国共産党籍の軍人が救助したこと、これは素晴らしい英中の友情物語であるし、女王を前にした晩餐会で話すにふさわしいこれ以上の題材は見つからなかったのであろう。

 ところが、この台本となったホッグの評伝『オーシャン・デビル』では、ホッグは1938年2月に上海に入国し、漢口を経て、黄石市(湖北省)に移り、ここで戦災孤児施設の教師を務めている。

 国民党が孤児を徴兵しようとすると、孤児60人を連れて1100キロ離れたモンゴル国境に近い山丹(甘粛省)に逃れる。孤児たちを戦争から守ったということで、「中国版シンドラーのリスト」として評価されているという。

 ホッグは上海、漢口に滞在しているが、南京に入っておらず、しかも上海入国自体が、日本の南京占領(37年12月13日~38年1月13日)が終わった後であることが評伝から明確である。

 念のために評伝作家のジェームス・マクマナス氏に岡部伸・産経新聞ロンドン支局長がインタビューして確認したところによると、孤児を連れてシルクロードを横断した長征は真実だが、「南京事件を目撃したことは映画の脚色」であることをすんなり認めたという(「エリザベス女王の面前で― 詐話師・習近平がまた大ボラ」、『WiLL』2016年11月号所収)。

 なんと、中国の国家主席で、女王主催の公式晩餐会の主賓である習近平が、南京事件の「創られた目撃記者」の話をしたのだ。

 黒を白と言うどころか、ありもしなかったことを実在した友情物語に仕立てて語ったというから驚きである。

 ほかでもないが、「南京大虐殺」を存在させるあの手この手の苦労が生み出した、トンデモナイ顛末と言ったらいいのだろうか。

いよいよ本多氏の時代も終わりか

 今回のリ・リニューアルでは、驚くなかれ「南京大虐殺の史実を世界に周知させた」貢献で顕彰され、当人の顔写真や著書『南京への道』『裁かれた南京大虐殺』、中国取材に使用したペンやノート類が展示されていた本多勝一記者の写真と資料が撤去されたという。

 他方で、同記念館で「国家哀悼日」に指定する演説をした2014年12月13日の習近平国家主席の大きな写真パネルが展示された。

 以前の主席には確認されていなかったことで、いよいよ「大虐殺記念館」の政治性を強く押し出さざるを得なくなってきたのではないだろうか。

 中国国営の新華社通信は今回のリニューアルについて、展示内容のみで建物に変更はないと伝え、また展示入れ替えで、写真は約3分の2(約2000枚)、物品類は約3分の1(約900点)に絞り、「史実の新たな証拠を集めた」と評しているそうである。

 ここにも中国一流の言い回しが見られる。

 「史実の充実を図った」ではなく、「史実の新たな証拠を集めた」というならば、写真を約1000枚、物品類を約2000点減らしたことをどう解釈すればいいのだろうか。

 筆者には本多氏らが南京大虐殺に関わるものとして掲載してきた「多くの写真や物品類」が、他の場所のものであったり、捏造され、あるいはキャプションのつけ替えであったりしたことが判明し、収拾できなくなったので削除したとしか思えない。

 南京大虐殺の周知貢献で顕彰された本多氏らの写真と資料が展示から外されたということは、「南京大虐殺」を支えてきた「動かぬ証拠」としての写真(や資料)という土台の一角が「揺らぎ始めた」ということではないだろうか。

 さらに以下の様な検証を進めていくと、いよいよ「南京大虐殺」は「あり得なかった」架空の物語、虚構ではないのだろうか。

 間違いがないように付言すると、特に蒋介石とその軍は市民を盾にする戦術をとり、上海戦から南京に至る途上の1か月にわたる戦闘、そして南京攻略戦、さらには安全区に収容された市民20万人に紛れ込んだ約2万といわれた便衣兵(軍服を脱ぎ捨てて市民に成りすまし、兵器を隠し持つ兵士)の掃討・処分、あるいは反乱捕虜の鎮圧などで、多くの中国兵士と市民が巻き込まれた。

 しかし、それは虐殺ではなく通常の戦闘行為で、戦時国際法に悖るものではない。

写真検証の驚くべき結果

 東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社、2005年刊)は、南京大虐殺の証拠として使われている写真143枚を総括的に検証したものである。

 3人がこの枚数に絞り込むまでに各種資料で見た写真は重複を含めると3万点以上になるということである。

 影の長さや服装から大虐殺が起きたとされる冬ではないことや日本軍の物でないこと、また検討当時公開された中国国民党中央宣伝部の極秘文書などを援用して国民党の戦争プロパガンダ写真との比較、初出(源流)から転載されていく写真の流れなど、緻密かつ多角的な検証に3年の歳月をかけている。

 その結果は、「(南京大虐殺の)証拠写真として通用する写真は1枚もなかった」というものであった。

 そもそも、記者らしい記者がいなかった通州事件でも、1日もすれば事件は知れわたり、記者やカメラマン、作家らが駆けつけ、調査し事実である状況を生々しく報道している。

 ところが、6週間続いたとされる南京事件については虐殺の現場を誰一人確認しておらず、城内にいた米国人宣教師たちが窃盗や強姦、放火などを散発的に発信し、「WHAT WAR MEANS(戦争とは何か)」に纏められる。

 その本やそこに収められた写真などを宣教師が米国に持って行き、国内を隈なく普及して歩き、拡大させていったのが実態である。

 それは「日本を敵に仕立てる」というルーズベルト政権の意図にも添うもので、宣教師は国内普及が許されたし、こうして流布した「日本軍による虐殺」の情報が在南京の日本軍に逆流し、現地の日本軍は「そんなことがあったのか」と驚かざるを得なかったわけである。

 蒋介石政権が、武力では勝てない日本軍に対してとった、「無から有を生じた」典型的な戦争プロパガンダと言う以外にない。

 幾つもの写真のキャプションをつけ替えて、「日本軍の悪行」に仕立ててきた。展示写真はそうした代物であったのであろう。

 偽の文書や写真などが世に出て、いかにも真実であるかのように装い広がっていく。

 そうするとさらに拍車がかかり、もっと隠された事実があるに違いない。そして偽物がまた見つかると、「ほら、あった!」となり、何時しか「本物面に変容していく」という仕かけであったのであろう。

 こうした絡繰りを心ある米国人記者や外交官らは見抜いていた。

 しかし、日本に戦争を仕かけたいルーズベルト政権は、蒋介石の戦争プロパガンダに宣教師を介して進んで協力し、運よく開戦にこぎつけた後は心ある記者や外交官らを邪魔ものとして拘束し刑に服させていったのである。

 先日、中国外務省の華春瑩報道官がファーウェイの幹部社員逮捕に関してカナダを非難するにあたって、「ウソは百回も言えば本当になると思っているようであるが、1万回言っても嘘はウソである」と言っていた。

 この言は筆者には南京事件について語っているように聞こえてならなかった。

南京大虐殺はどのように広まったか

 本多氏の1971年のルポルタージュ「中国の旅」は、4部40回(第1部「平頂山」、第2部「万人坑」、第3部「南京」、第4部「三光政策」)からなる。

 8月から12月まで朝日新聞に連載され、「朝日ジャーナル」や「週刊朝日」でも連載され、写真の一部は「アサヒグラフ」でも発表されるという状況であった。

 朝日新聞社はこれらのルポを纏め、さらに加筆した単行本『中国の旅』を翌1972年に発刊している。並行して「目で見る中国の旅」に類するものとして写真に重点を置いた『中国の日本軍』もこの年に創樹社から出版する。

 『中国の旅』は1977年には「すずさわ書店」が、95年には「本多勝一集14」として朝日新聞社がまたまた出版した。

 その間の1981年に朝日は文庫版『中国の旅』も出版する。手元の21刷版は1995年10月発行となっており、かなり版を重ねていることが分かる。

 本多氏は1987年には朝日新聞社から『南京への道』を発刊し、翌88年には本多氏ほか2名の共著で『南京大虐殺の現場へ』を同じく朝日新聞社から発刊している。

 こう見てくると、1970年代から90年代のほぼ30年間に「南京大虐殺」は根を張り枝を伸ばして大木に育っていった時代の様である。

 本多氏や朝日新聞の南京関係本の出版に刺激を受けたように、中国人民政治協商会議江蘇省南京市委員会文史資料研究委員会編『史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯)第四輯』(1983年)、南京市文史資料研究会『証言・南京大虐殺』(84年、青木書店)、『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』(85年)などが出版される。

 こうした流れを鄧小平が汲み取るかのように南京大虐殺記念館を1985年に竣工させたのである。

 そして全米というか全世界に衝撃を与えたのが若き中国系アメリカ人女性アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』(1997年)であった。

 日本の斎藤邦彦駐米大使がアイリス・チャンとのテレビ対談に臨んだのは翌1998年12月。

 ところが大使は外務省の反論例にもれず、日本の教科書は南京虐殺をしっかり記述していると強調するばかりで、日本の研究者の中には諸説あり、全くのウソだと主張する説もあることなどに触れなかったし、当時20万人の南京で30万人の虐殺への疑問すら呈しなかった。

 こうした結果、対談の行方を見守っていた米国人の多くは、日本政府はこの事件を認めており「南京市民が虐殺されたのは事実」との印象を受けたようで、事態は悪化して大使の完敗とされた。

現場にいた前田記者が大虐殺を否定

 この流れに逆らうかのごとく、上海戦から第一線で取材し続け、南京戦の一部始終を同盟通信社の同僚特派員50人はおろか、朝日新聞(約80人)や毎日新聞(約70人)の特派員たちとも現地では意見交換などをしていた前田雄二記者が、1982年に『戦争の流れの中に』を善本社から上梓する。

 従軍当時も多くの記事を打電したが「戦争中の厳しい検閲で、日本軍に不利な事実は差し止められていた」から「決して物事の全てを伝えてはいなかった」、すなわち「真実が欠落していた」として、残したメモからすべてを網羅することにしたメモワールである。

 上記前田本は南京に続く漢口攻略戦、仏印進駐、更にはシンガポール攻略戦まで全5部として実見したままに綴られ、第2部が「南京攻略戦」となっていた。

 旧陸軍将校の集まりである偕行社が指揮官や将兵の日記・手記など可能な範囲で集めた数千ページの資料で事実関係を究明し、虐殺の明確な証拠をつかむことはできなかった。

 しかし、上述のように、「大虐殺」が燎原の火のように広がり続け、「大虐殺」がいかにも真実であるかのようになってきたことから、前田氏は第2部だけを取り出して『南京大虐殺はなかった』として平成11(1999)年に再上梓した。

河村たかし名古屋市長の真摯な問いかけ

 平成24(2012)年には河村たかし名古屋市長が「通常の戦闘行為はあったが、いわゆる南京事件というのはなかったんじゃないか」と発言し問題となり、多くの日中友好行事が中止になる騒ぎに発展した。

 南京事件があったとされた8年後の1945年8月16日、市長の父君は歩兵伍長として同隊の250人と共に南京に入り、翌年1月まで郊外の寺に滞在したが、南京市民はとても親切に温かいもてなしをしてくれたという。

 父君は戦後50年の年に、感謝の気持ちで戦友と共に1000本の桜を南京市に寄贈する。植樹10年目の2006年、たかし氏は父君の戦友たちと共に南京市を訪問し、南京大虐殺記念館にも行き、「全日本人が南京に行って、土下座しても許されない行為だ」との強烈な印象を受ける。

 同時に、「南京事件からたった8年しか経っていないのに、中国人がそんなに親切な対応をしてくれるものだろうか」と強い疑念を抱いたという。

 「そうでない(筆者注:大虐殺が嘘)としたら、これは一言二言、言わせてほしいと思い、さらに勉強を深めていった」と言い、同年6月13日には「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を政府に提出している。

 河村市長は、南京市との姉妹都市として友好関係を一層深めるためにも本当の話ができなければならない、棘を抜いてこそ本当の日中友好も始まるとの強い思いがあったという。

 当初中国は、南京市民30万人が日本軍によって虐殺されたと主張していたが、2018年6月24日に福田康夫元首相が訪問した際、館長は30万人という数字は南京に至るまで日本軍が戦争しながら殺害した人を含めた数字であり、南京市内にいなかった人を含む数字であると説明したとされる。

 他方で、昨年のリ・リニューアルでは世界に流布する原動力ともなってきた本多氏やアイリス・チャンの関係資料が削除されたという。

 これらは、「南京大虐殺」に大きな地殻変動が起き始めたことを意味するのではないだろうか。

 いよいよ、「南京大虐殺」の虚構が崩壊し始めたことを物語るものかもしれない。

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