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「和田義盛」鎌倉支えた男なのに北条が滅ぼした訳 「鎌倉殿の13人」の1人だった有力御家人の最期

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2022/09/25 17:00 濱田 浩一郎
鎌倉にある和田合戦の戦死者を葬ったと伝わる「和田塚」(写真:Photo_N/PIXTA) © 東洋経済オンライン 鎌倉にある和田合戦の戦死者を葬ったと伝わる「和田塚」(写真:Photo_N/PIXTA)
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。13人のうちの1人として登場する「和田義盛」は、源頼朝が平家打倒のために伊豆で挙兵したときから、頼朝を支えた忠臣です。ところが、鎌倉幕府2代執権である北条義時は和田義盛を滅ぼします。その背景には何があったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎さんが解説します。

源頼朝の平家打倒の挙兵に参加して戦功を立てた

元久2(1205)年閏7月、江間(北条)義時は、父・北条時政を伊豆に追放し、北条家を継承した。

時政は、嫡男の北条宗時が石橋山の戦い(1180年)で戦死した後、スムーズに「次男の義時を当主に」と考えていたのではない。北条氏の苗字の地「北条」(静岡県伊豆の国市)の隣地である「江間」を義時は父から与えられていた。つまり、義時は本家である北条家から出されて江間家を継いでいた。

義時は北条家の正当な後継者ではなかったわけだが、その義時が一発逆転、北条氏の惣領となることができたのは、父を追放したからであった。

さて、北条氏は梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を排除、打倒してきた。では、義時が北条家を継承してから、最初に潰した大物御家人は誰であろうか。それは、和田義盛である。

和田氏は三浦氏の一族で、根拠地は相模国(神奈川県)和田であった。源頼朝の平家打倒の挙兵に参加し、戦功を立てたこともあり、侍所の別当(長官)に就任する(1180年)。

義盛はその後も、平家追討戦や奥州藤原氏討伐にも加わり、活躍。頼朝死去後は「13人の合議制」に列するまでになる。義盛自身、頼朝死後は、北条氏とともに、前述した有力御家人を打倒する側に回ってきた。

梶原景時を追い落とすときなどは、煮え切らぬ態度を示す宿老の大江広元を「景時の権威を恐れて諸将の鬱憤を隠し立てするのは、法に違えるのではないか」と叱り飛ばすほどの急先鋒であった。しかし、そんな義盛が打倒される側に回るときが来る。それが建暦3(1213)年5月に起こった「和田合戦」である。

ことの起こりは、その年の2月、鎌倉甘縄にある千葉成胤(ちば・なりたね)の邸に阿静房安念(あせいぼうあんねん)という法師が姿を現したことであった。安念は「信濃国の泉親衡(いずみ・ちかひら)は将軍実朝を廃位し、頼家の遺児・千寿丸を擁立しようとしている。併せて、義時も打倒したいから、助勢を」と成胤に告げるのだ。

不穏な誘いを成胤は蹴り、すぐさま安念を捕らえ、義時に突き出す。安念は謀反の一味を次々と自白。謀反の主体となる者は130人、それに連なる者は200人という大人数だった(『吾妻鏡』)。謀反人は次々と生け捕りになるが、そのなかに、和田義盛の子・義直と義重、甥の胤長(たねなが)が含まれていた。義盛は3月8日に、上総国から鎌倉に馳せ参じる。

そして、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝に息子たちの赦免を願い出る。義盛のこれまでの勲功により、息子の赦免は実現する。

ところが、甥の胤長の罪は許されず、陸奥国に配流となるのであった。謀反の張本人というべき泉親衡でさえ、消息知れずで処罰されていない現状であり、他に赦免された者も大勢いる。「なぜ、胤長だけが……」と義盛の怒りと疑念は深まったに違いない。

北条義時が和田義盛を挑発

義盛の神経を逆なでする事件がさらに起こる。胤長が所有していた邸を義盛が拝領したいと願い出て、おそらく実朝の判断により、許可される。

しかし、4月2日、その邸は急に取り上げられ、義時に与えられるのだ。義時は、その邸を被官に与え、義盛の代官をも追い出してしまう。これは、北条義時による和田義盛への挑発行為と見ることができよう。

『吾妻鏡』もこの出来事により、義盛の「叛逆の心はいよいよ止めることができなくなった」と記している。

4月27日には、将軍実朝の使者が義盛の邸に「謀反の実否」の確認をするため派遣されるほど、事態は緊迫していた。義盛は謀反を否定したが、邸内には武者が居並び、不穏な空気は流れていたという。

夜に再度、使者がやって来たときに義盛は「将軍様へは何の恨みもございません。北条義時のやり方が傍若無人なので、詳しい理由を問いただすために武装して行こうと、若者らが話し合っているようです。この義盛が何度も諫めているが、相手にされません。すでに皆、心を1つとしている。こうなってしまった以上、私の力の及ぶところではありません」と回答したといわれる。

同族の三浦義村が突如寝返った

そして、5月2日、ついに和田合戦が勃発する。義盛の邸に軍兵が参集していることから、その報が次々と北条義時のもとに入ってきた。義盛に同心していたはずの三浦義村(和田義盛とは同族で従兄弟)からも義盛蜂起の知らせがあった。

その報を得ると、義時は驚く様子もなく、すぐさま、御所に向かう。実朝夫人や北条政子を鶴岡八幡宮の別当坊に避難させたのだ。義時が御所に向かったのは、将軍を敵方に奪われるのを防ぐためでもあろう。午後4時、義盛の軍勢が御所を襲撃。しかし、義時方の武士がよくこれを防ぐ。

午後6時、和田の軍勢は惣門を破り、南庭に乱入、御所に放火する。実朝は頼朝の墓所・法華堂に入った。和田勢が優勢に見えたが、時が経つにつれて、兵も矢も少なくなってきて、疲弊し、義盛は由比ヶ浜に退却。翌日(3日)に援軍を得て、再び攻勢をかけた。

しかし、日和見をしていた曾我・中村・二宮・河村の軍勢が、将軍実朝の命令書を頂戴したことにより、幕府軍に加勢。幕軍は勢いをつけ、和田方を圧倒し、義盛も江戸義範の家臣に討ち取られた。

合戦後、義盛らの所領は没収され、御家人に分与された。侍所別当の職は、義時が得ることになる。政所別当と侍所別当の就任。義時は幕府の2大要職を得ることになったが、それは和田義盛を滅ぼしたからこそ可能となった。ここに、義時が義盛を挑発した真因を見ることもできよう。

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