大久保利通「西郷の死をほくそ笑んだ」は大誤解だ 西南戦争で国賊となった西郷の名誉回復に動いた
<第55回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。
戦場に姿を見せない総大将の西郷隆盛
「おいの体は皆に預けもんそ」
明治10(1877)年2月5日に開かれた幹部たちの集会で、西郷隆盛がそう決意を語ったことが、西南戦争の開戦を決定づけた。すでに私学校の生徒たちは、政府の火薬庫を襲撃してしまっている。「もう後戻りはできない」と腹をくくったのだろう。
そして、その言葉どおりに西郷は彼らに「体を預けた」。陸軍少将だった桐野利秋に四番大隊指揮長兼総司令を任せて、作戦の立案と指揮を担わせている。
また、西郷が軍の機密を決めた場合には、桐野に伝える前に、一番大隊長の篠原国幹にまず伝え、次に二番大隊指揮長の村田新八にはかったようだ。西郷は軍議でたびたび「村田はいないか」と口にしたという。よほど信頼していたのだろう。
そうして幹部たちに指揮を任せながら、西郷は西南戦争の総大将でありながらも、ほとんど戦場に姿を現さなかった。直接指揮したのは「和田越の戦い」と最後の「城山の戦い」くらいである。そのため、こんな戯れ歌が民衆の間で流行した。
「西郷隆盛 仏か神か、姿見せずに戦する」
西郷の周囲には、つねに20人ほどの護衛が付き従っていた。西郷軍が鹿児島を発つ前、かつては親交を深めたイギリスの外交官アーネスト・サトウが西郷を訪ねて面会するも、厳しい監視のもと、表面的な会話しかできなかったという。
幹部たちが絶対に避けたかったのが「西郷が暗殺されること」である。また、戦場から遠ざけることで、西郷が神格化されて、かえって団結力が高まるといった効果も期待していたに違いない。
西郷の求心力が戦略の甘さに
しかし、西南戦争をどう展開していくべきかについて、篠原や桐野はそれほど綿密に考えていなかったようだ。西郷を担いでしまえば、各地で支持者を得ながら、すんなりと中央に進出できる。そう安直に考えていたのかもしれない。
西郷軍が北上して熊本鎮台のある熊本城を囲んだのも「熊本鎮台には薩摩人も多くいるから、戦わずして開城される」と思っていた節がある。篠原など幹部たちは「熊本城は1日で抜ける」と豪語していた。
だが、実際には思わぬ抵抗にあい、北方の田原坂へと戦場を移して、激戦を重ねることとなる。西郷軍は健闘して政府軍を苦しめるも、時間をロスしているうちに、相手には次々と援軍が到着。徐々に戦況が厳しさを増し、西郷軍は九州各地を転々としながら、敗走を余儀なくされる。
あまりにも西郷軍の軍略が乏しいように思うが、「西郷さえ立てばなんとかなる」と周囲に思わせるほどの求心力が、西郷にはあったこともまた事実である。
西南戦争では、明治政府に不満を抱いていた九州各地の士族たちも立ち上がった。そのなかには、中津隊で隊長を務めた増田栄太郎のように、西郷に心酔する者もいた。
西郷軍が鹿児島に退却して、最後の抵抗をしようというときに、増田は「中津隊の役割は済んだ。みな帰れ」と命じながら、自身は鹿児島に同行している。
その理由について、増田は次のように語った。
「私はここに来て、初めて西郷先生と親しく接することができた。1日先生に接すれば、1日の愛が生じる。3日先生に接すれば、3日の愛が生じる。親愛は日に日に高まっていき、なくなるわけもない。今は、善いも悪いもなく、死生をともにしたい」
西郷のためならば、命を捨ててもいい。そんな士族たちが多くいたことから、「西郷を総大将に据えること」自体が目的化してしまったのだろう。だが、そんな西郷の神通力だけでは、数で勝る政府軍に打ち勝つことは難しかった。
9月24日早朝、政府軍は城山に総攻撃を開始。このとき、西郷隆盛は流れ弾を肩から股にかけて受けてしまう。
城山の岩崎谷でもはや歩くことができなくなった西郷。先鋒隊長の別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」というと、その場にどかっと座ったという。そして、別府晋介の介錯によって、自決したとされている(桐野が西郷を射殺したという説もある)。享年50歳だった。
西郷が失われた時点であっけなく終結
西南戦争の発端となった火薬庫襲撃について、大久保は「西郷は関与していない」という情報を信じ切って、岩倉具視にこんなことを言った。
「西郷がいないのであれば、私学校の勢力は担ぎ上げるべき人が誰もいない。蹴散らすことは、蜘蛛の子を散らすようなものと拝察されます」
これに対して、岩倉は「西郷が姿を隠したというならば、天下にとって大幸とはまさにこのこと」と応じている。西郷こそが西南戦争のシンボルであり、失われた時点でこの内戦はあっけなく終結するというのは、大久保の言うとおりであった。
このあとに、大久保の有名なこの言葉が続く。
「朝廷にとって不幸中の幸いだと、ひそかに心中に笑いを生じるくらいです」
この言葉から、大久保は火薬庫襲撃をむしろ「西郷を亡き者にするチャンス」と喜んだ……と誤解されて「大久保は冷血」というイメージが定着する一因となった。
歴史作家に西郷隆盛の伝記執筆を依頼
だが、大久保はあくまでも私学校の生徒と西郷を切り離して考えていた。結果的に、西郷を死に追いやることにはなったが、そうなることをほくそ笑んだわけではなかった。
西郷の死を知った大久保は、自宅にわざわざ歴史作家の重野安繹を呼び寄せている。そして、こんなことを言った。
「西郷の履歴については、人には知られていないことがある。自分は西郷の伝記を書こうと思うが、文才がない。お前が西郷の伝記を書いてくれ。これから話すことを書き記してほしい」
国賊となった西郷の名誉を回復してやりたい――。大久保はそう考えたのだろう。西郷の復権がなされたのは、死後10年が過ぎてからの明治20(1887)年に入ってからのことである。
(第57回につづく)
【参考文献】 大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店) 勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店) 西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会) 日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会) 徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫) 渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫) 勝海舟、江藤淳編、松浦玲編『氷川清話』(講談社学術文庫) 佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫) 佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット)』(山川出版社) 毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社) 河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店) 瀧井一博『大久保利通: 「知」を結ぶ指導者』 (新潮選書) 勝田政治『大久保利通と東アジア 国家構想と外交戦略』(吉川弘文館) 清沢洌『外政家としての大久保利通』 (中公文庫) 家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房) 磯田道史『素顔の西郷隆盛』 (新潮新書) 渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書) 安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵”であり続けた男の真実』(イースト・プレス) 佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館) 松尾正人『木戸孝允(幕末維新の個性 8)』(吉川弘文館) 瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ) 鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社) 大江志乃夫「大久保政権下の殖産興業政策成立の政治過程」(田村貞雄編『形成期の明治国家』吉川弘文館) 入交好脩『岩崎弥太郎』(吉川弘文館) 遠山茂樹『明治維新』 (岩波現代文庫) 井上清『日本の歴史 (20) 明治維新』(中公文庫) 坂野潤治『未完の明治維新』 (ちくま新書) 大内兵衛、土屋喬雄共編『明治前期財政経済史料集成』(明治文献資料刊行会) 大島美津子『明治のむら』(教育社歴史新書) 長野浩典『西南戦争 民衆の記《大義と破壊》』(弦書房)