「徳川家康」が今川義元の人質となった意外な経緯 何もかも順調に見えた松平家を襲った悲劇とは
家康の運命に大きな影響を与えた祖父
徳川家康は1603(慶長8)年、征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。その後、将軍職は徳川家で代々引き継がれていく。初代の家康に続く2代将軍には家康の息子である秀忠が、3代将軍には家康の孫にあたる家光が就いている。
その一方で、家康が生まれた松平家においては、初代からどのように当主の座が引き継がれていたかは意外と知られていない。なかでも、家康の運命に大きな影響を与えたのが、祖父の松平清康である。清康は、松平氏の勢力を急速に拡大させ、本拠地を岡崎に移した。しかしながら、意外な死を迎えることになり、松平家に暗雲が漂うことになる。
松平氏の初代にあたる松平親氏から、7代目にあたる清康までの系譜を解説しながら、家康が背負わされた運命について考えていこう。
松平氏初代の松平親氏は流浪の僧、あるいは旅人として、三河国加茂郡松平郷(豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉家に婿入りを果たした。家に出入りするうちに、娘と深い関係になったらしい(『徳川家康の祖先「愛知」に地盤築いた知られざる訳』参照)。
その後、松平郷を引き継いだ親氏は、同じく流浪の身である弟の松平泰親と手を組み、中山七名(「 中山十七名 」とする史料もある)と呼ばれる諸豪族を支配下に置く。親氏が急死すると、泰親がその後を継ぎ、2代目となる。
ちなみに、泰親については『三河物語』では親氏の「子」としているが、『松平氏由緒書』では親氏の「弟」とされている。親氏が亡くなったとき、息子である信光はまだ幼少で継ぐのが難しかったのだろう。『三河記摘要』にあるように、泰親は「実は弟だけれども、遺言によって家を継いだ」というのが、妥当な線ではないだろうか。
2代目の泰親は松平郷を出て、岩津の城を奪って居城とした。泰親の隠居と同時に、3代目の信光に岩津城が与えられることとなる。親氏の子にあたる信光は、大給(豊田市)や保久(岡崎市)を攻め取っただけではなく、寛正6(1465)年には額田郡一揆を討伐。さらに安城城や岡崎城も奪取したと伝えられている。
信光が安城城を攻めた方法は、なかなかユニークなものだ。『三河物語』によると、きらびやかな踊りの行列をつくって、安城から1.5キロメール離れた西の野へ向かわせた。行列が楽しげに太鼓や笛、鼓を打ちはやすと、人々はこう興奮したという。
「何かはよくわからないが、西の野を通る踊りはおもしろいそうだ。さあ見に行こう」
こうしてはいられないと城も町も明け渡して、男女みなが西の野に向かったところを、信光は狙っていたらしい。すぐさま城下に入っていき、そのまま奪ってしまったのだという。
家康は後世からしばしば「ずる賢いタヌキ」として描写されることがある。だが、戦わずして勝つ、もしくは自軍の犠牲を最小限にして勝つ策略があるならば、実行しない手はないだろう。遠い祖先の松平信光の策士ぶりが、そのことを如実に伝えてくれている。
40人以上の子どもを残した松平信光
85歳まで生きたとされる信光は、実に40人以上の子どもを残した。そのため、松平家は分派していく。そのなかでも、のちに徳川家へと連なるのが安城松平家である。信光の3男(4男とする説もあり)にあたる親忠が、安城松平家の初代となった。のちに、安城松平家が松平家惣領となるため、親忠は松平家第4代目に数えられることになる。
親忠といえば、井田野合戦で活躍したことで知られる。明応2(1493)年、上野城の阿部孫次郎や挙母城の中條出羽守、寺部城の鈴木日向守などの豊田市各地の豪族が来襲。ピンチを迎えるが、4000の兵の相手に対して、半分の2000の兵で井田野の地で撃退したという。
4代目の親忠の死後は、生前に家督を継いでいた嫡男の長忠が、安城松平家2代目となり、のちの松平家5代目当主となる。従来は「長親」とされることもあったが、今は「長忠」とするのが一般的である。
長忠もやはり過酷な戦に巻き込まれた。駿河今川氏が三河に侵攻を開始。仕掛けてきたのは、駿河国の戦国大名である今川氏親と、その後見人で「北条早雲」としてのちに知られる伊勢宗瑞だ。永正3(1506)年には東三河の吉田城が攻略されてしまい、さらに永正5(1508)年には西三河にまで攻め込まれ、岩津城が襲われる(永正三河の乱)。
前述したように、松平家は信光が多くの子を残したために庶家に分派したが、そのなかの岩津松平家の一族が、窮地に立たされることとなった。
そんななか、長忠は救援に向かい、わずか500の手勢で奮戦。今川軍の撃退に成功した。だが、岩津城は陥落させられて、岩津松平家の一族は壊滅状態となった。以後は、長忠が率いる安城松平家が、実質的に松平宗家となっている。
家臣から反発を買った6代目の松平信忠
松平家6代目当主には、長忠の嫡男である松平信忠が継ぐ。しかし、自身の権力を強化しようとするあまり、家臣たちから反発を買ったらしい。求心力が低下するなか、信忠もこれ以上、当主は続けられないとあきらめた。こう述べたという(『三河物語』)。
「どうしても一門をはじめ小侍どもにいたるまで私に慕いつかぬようだ。一門の者は私を遠ざけて出仕をしない。小侍までがそうだ。そればかりか、譜代の者までが私を嫌うように思える。それならば、隠居をして、次郎三郎に譲ろう」
家臣たちにそっぽを向かれて散々な状態だが、この「次郎三郎」が松平清康であり、徳川家康の祖父にあたる人物ということになる。
大永3(1523)年に松平信忠が隠居すると、嫡男の清康はわずか13歳で家督を引き継ぎ、松平家7代目当主となった。弓矢の達人だったらしく、『三河物語』では「戦をしてもこの上をゆく人はなかった」と記されている。それでいて、身分に関係なく慈悲をかける人格者で、家臣からも慕われていたらしい。
清康の実力は対外的にもすぐに発揮される。信忠から家督を継いだ翌年には、対立していた岡崎松平家の信貞のもとへ攻め混んで、山中城を乗っ取ってしまい、さらに岡崎城も明け渡させた。享禄3(1530)年頃、竜頭山にある現在の場所に、新たに岡崎城を築いて本城としたと言われている。
さらに、小島城(西尾市)や東三河の宇利城、吉田城(豊橋市)なども攻略するなど、順調に領地を拡大していく。そのうえ、山間部にいる奥平、菅沼、設楽、西郷らの諸氏も従わせることに成功した。
三河一国をほぼ支配下に置いた清康。次に意識を向けたのが、隣国の尾張で勢力を拡大する織田信秀だ。天文4(1535)年、勢いに乗る清康は信秀に仕掛けていく。
清康は守山城に着陣。あらかじめ、甲斐の武田信虎や、美濃三人衆とされる稲葉良通、安藤守就、氏家直元らとは連携をとっている。準備は万端だ。清康は1万あまりの軍勢を率いて尾張に侵攻していく。
何もかもが順調かに見えた。だが、清康は突如として命を落とすことになる。いったい、何が起きたのか。
叔父の松平信定との確執が招いた悲劇
当時、清康は叔父の松平信定と確執があった。信定は織田信忠と縁があったために、このときの出陣にも反対。参陣することはなかったという。
そんななか、「阿部定吉が信定らと内通しているのではないか」といううわさが流れ出す。定吉は清康の家臣であり、つまりはスパイだと疑われていたのである。
不安に駆られた定吉は、息子の弥七郎に「清康に成敗されるかもしれない」とこぼしていたという。このことが翌日、思わぬ悲劇を招く。
天文4(1535)年12月5日、清康の本陣で馬が暴れ出した。騒がしい様子に、弥七郎はとんだ勘違いをする。スパイを疑われた父が、清康によって成敗されたと思い込んだのだ。弥七郎は父の仇を討つべしと、清康を斬りつけて殺してしまった。
当主を失った松平家は攻め込むどころではなく、岡崎城に戻っている。清康はわずか25歳の若さで人生を終えた。『三河物語』では、こんな嘆きが記されている。
「清康が30歳まで生きていたならば、 天下を簡単に手中に収めたことだろう。25歳で死去したことは無念である」
もっとも清康についても史料は少なく、『三河物語』における記述が、どこまで実像を反映しているのかはわからない。家康の祖父ということで、あまりにも英雄的に描かれている可能性は高い。
だが、それでも清康の代に、松平家が勢力を拡大したこと、そして、清康亡き後の松平家が失速したことは確かだろう。そして、そのことが、幼少の家康の身に及ぼした影響は非常に大きかった。
急速に勢いを失った松平氏
清康が殺されたのち、松平家があまりに急速に勢いを失ったため、この事件のことを「守山崩れ」と呼ぶ。なにしろ、清康が死去したときに、後を継いだ嫡男の広忠は10歳に過ぎず、弱体化は必然である。岡崎城は松平信定に奪われてしまう。この悲運の広忠が、家康の父にあたる。
追放された広忠は、伊勢国へと逃れたのち転々とする。どうしようもなくなって頼った先が、今川義元である。広忠は今川氏の後ろ盾を得ながら、岡崎家の家臣を引き入れることに成功。岡崎城に帰還を果たす。そんな広忠のもとに幼い竹千代が生まれると、今川家へ人質として送り込まれることとなる。この竹千代こそが、のちの徳川家康だ。
誤解で殺された祖父の運命を背負った徳川家康。天下人への大いなる旅路が始まろうとしていた。
【参考文献】 大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫) 宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社) 所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館) 柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書) 菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社新書)