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日本を救った大久保利通と徳川慶喜の決定的な違い

JBpress のロゴ JBpress 2020/01/21 06:00 倉山 満

◎未来を見据えていた12人の日本人(第1回)「大久保利通」

(倉山 満:憲政史研究者)

 現状主義者と現実主義者は、似て非なる存在である。

 現状主義者とは、目の前の現状を把握し、客観情勢を読み、与えられた情報に基づいて、最適解を探して実行する人物のことである。

 歴史において、救国の英雄が現状主義者であった事例は1つもない。国を救うのは常に現実主義者である。では、現実主義者と現状主義者は何が違うのか。2つある。

 1つは、あらゆる空想を排する。もう1つは、明確な理想を掲げる。すなわち、あらゆる現実主義者は理想主義者なのであり、空想主義とも現状主義者とも一線を画するのである。

西郷の代わりを務めようと決意

 我が国における現実主義者の代表は、大久保利通である。言うまでもなく、幕末期の危機から日本を救い、近代日本の礎を築いた。では、大久保はどのような人生を歩んだのであろうか。

 文政13(1830)年、大久保は薩摩に生まれた。既に西洋列強は忍び寄っていたが、幕府は見ないようにしていた。人々は経済と文化の繁栄を謳歌していた時代である。そんな時代、大久保は幼馴染の西郷隆盛と「自主ゼミ」を始めた。朱子学の『近思録』が教科書である。仲間と読書し、議論し、学ぶ。大久保は議論が得意だったと伝わる。

 仲間の中で最初に出世したのは、年長の西郷だった。西郷や大久保は、「誠忠組」を結成し、藩主と日本の為に尽くしたいと訴えていた。西郷は国主・島津斉彬の目に留まり、江戸で秘書のような立場に取り立てられる。

 ペリー来航、開国、尊王攘夷論の流行、朝廷や外様大名の政治参加の圧力、将軍継嗣問題、不平等条約調印、安政の大獄・・・と連続する政局の中で斉彬は病死、「工作員」として活動していた西郷も失脚して島流しとなった。

 こうした中で大久保は、自らが西郷の代わりに働こうと決意する。狙いを斉彬死後に国父の地位にあった久光に絞る。囲碁が趣味だと聞きつけるや自らも碁を覚え、久光が読む本の中に手紙をしのばせるなど、あらゆる手段を使って取り入った。

とんだ食わせ物だった慶喜

 文久2(1862)年、転機が訪れる。久光は幕政改革を志し、3000の兵を連れて上京し、政治改革を上奏する。朝廷の主流派は薩摩の兵力を背景に幕府に圧力をかけるべく、そのまま江戸に下る。そして、幕府に対して「一橋慶喜政権の樹立」を要求した。当然、老中たちは渋るが、勅使大原重德は暗殺をも仄めかして飲ませた。その時、控えの間には大久保利通が屈強の刺客を引き連れて控えていたという。かくして、慶喜は薩摩の力で事実上の政権首班に就いた。

 当時、慶喜は「日本を救えるのは、この人しかいない!」と評判だった。若い頃より英才の誉れ高く、多趣味な教養人だった。行政を切り盛りするとの意味では、最高の政治家だった。謀略の類も得意だった。非情の決断もできた。個人的な身体能力も高く、武芸百般に通じ、実際に戦場での指揮も卓越していた。名門の生まれであり、日本一の人脈を誇った。すべてを手にしていた完全無欠の政治家のように思われていた。

 ところが、慶喜はとんでもない食わせ物だった。慶喜はあらゆる勢力を振り回し、いいように使い、平気で切り捨てる。微塵も躊躇しない。

 まず、切り捨てられたのが薩摩だ。慶喜の政権基盤は、会津と薩摩の軍事力だ。幕府の官僚機構や朝廷に対する発言力を持てるのは、薩会同盟を結んでいる両藩が慶喜に忠誠を誓うからに他ならない。だが慶喜は外様の薩摩を嫌い、同じ徳川の会津、それに桑名に傾斜する。その様は、「一会桑政権」と呼ばれた。天皇の名前を使い、ことごとく幕府の官僚機構の動きを封じ込める。朝廷に対しては外国の圧力を利用する。

 日本に不平等条約を押し付けてきた列強は、貿易港として兵庫の開港を要求する。しかし、時の孝明天皇は、大の外国嫌いだった。京都と目と鼻の先の兵庫の開港など、この世の終わりである。慶喜はマッチポンプの如く振る舞った。外国に対しては、「兵庫開港問題を解決する当事者能力がある日本人は自分だけだ」と主張する。一方で天皇に対しても、「外国と話をつけて追い払えるのは自分だけだ」と囁く。列強も天皇も、慶喜に従うしかない。

 この調子で5年間、外国公使も含めて、日本中を振り回した。そしてその間、1ミリも問題は解決しなかった。

 列強の侵略にさらされていた日本にとって、解決策は簡単である。すなわち、強い政府を作る。全国に大名が点在して、各々が年貢をとって、勝手に軍隊や黒船を作っているようでは、列強に勝てるはずがない。だから、中央政府に税金を集めて日本国の軍隊を作るしかない。現代の我々は「富国強兵」こそが救国の道だと知っている。それは、当時の少なからずの日本人も知っていた。

 だが、慶喜に政権を任せた5年間、何ひとつ「富国強兵」に向けて進まなかった。

薩長同盟を深化し、打倒慶喜へ

 そうした中、日本でただ1人、未来が見えていた人がいた。大久保利通である。大久保は、「慶喜がいる限り、日本救国はあり得ない」と確信していた。慶喜がいる限り、如何なる正論も通らない構図は、さんざん煮え湯を飲まされている薩摩は身に染みている。

 だが、現実の慶喜の権力は絶大である。政治に如何なる空想も持ち込まない大久保は、できもしない正論に加担して焦って暴発などはしない。力を蓄えつつ情勢を探り、時を待った。

 動きが起きた。長州藩が徳川に逆らい御所に発砲した罪で、第一次長州征伐を受けていた。その参謀で実質的指揮者が西郷隆盛で、長州に寛大な和議を許した。ここで慶喜の意のままに長州を潰すべきではないとの判断だった。そして元治元(1865)年、高杉晋作が長州藩内でクーデターを起こす。功山寺決起である。高杉は劣勢を跳ね返し、藩論を討幕で一致させた。

 この動きに大久保は反応し、薩長同盟に動く。ただし、この段階では秘密条約であり、長州が再び徳川と交戦する際に薩摩は中立を守り、裏面で物資の援助をするに留まる。発覚したら謀反人として幕府法で罰せられる重罪だが、もし長州が破れたら無かったことにできる程度の紙切れだ。その証拠に立会人が、ただの素浪人の坂本龍馬だ。仮に幕府に同盟の誓紙を証拠として突きつけられても、「ふざけているのか?」としらを切り通せる。

 それでも、逆賊として孤立した長州は、藁にもすがる思いだ。そして、徳川を相手に孤軍奮闘し、遂には撃退した。この間、幕府は薩摩に出兵命令を下したが、大久保はあらゆる手段を使って拒否した。

 長州が実力を示したことで、薩長同盟は急速に深化する。何より大久保は、打倒慶喜に邁進する。

 この状況でも、「慶喜抜きの政治はありうるのか」が、当時の政界の常識だった。慶喜は悠々、征夷大将軍に就任する。ただでさえ実質的な最高権力を握っている慶喜が、権限も掴んでしまった。こうした状況ゆえに、坂本龍馬なども慶喜を中心とした雄藩連合を構想している。むしろ大久保の方が、非現実的に見え、時に権力亡者に映る。

 だが、そうした批判をした人たちの何人が大久保と同じ未来を見ていただろうか。大久保の理解者は西郷くらいだっただろうか。

抗戦すべきと訴える側近と慶喜の問答

 武力衝突を回避し、じわじわと薩長を圧倒しようとする慶喜に対し、薩摩は徹底的に挑発する。討幕の密勅を引き出そうとする大久保に対し、慶喜は大政奉還の秘策で切り返す。将軍を辞めてしまえば討幕の大義名分は無くなると考えた慶喜に対し、西郷は江戸焼き討ちなどの挑発で切り返す。

 慶喜もさるもので、大久保の盟友で朝廷工作を一手に担っていた岩倉具視を買収したとの風聞まで流れる。実際、岩倉の動きは一時的に鈍くなる。

 だが、大久保は一歩も引かなかった。

 そして、慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見で慶喜と薩長は激突する。慶喜の兵力は薩長の3倍。大久保は自分の苦労がすべて「土崩に帰した」慨嘆した。だが、大久保は負けない。朝廷から錦の御旗を引き出した。

 西郷の奮戦もあり、薩長優勢で初日を終え、両軍が兵をいったん引き、翌4日に再び戦いが始まる。そして薩長に錦の御旗が翻った。徳川は逆賊である。ここに雪崩現象が起き、慶喜は潰走(かいそう)した。

 なおも抗戦すべきと訴える側近と、慶喜の問答が残っている。

「ここに西郷吉之助ほどの者がおるや」

「おりませぬ」

「では、大久保一蔵ほどのものがおるや」

「おりませぬ」

慶喜と大久保を決定的に隔てたもの

 慶喜は英邁な人物だった。本来ならば、大久保が対等に戦える相手ですら無かった。この時点で慶喜は征夷大将軍、大久保は外様大名の島津家の家老ですらない、ただの重役だ。だが、日本を救ったのは慶喜ではなく、大久保利通だった。ではいったい、何が違ったのだろうか。

 ただ一点、未来への意思である。

 大久保には明確な理想があった。日本を世界中の誰にも媚びないで生きていける、文明国にする。あらゆる空想を排し、決して現用に流されず。現実に可能ないかなる手段を用いてでも理想を実現する。

 討幕維新は、大久保にとってゴールではなくスタートだった。そして、志半ばで暗殺に倒れる。その過程で、最大の親友である西郷隆盛を自らの手で殺した。

 では大久保の理想が、実現したのはいつだろうか。

 日露戦争の勝利である。明治37、38年戦役において、尊王攘夷は成就した。

 世の中には大きく、2つの価値がある。1つは自分の生きている間がすべてだとの価値観である。この種の価値観にとらわれた人々は、権力、富、地位、名誉などを求める。もう1つは、自分の価値は生きている間に得たものがすべてではないとの価値観だ。

 生前の大久保は、前者のように思われていたが、実際には後者の人であった。

 大久保利通は、現状主義を徹底的に排した、現実主義者だった。

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