旧統一教会「マインドコントロール」救済案の危険 オウム真理教の裁判で否定されたものが登場
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済のための法案をめぐり、自民、公明、立憲民主、日本維新の会の4党は与野党協議会を設置し、実質的協議に入っている。法案は今国会に提出し、成立を目指す。すでに立民と維新が議員立法として共同提出した法案があり、これを基調に議論は進む。
この法案の主旨や議論の中心にあるのが「マインドコントロール」と呼ばれるものだ。共同提出された法案では、いわゆるマインドコントロールや正体隠しによる献金などを特定財産損害誘導行為と定義し、マインドコントロールによる寄付の誘導など経済的な損害があった場合、国が宗教団体に中止を勧告したり、是正を命令したりできるとしている。
また、協議会では、マインドコントロールなどを受けた本人に代わって家族などが被害を取り戻せるように、家族らにも「取消権」を認めるべきだとする野党側と、本人の同意がなければ難しいとして、家族らが損害賠償を請求できる制度などを検討すべきだとする自民党とで、議論は平行線をたどっている。
オウム裁判でも主張された「マインドコントロール」
しかし、この「マインドコントロール」とは、いったい何を指す言葉なのだろうか。マインドコントロールについては、過去にオウム真理教事件をめぐる一連の刑事裁判ですべて否定されている。
地下鉄・松本両サリン事件やさまざまな事件を引き起こし、192人が起訴され、有罪は190人にのぼった戦後最大の刑事裁判。そのうち教祖の麻原彰晃こと松本智津夫をはじめ13人の死刑が、すでに執行されている。
この一連の裁判の中で、複数の被告弁護側が主張したのが、「教団の犯罪に関与したのは、教祖、教団による心理操作をうけていたからで、犯行を回避するのは困難だった」というマインドコントロールの存在だった。
しかし、この主張をことごとく否定する司法判断が下っている。その中には、地下鉄にサリンを撒いた被告人もいた。
この弁護側の主張するマインドコントロール論を主に支えたのが、西田公昭・立正大学教授だった。西田氏は、河野太郎・消費者担当大臣が旧統一教会の問題をめぐって8月に設置した「霊感商法等の悪質商法への対策検討会」のメンバーでもある。この報告書の中にもマインドコントロールという言葉が盛り込まれている。
西田氏は当時、被告人の公判に意見書を提出し、本人も証人として法廷でオウム真理教におけるマインドコントロールについて証言したほか、鑑定作業も行っている。
このマインドコントロールを明確に否定した判決が1997年5月28日に東京地裁で言いわたされている。被告人は教団内における自動小銃密造にかかわり、武器製造法違反の罪に問われた。少し長いが、判決がマインドコントロールに言及した箇所を引用する。
さらに被告人は、自分が作っているものが銃の部品であることを認識していたこと、そのうえで違法性を十分認識しつつ、教団に対する信仰心から正当化したにすぎず、判断能力や自己決定能力が阻害されていたとは認められないとして、懲役2年6月の実刑判決を言いわたされている。
マインドコントロールの客観的な判断は困難
また、地下鉄にサリンを撒いた被告人に、東京地裁が1999年9月30日に言いわたした死刑判決には、こうある。
刑事裁判では、個々の被告人が裁かれているのであって、それぞれの事情に合わせて検討されていることではあるが、重要なのは西田氏が証言しているように「ある者に対してマインドコントロールの手法がとられていた場合、その者がマインドコントロールされていた可能性があるということはできるが、そのような状態にあったと客観的に判断することは困難であり、また、他者が意図した結果が生じた場合でも、それがマインドコントロールの結果かどうかは判定できない」とする点と、刑事責任能力を問うほどに是非弁別能力を失ってはおらず、信仰心を優先させたとする点だ。
これを旧統一教会の実態に合わせたらどうだろうか。オウム真理教が誕生した1980年代は、バブル経済の勢いを借りたように、新興宗教が相次いで立ち上がる宗教ブームだった。1964年に宗教法人となっていた旧統一教会もこの時代から、いわゆる霊感商法が社会問題化している。
そして、この時代に誕生した新興宗教の特徴は、現世利益追求型にある。死後、極楽や天国に行けるように功徳を積むというより、むしろ自己開発セミナーに近く、現世の幸福を得るためにどうしたらよいのか、その追求に勤しみ、そこに大量消費社会の浸透が加わって、その対価を支払うことによって、効能を得ようとする。
オウム真理教の場合だと、厳しい修行を積むことによって解脱、悟りを得られる、教祖のように空中浮揚もできる超能力を得られるとした。旧統一教会は、印鑑や壺などを購入することで不幸を払拭できるとした。それがトラブルになったのは、高額の対価を支払ったのに、その見返りがないことに気づくからだ。そうして高額の返金訴訟になったケースは、旧統一教会以外の新興宗教にも見られる1つの現象だった。
しかも旧統一教会は、最初から統一教会であることを名乗らず、言葉巧みに相手を購入へと誘導する。ところが、その買わせ方も直後におかしいと気づく人たちが続出して、社会問題化していった。いってみれば、詐欺的手法が露見して問題となった。
他の宗教の信者にも同じ言い方が可能になる
一方で教団にのめり込んでいく信者もいたことが、問題を複雑化させた。その典型が安倍晋三元首相を襲撃した山上徹也容疑者の母親だ。
山上容疑者によると母親は旧統一教会にのめり込み、多額の献金をして家庭が崩壊したという。だが、本人は多額の献金をしても納得して幸せでいられる。だから、いまでも信者でいるはずだ。これを家族とはいえ、周囲の第三者がマインドコントロールと指摘することができるだろうか。
仮に、山上容疑者の母親もマインドコントロール下にあって、被害者であるとするのなら、他の宗教にはまっている信者にも、同じ言い方が可能になる。
「死後に天国や地獄があるなんて証明できない、それを信じるのはマインドコントロールされているからだ」ともいえるし、教祖を仏陀やキリストの生まれかわりと崇拝することもマインドコントロールされているからだ、ということもできてしまう。
ひるがえって、自分に理解できない主義、主張や信仰、それも統一教会に留まる山上容疑者の母親のような存在を、体制側からマインドコントロールと断言するのは危険だ。
これを被害者だとして、第三者が引きはがそうとすれば、それこそ信者2世と呼ばれる子どもたちが、親から宗教を押しつけられ信仰の自由を奪われ、苦痛を強いられたと主張するのと同じだ。まして、精神疾患でもなければ、是非弁別能力を失っているわけでもない。
教団に家族がはまって家庭を振り返らなくなったのだとしても、それは家庭の事情より信心を優先した個人の事情ともいえる。マインドコントロールというと、まるで感情を失ってロボットのように操られる存在をイメージするようだが(実際にオウム裁判でそう主張する弁護人もいた)、そうではない。語感だけで「洗脳」や「催眠」と同じものと受けとめているのなら、それは大きな間違いだ。
マインドコントロールという言葉が、野党の救済法案に盛り込まれたきっかけとなったのは、前述のとおり、河野消費者担当大臣が統一教会を念頭に設置した検討会の報告書だった。ここにマインドコントロールという文言が4カ所で使われている。だが、その定義は明確に示されていないどころか、引用の根拠も曖昧だ。
共通認識や定義、過去の事例を検証することもないまま、マインドコントロールの文言を法案に盛り込むことは、信条の自由にさえ抵触して危険だ。仮に、このまま法律が成立すると、こののちサリンを撒くような集団が再び現れたとしても、マインドコントロール下にあったことを理由として、罪に問われない可能性もある。
そうでなくとも、192人が起訴された一連のオウム裁判でマインドコントロールが認められていたのなら、ほとんどが無罪で終わったはずだ。その一方で、最後まで教祖への帰依を貫いて死刑になった信者もいる。彼らこそ、マインドコントロールの被害者ということになる。
詐欺的手法と信条の自由は切り離した議論をすべき
旧統一教会で問題なのは、高額の献金を絡め取る手法だ。それもすぐにだまされたと気づく人が多いことから、これだけの騒ぎになっている。それだけ典型的で見抜きやすいともいえる。そこにマインドコントロールという言葉を安易に被せて、信者もマインドコントロール下にあるとするのは、あまりにも乱暴な論法だ。
むしろ詐欺的手法が認められるのであれば、そこを明確化して丁寧な言葉で法律に盛り込み、信条の自由とは切り離した議論をすべきはずだ。
さらに問題は詐取する側が宗教法人であるというところにある。これだけ金銭をだまし取られたと声の上がる組織が宗教法人として存立し、国から税制上の優遇を受けていることは、理解しがたい。私も法人格を剥奪する解散命令を急ぐべきだと考える1人だ。
しかしながら、急ぐあまりに慎重な議論を避け、被害者救済を目的にマインドコントロールなどという、語感と空気だけが先走り、定義すら曖昧で、思想、信条の自由すら脅かす言葉を法律に盛り込むことは、後世に禍根を残す。
どこか旧統一教会に振り回され、熱狂するあまりに冷静さを欠いて暴走しているようにも見える。もう一度、問題の本質を見つめ直すべきだ。