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1300年前、「3密」を知らない日本人は感染症が怖すぎて「奈良の大仏」を建てた

文春オンライン のロゴ 文春オンライン 2020/04/21 17:00 三宅 香帆

「三密を避けましょう」「家族と会うのも避けましょう」という言葉、奈良時代のひとびとに伝えてやりたかった……と今なら思う。 

 なぜなら奈良時代はつくづく感染症に苦しめられた時代であり、なんなら感染症によって歴史が変わった時代だったからだ。 

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 まさか令和の時代が、世界中で猛威をふるう感染症からスタートするとは、だれが思っただろうか。 

 思えば、「令和」という元号は『万葉集』が出典だ……という話を 去年の4月に寄稿していた 。あのときは万葉集で詠まれた歌みたいに想像力がもっと膨らむ時代になればいいな~と思ったものだったけれど、完全に平和ボケした頭の発言であった。現実は思いもよらないもので、令和の最初は、元号の出典となった『万葉集』の時代――つまり奈良時代とおなじく感染症に悩むこととなってしまった。 

 そう、じつは万葉集の時代とは、中国からの文化や知識によって文化が発展した一方で、同時に天災と感染症に多くの人が苦しんだ時代でもあった。 

 ある種のグローバル化(国外からの文化の流入)、それと同時に引きおこる疫病。そもそも、奈良時代に大仏が建ったのも、遷都が繰り返されたのも、今でいうところの「感染症の流行」が原因だったのだ。 

「民の半分以上が死亡した」崇神天皇即位5年

「日本は昔から天災が多かった」なんてよく言われるけれど、実際のところ、火事や地震よりも、当時のひとびとがおそれていたのは「疫病(流行りの感染症)」だったらしい。疫病が流行るのが、一過性の火事や天災よりもこわいの、今ならちょっとわかる気がする。 

 たとえば日本最古の歴史書である『日本書紀』には、崇神天皇即位5年(3世紀初期)、「国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」なんて記述がある。民の半分。おそろしい。 

 当時、中国ではちょうど後漢が滅んだ頃である。おそらく中国本土の混乱から逃げようと、朝鮮半島や日本へやってきた人が大量にいただろう。 

 そう、いつの時代だって、グローバル化――つまりは文化の交流と、疫病の流行はセットなのである。 

グローバル化が進んだ奈良時代、遣唐使が持ち帰った疫病

 グローバル化がさらに進んで奈良時代。天平9年(737年)、疫病が爆発的にひろまった。 

 遣唐使、遣新羅使によってたくさんの文化が持ち込まれたところだった。しかし同時に、彼らはおそらく疫病を持ち帰りもしたのだろう。疫病(おそらく天然痘だったのではないかといわれている)は、九州から広まった。 

 どれくらい大流行したかといえば、日本史を勉強した人なら一度は聞いたことがあるだろう藤原四兄弟(藤原不比等の子供たちのこと。武智麻呂、房前、宇合、麻呂)。当時の為政者だった四兄弟、全員が疫病で突然死してしまうのである。 

 完全に藤原一家の無双状態だった政権は、「うおお四人とも!? 亡くなった!?」とてんやわんや。この突然の亡くなりようをおそれた人々は、「藤原四兄弟が自害に追い込んだ長屋王の呪いでは……?」と噂まで流すようになった。 

 しかし今考えると、呪いというよりも、一家で仕事をしてずっと一緒にいりゃ、そりゃえんえんと「三密」の状態であろう。感染が広まってしまうのも当然なのだった。 

 ちなみにこの疫病は、藤原四兄弟にとどまらず、当時政治を担っていた公卿たちをも襲い、その約1/3が亡くなったと言われる。今でいえば、総理大臣や各省庁大臣の1/3が亡くなるようなもんである。『シン・ゴジラ』もびっくりだ。 

「三密」が奈良時代に知られていたら、日本の歴史は変わっていたのかもしれないが……。 

「とにかく東京を離れたい」ならぬ「とにかく都をうつしたい」

 しかし「三密」など知らず、長屋王の呪いをおそれた聖武天皇は、「仏教」を広めることと「遷都」に生涯を注いでゆく。 

 ご存じ、奈良の大仏を建てたのは聖武天皇だし、平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮と都をうつしまくったのも聖武天皇だ(結局、地震が続いたことが原因で、平城京に都を落ち着かせたのだが)。 

「なんでこんなに遷都したんだよ……」と後世の人からも言われているが、ロックダウンなんて選択肢もなかった時代、「とにかく東京から離れたい!」と言わんばかりの「とにかく都をうつしたい!」という衝動だったのかもしれない。 

 さらに感染症の拡大を食い止めるべく、当時、数百人の僧侶が宮中で読経していたらしい(しかしこの環境も、今思えば完全に「三密」の状態である)。 

 そんなふうにして、感染症に悩まされた奈良時代、仏教は国家の宗教となり、幾多の寺が建立された。やはり、感染症がここまで広まっていなかったら、日本の歴史は変わっていただろう。 

節分の「鬼は外」の本当の意味

 ちなみに奈良時代の歌集『万葉集』には、流行の感染症が「鬼病」という言葉で登場している。 

「鬼病」とはもともとは仏典用語として「鬼にとりつかれた病気」のことを呼ぶ言葉だが、そこから疫病のことを意味するようになった。 

 節分行事で「鬼は外」と唱えたことがある方は多いと思うが、実はあの「鬼」とは「疫病神」のことなのだ。もとは中国の宮中でおこなわれ、節分のもとになった行事「追儺」では、鬼の姿をした者が疫病で人々を苦しめる「疫鬼」に見立てられた。つまり、疫病をもたらす鬼を追い払う行事が、節分だったのだ。 

「感染症は外に出ていけ」。それが「鬼は外」の意味だった。 

 そりゃ鬼には外に出て行ってほしい。『万葉集』も旅途中の島で、感染症にかかって亡くなった方に向けた歌を収録している(巻15・3688)のだが、こんな思いが詠まれている。 

「時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君」(『万葉集』巻15・3688番一部抜粋) 

「時が過ぎて、月もかわってしまったから、今日帰ってくるか明日帰ってくるかって家の人は待ってるのに、きみは旅先にも着かず故郷にも帰れず、あの島で眠ったままなのか……」。なんとも切ない歌である。 

 奈良時代と違っていまは医療の知識も技術もあるけれど、それでも「家の人」に会えないままでいる人も多いだろう。会いたい「家の人」がいない人も多いだろう。 

 時代は令和なんだし、大仏が建たずともできるだけはやく感染症流行がおさまり、来年の節分にはまた各地の保育園や小学校で「鬼は外~」とみんなで笑う声を聞けますように、とつくづく思う。 

(三宅 香帆)

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