古いバージョンのブラウザーを使用しています。MSN を最適にご利用いただくために、サポートされているバージョンをご使用ください。

33歳、タイで転職繰り返す日本人女性の苦悩 コールセンターは安住の地ではなかった

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2017/12/13 10:00 水谷 竹秀
タイの首都バンコク。現地コールセンターで働く日本人の実態とは?(写真:ecobkk / PIXTA) © 東洋経済オンライン タイの首都バンコク。現地コールセンターで働く日本人の実態とは?(写真:ecobkk / PIXTA)

 日本から飛行機で約7時間。東南アジア主力都市の1つ、タイの首都バンコクでは、現地にあるコールセンターで多くの日本人が働いている。といってもコールセンターは東京に本社を置く日本企業のそれで、働いている日本人は日本語で電話に応対し、業務内容も日本のコールセンターと変わらない。

 そこには日本社会のメインストリームから外れた、もう若くはない大人たちが集まっている。非正規労働者、借金苦、風俗にハマる女、LGBTの男女――。生きづらい日本を離れ、行き着いた先にあるのは何か。「彼らはなぜタイに『墜ちた』と揶揄されるのか」(11月18日配信)に続いてフィリピン在住のノンフィクションライター、水谷竹秀氏の、成長を止めた日本のもう1つの現実を描いた新著『だから居場所が欲しかった。バンコク、コールセンターで働く日本人』から一部を抜粋する。

バンコクを走るBTS(高架鉄道)のアソーク駅周辺は、高級ホテルや高層オフィスビル、巨大ショッピングモールが立ち並ぶ商業の中心地だ。この日私は、アソーク駅から徒歩数分のタイ料理店を訪れた。

 「本当は歯を抜きたくなかったんです。抜くだけなら600バーツ(約2088円)なんですけど、神経を抜く治療には3万5000~4万バーツ(約12万1800~約13万9200円)はかかると言われました。年上の同僚からは奥歯抜いたよっていう話がちょいちょい聞こえてきたので、抜いた人の話を聞いて、笑ってもらったらギリギリ歯がないのが見える位置だったんです……。4万バーツ払うくらいなら一瞬、抜いちゃおうかなと思いました。でも見えたので無理! 治そうと思って」

 (※本記事では直近の為替レート1バーツ=約3.48円にならって計算したが、本書では1バーツ=約3円で統一している)

 九州出身の村上さやか(仮名、33歳)はグラスに氷を入れながらそう言った。30代半ばともなれば定期健診で何らかの異常も出てくる年代だ。だがオペレーターたちの多くは、経済的な事情から「抜歯」という手段を選ばざるをえないという。

 村上は旅行代理店で働いているが、つい1年ほど前まではコールセンターの社員として電話応対業務をこなしていた。奥歯の隣の歯が痛み出したのはその当時のことだ。だが、月給3万バーツ(約10万4400円)をすべて使い果たしてしまう浪費癖のせいで、村上に貯金はなかった。

 治療費を捻出するためには、コールセンターの月給だけでは長期戦が予想され、その間に歯はどんどんむしばまれていく。社内規定で副業は禁止されているが、そんなことを気にしていられる状況ではなかった。知人から「居酒屋でスタッフを募集している」と聞き、早速紹介してもらうことにした。

 オペレーターと居酒屋の掛け持ち生活が始まった。日中はコールセンター、勤務時間終了後にタクシーでタニヤ通り周辺の居酒屋まで直行し、深夜まで働く。タニヤ通りはゴーゴーバーが林立する東南アジア最大の歓楽街、パッポン通りに平行して走っており、日本人専用のカラオケ店が集中している。

 1日中働き詰めの日々だったが、その甲斐(かい)あって1カ月2万バーツ(約6万9600円)の臨時収入で、無事に歯の治療を済ませることができた。治療費は3万5000バーツ(約12万1800円)かかったという。

 村上がバンコクのコールセンターで働き始めたのは2011年晩秋に溯(さかのぼ)る。

 「実はタイに来た当時はもっと極貧生活で……」

 このコールセンターには英語やタイ語、タイ式マッサージを無料で学びながら働くというインターン制度があり、当時29歳の村上はその制度を利用してタイで生活を始めた。

 選択したのはタイ式マッサージ。コールセンターの勤務時間は朝から昼過ぎまでの1日6時間で、月、水、木の勤務終了後にマッサージ学校へ通う。指定されたアパートに入居しなければならず、家賃は会社負担(光熱費は別)。「生活手当」と称する事実上の給与は毎月5000バーツ(約1万7400円)にすぎない。このため制度を利用する志願者たちの多くが、日本から数十万円の現金を持ち込み、足りない分をそこから補っていた。

 ところが、村上が持ち込んだ現金は10万円足らず。

 「貯金もそれだけしかなかったし、まあ足りるだろうなって。でも島に遊びに行ったりして使っちゃって、結局全然足りなかったです。部屋のエアコンをつけないのは当たり前で、朝食抜き。お昼はタイ飯の屋台で30バーツ(約104円)、たばこは37バーツ(約128円)のくそまずいブランドです。夜は瓶ビール1本だけ。1日100バーツ(約348円)を超えないように生活していました」

 食事は昼食だけ。徒歩で通勤するのはもちろんのこと、マッサージの学校まで20分かけて歩く。交通機関は使わない。友達に飲みに誘われても行かない。コインランドリーは1回30バーツかかるので、手洗いで済ませる。まさに禁欲生活だ。

「焼き鳥食べて感動しました」

 「お金のことばかり気にして嫌でした。インターンの時は自分のお金で日本料理を食べることが一切できなかったです。同僚がおごってくれた時に、初めてタニヤの日本料理店に連れて行ってもらいました。焼き鳥食べて感動しましたもん。うわ、すげえ焼き鳥だ!って(笑)」

 マッサージの学校から歩いて帰る途中、絨毯(じゅうたん)屋のインド人男性と親しくなり、ビールを飲ませてもらうこともたびたびあった。

 「店の前を通ったらビールか水をもらえるみたいな、アハハハハハ。その間にめっちゃ口説かれるんですよ。インドへ一緒に行こうとか、クラブへ行こうとか。でも適当に受け流していればビールがもらえたんです!」

 マッサージ学校のタイ人の先生に食事に連れて行ってもらったり、住んでいるアパートの住人からのお裾分けで凌(しの)いだこともあった。

 インターンを始めて1年ほどが経過した頃、希望してコールセンターの正社員になると、月々の給与は5000バーツ(約1万7400円)から3万数千バーツへとハネ上がった。

 「それで日本の居酒屋に月2~3回行けるようになりました。洋服も屋台で200バーツ(約696円)ぐらいの安物しか買えなかったのが、600~700バーツ(約2088~約2436円)の洋服を買えるようになった。モスバーガーにも行けるようになり、一般の現地採用の人が毎日食べている物が、週1回ぐらいで食べられるようになりました」

 村上はコールセンター以外の職場で働く現地採用の日本人を「一般」と呼んだが、それ自体が自分の職場を卑下しているようにも聞こえた。

 生活は少し楽になったが、日々の業務は電話応対である。ずっとしゃべりっぱなしで、時には訳のわからないクレーム対応に追われる。電話に出ると、名前も名乗らずにいきなり怒り出す相手もいた。

 「もう何なのよ!と。仕事は嫌だなぁって、ずっと思っていました。社会人として電話応対のスキルはついたかもしれないですけど、それ以外では何の成長もない仕事でした。会社側がオペレーターは使い捨てって思っているのは感じるし、こっちもそういう気持ちで働いていました」

 村上にとって胸を張って人に言える仕事ではなかった。日本に一時帰国の際、地元の友達からタイでの仕事について尋ねられて、渋々説明している自分に気がついた。

 「何もしていないとは言えないので、コールセンターで働いていることを説明していました。友達からしたらコールセンターの実情をよく知らないので、『海外に住んですごいよね!』っていう見方になるんです。でも誰でも働ける職場なんですよ。自分からしたら最底辺なんですけど」

美大を目指したものの、受験に失敗

 村上の青春時代は実に複雑だ。芸術家だという父親の影響で美大を目指した彼女は、高校の夏休み期間中、美大予備校に通ったが受験に失敗。浪人は許されていなかったため、地元九州の短大に入学する。ところがその年の夏、東京から帰郷した友人たちの見違えるような姿に羨望を抱くと、自分も都会へ出たいと短大を中退して福岡に移った。

 デザインの専門学校に通いながら、弁当店、宴席のコンパニオン、スナックのホステス、ラブホテルの清掃員などのバイトをする日々。その後、「地元で地に足をつけて生きよう」と一旦は故郷に戻り、携帯電話販売店に転職してみたが、専門学校時代に借りた奨学金とクレジットカードで作った借金を返すため、派遣労働者として愛知県にある自動車部品製造工場で働いた。仕事は鉄製の小さな基盤を切断機に次から次へと置いていく単純作業だったという。

 「作業着を着て、基盤を切断機の所定の場所に置きます。スイッチを入れると機械が勝手に切断するのでまた基盤を置く。すごい単純な流れ作業でした」

 身振り手振りで村上はそう説明する。

 工場で働く作業員の半数以上は女性で、村上と同世代の20代半ばが中心。大半が沖縄県出身で、ほかに北海道、青森など最低賃金の低い地方からの労働者が占めていた。給料は手取りで25万円。村上は半年ほど働いて借金を完済すると、さらに半年働いて貯めた現金150万円ほどを握りしめ、地元の恋人と一緒に上京した。

 ようやく憧れの東京で同棲生活が始まった。

 仕事はまたしても派遣である。携帯電話の契約センターで顧客情報をひたすら入力した。この頃、アジアを旅する日本人たちのルポルタージュを読んで感化された村上が、同棲相手と一緒にタイに行ったのが最初のアジア旅行だった。

 「そこですごい面白い人と出会って、何年も旅している日本人とか。まさに私が会いたかった”アジアン・ジャパニーズ”に死ぬほど会えたんですよ。肌も真っ黒でヒッピーみたいな旅をしているカップルにも出会いました」

 『アジアン・ジャパニーズ』とは、写真家の小林紀晴(きせい)氏が1995年に発表したデビュー作で、アジアを漂流する若者たちの心の内を描いてベストセラーとなった書籍のタイトルだ。ちなみに私もこの本に影響を受けてアジアを放浪した1人である。

 当時日本の常識しか持ち合わせていなかった青二才の私は、この旅でさまざまな日本人旅行者たちに出会い、一緒に屋台で飯を食っては旅先の情報を交換し、ある時は同じ目的地まで一緒に旅をした。

 帰国後に私が痛感したのはアジアの熱気との温度差だった。東京の満員電車に揺られて通学する日々にたちまち鬱屈した気分を募らせるようになった私は、夏休みや春休みのたびにバックパックを背負ってはアジアへ飛び出すことを繰り返した。

 旅に答えなどない。

 それでも若者たちは何かを求めてアジアを目指した。かつてそれは「自分探し」と謳(うた)われていたが、探し物が具体的な何かである必要はなかった。たとえ現実逃避でしかなかったとしても、アジアの人々や旅先で出会った日本人たちは、そんな弱い私を優しく包み込むように受け入れてくれた。

 そこには確かに「居場所」があった。日本と違う景色、違う食事、違う言葉を話す現地の人々との出会いを通じた非日常的体験。そこに意味や理由付けといった小難しい理屈は不要で、ただただ楽しかった。

 恋人と上京して同棲生活を送っていた村上も、旅先でそんな若者たちに出会い、それからというもの、休みを利用した東南アジア1人旅が始まった。

旅先から帰ってきたら…

 だが、2011年の年明け、旅先から帰国した村上を待っていたのは、5年間付き合った恋人との別れだった。原因は相手の浮気。以前から仲がぎくしゃくしていたが、恋人の携帯電話を調べたところ、別の女性と関係を持っている疑いが浮上したのだ。

 「彼氏と別れて、毎月20万円程度の給料で東京に1人暮らしするとしたら貧乏生活と変わらないじゃないですか。派遣だし、ボーナスもないし。だから東京にいる意味がなくなったんです。地元に帰ってもよかったんですけど……。でもこっちは浮気をされて捨てられ、相手は同じ地元の人なので、共通の知り合いに『こいつ1人で帰ってきてるよ』って思われるのも悔しくて。だから意地でも帰るものかと」

 自ら東京へ出た手前、惨めな姿をさらしたくなかった。

 「恥ずかしい。悲しすぎるじゃないですか! 自分が振って帰ってきたんだったら凱旋みたいな感じですけど、振られた挙げ句に都落ち。それで携帯ショップでバイトなんか始めたら誰かしら知り合いに会いますよ。狭い町なので。そんなのは死んでもごめんだと。相手の男より絶対に楽しい人生を送ってやると思いました。それでネットで『タイ』『就職』のキーワードで検索したら、真っ先に出てきたのがコールセンターだったんです」

 そして村上はバンコクへ誘われるようにして日本を飛び出した。

 それから4年。

 インターン制度で困窮生活を1年ほど続けた後、限界を感じた村上は、コールセンターの正社員になった。しかし、その2年後に退職。コールセンターの離職率は高く、毎月のように1人、また1人と職場から誰かしらが消えていく。

 「タイ語も話せないのにタイにいて、日本人とだけつるんでいる自分が嫌でした。せめてタイ語が話せるようになりたいって思って、コールセンターを辞めてタイ語学校に通うことにしたんです」

 スパの受付を辞める友達の代わりにその仕事に就くと、スパでの勤務とタイ語学習を両立させた。ところがスパの就労条件に納得がいかず、数カ月で退社。次に旅行代理店での職を得たが、それは勉強を続けたタイ語の能力が評価された結果でもあった。

 結婚に対する焦りも少なからず募っていた。地元の友達が結婚したというニュースも次々に入ってくる。

 「ヤバいって思います。田舎ですからみんな20代後半までには結婚しますよね。周りで結婚していないのはあと数人しかいないんです。結婚願望はありますよ」

 村上はバンコクで発行されている情報誌に「彼氏募集」の寄稿をしたことがきっかけで1年ほど日本人男性と交際を続け、同棲までしたが、だんだんと会話がかみ合わなくなり別れてしまった。

 「だから結婚についてはもう流れに身を任せるしかないかな」

 私が村上に取材したのは旅行代理店で働き始めてまだ1カ月足らずの頃だったが、アパートを1年契約で借りてしまったことから、少なくともあと1年はいる予定だという。

 「今はまだ試用期間なんで1カ月に8日間の休みがあるんですけど、社員になったら6日間に減るんです。それで月給3万5000バーツ(約12万1800円)スタート。それだと正直どうなのかなと思いますね。あんなに嫌がっていたコールセンターの待遇と大して変わらないなあと」

 バンコクでも悩み続け、漂流する「アラサー」と呼ばれる人たち。

浮き草のような軽さと、押し寄せる焦り

 村上の場合、すべては地方コンプレックスから始まった。美大に落ち、やりたいことや夢も特になかった。都会生活へのあこがれから、福岡、地元、愛知、東京へと次々に居を移し、現在はバンコクでも職場を転々としている。地に足が付かず、浮き草のような軽さがある反面、33歳という年齢を考えると、このまま漂流生活を続けるわけにはいかないという焦りは募る。村上の胸の内には、じわじわと不安が押し寄せているようだった。

 「今、33歳でここにいて、今後どうするんだろうって。結局20代の頃と何も変わっていないなあ。でも今さら地元に帰ってもね。まず車を買わないと生活できない。そうすると車のローンから始まって……。そんなの嫌ですよ! 来年の34歳の時点にこうご期待です。本当にどうなっているんでしょうかねえ」

 村上の地元の1時間あたりの最低賃金は、コールセンターで働いていた時の時給約200バーツ(約696円)とほぼ同額。物価はタイのほうが安いから、それだけを考えても日本に戻る必要はもうないのかもしれない。

 訪れるたびにビルやショッピングモールが次々と建設され、経済成長を続けるタイの首都バンコクと日本の地方都市。両者の経済格差が狭まりつつある現実が皮肉にも、村上をバンコクにとどまらせているようだった。

 オペレーターたちの人生はとにかく変化が激しい。

 取材をして数カ月が経過すると多くが転職している。バンコクでの取材を終えて、フィリピンに戻り、再びバンコクに行くと、取材相手がもうオペレーターでなくなっていることも多々あった。日本に帰国する人もいた。もっとも、日本でもオペレーターの離職率は9割という高さゆえ、それは自然な成り行きなのかもしれなかった。

 旅行代理店での職を得て落ち着くのかと思いきや、村上はわずか1カ月ほどで退社していた。

 「職場では挨拶もないし、退社時の『お疲れさま』もない。要するに会話がないんです。常にピリピリしていました。入社した時からここはヤバいなあと思っていました。だから嫌になっちゃったんです」

 村上の人生も目まぐるしい。続いてラーメン屋のホール店員に雇われるも、給与の支払いをめぐりタイ人オーナーと険悪になって1カ月ほどで解雇。私はそのことをフェイスブックでのやり取りで知った。

 「ラーメン屋を突如解雇されてしまい、知人の紹介でなんとキャバクラで働いてます(笑)」

 20代の頃、福岡のスナックでホステスとして働いたことを「胸を張って人に言える仕事じゃないから嫌でした」と、振り返っていた彼女だったが、非正規労働を繰り返した後、バンコクのコールセンターに流れ着き、そこからまた二転三転して、水商売に戻ってしまったらしい。

「何か、私かわいそうな人みたいですね」

 そんな村上にタニヤ通り沿いの居酒屋で会った。彼女が働くクラブもこの界隈だ。出勤前だったためか、水色に白い花柄模様がちりばめられたワンピースを着ていた。両手には銀色にキラキラ光るネイルアートが施されている。これまでのTシャツ、短パン姿とは異なり、その姿は夜の女性に変わっていた。

 テーブル席に座った彼女は「あさりの酒蒸しを食べませんか?」と聞いてきた。私は「どうぞ注文して下さい」と何げなく勧めたつもりだったが、予想外の反応が返ってきた。

 「何か、私かわいそうな人みたいですね」

 私の口調が癇(かん)にさわったのか、あるいは「上から目線」に映ったのか。そんなつもりはなかったが、自身の状況を悲観するあまり、過敏になっているのかもしれなかった。

 村上は週6日のペースでクラブに出勤していた。午後9時からの3時間で給与は2100バーツ(約7308円)。時給700バーツ(約2436円)だから、コールセンター時代の3倍強だ。1カ月で5万バーツ(約17万4000円)弱になる。それに指名料やドリンク代が加算されれば、1日3時間でもかなり稼げるはずだ。ところが、村上は自分の心に整理がつけられないでいた。

 「33歳にもなってこんな業界で働くことになるとは思わなかったです。今はこれしかないから頑張ろうと思っていますけど、基本的には嫌ですね。何かもう、これからどうなっちゃうのかなあ……。今のところはこの仕事を続けるしかないですね。だってお金ないし」

 村上はラーメン屋を解雇された後、一時帰国しているが、両親や友達にキャバクラで働いている事実は打ち明けられなかったという。

 「20代の頃は私がクラブで働いていたのはみんな知っていたけど、今この年になってまだやっているとかって絶対に言えなくて。何となく嫌です。人に胸を張って言える職業ではないですよね。20代の時は茶化して言えたんですけど、今は本当に崖っぷちでこうなってしまったから、なおさら言い出せなくて」

 自己嫌悪に陥っているようだが、その語り口は妙にあっけらかんとしていた。

 「逆にサラっと言わなきゃやってられないんです。考えすぎて嫌になっちゃったので」

 村上の銀行口座の預金額は「ゼロ」。目の前の財布の中の所持金はわずか650バーツ(約2262円)だった。

 「その日暮らしです。今お父さんが危篤と言われても、お金無くて帰れないですからね。超ヤバい!」

 口では「ヤバい!」と言っている割に深刻さや悲愴感はやはり感じられない。しかし現実的には所持金が底を尽きかけており、何とか状況を打開しないといけないことも分かっているはずだった。これからどうするのか尋ねると「うーん、今は考えないと決めたんです。考えたら暗くなるんでやめますみたいな感じですね」と言う。

 状況が逼迫しているにもかかわらず、「考えない」という彼女に対し、私は何と言葉をかけてよいのか分からなくなった。解決の糸口はどこかに転がっているのだろうが、それを見つけようとする気力さえ失われているように見えた。単に投げやりになっているだけなのか。

 そんなふうに忖度(そんたく)する私の心情を察したのか、村上は突然真顔になってこう口走った。

 「ここでグチグチうだうだ、助けて下さい、お金貸して下さい!って言ったら何か解決します?」

 彼女は物ごいするかのように右手を私に差し出した。

 これ以降、彼女と私の会話は淡泊になり、徐々に沈黙の時間が増えていった。こんな奴に自分のことを話しても理解なんかしてくれない、と思われたのか。以前は「次は私がおごりますからね!」と、快活に語っていたが、目の前の彼女にはそんな余裕など微塵(みじん)もないように感じられた。

 それでも村上は「今さら日本に帰れない」というプライドと目の前の現実に煩悶しているのか、多くを語りたがらなかった。

 居酒屋を出てタニヤ通りを歩いた。

 カラオケ店の看板が縦に連なるネオン街は、銀座の夜を彷彿とさせる。露出度の高いドレスを着た若いタイ人女性が店の前で呼び込みをする姿を横目に、私たちは黙々と足を前に進めるだけで、気まずい沈黙が一向に解消されることはなかった。とあるビルまで来ると「店はここの5階なんです」と村上は指さし、その方向へと歩いて行く彼女の後ろ姿を見送った。

 2カ月後、ビール片手に内定の祝杯をあげる写真とともに「とりあえず就職が決まりました。あと2社受けて社会復帰します!」と書かれた投稿が、フェイスブックにアップされた。

 「仕事は楽しいですよ。何ですかねえ、ちゃんとしたOLができていることも嬉(うれ)しいし。職場のスタッフもいい人が多いので、すごく働きやすいです」

 久しぶりに再会した村上は、張りのある声でそう語った。キャバクラは結局、数カ月で辞めていた。心機一転、人材紹介会社に登録して就職活動を始めたところ、工場の施工を請け負う日系の建設会社にあっさり採用されたらしい。

 「もっと早くに仕事を探せばよかったんですけど、そういう気持ちにもなれなかったんです。言葉じゃうまく説明できないです。ちゃんとした仕事を探す自信がなかった。でも就職活動をしたらすぐに見つかって。こんなもんで大丈夫なんだって思いましたよ」

 現在は研修期間で、会社が購入する資材の価格を調べ、書類にまとめるのが主な仕事内容だという。月給は5万バーツ(約17万4000円)と、タイに来てから就いた仕事の中では最も高い。

 「タイにずっといたいです。家賃も安いし人も優しいし。定年まで今の会社で働ければなあと思います。もう会社を辞めたりとかしたくないんで。日本へ帰るのは遊びに行ったり、親に会う時ぐらいで十分です。もし日本に住めと言われたら、また敷金を払って家具を全部買って、新たに仕事見つけてとなるでしょ? 私もう34歳ですよ。また面接受けるのはめんどくさくて絶対に無理です。老後なら住むのはありうるかな。でも年金払ってないですけどね」

直視したくない現実の、逃げた先にあったもの

 私がバンコクで取材したオペレーターたちは日本で転職を繰り返してきた人が多い。このまま非正規を繰り返していくのかと、日本で働き続けることに希望を見いだせなくなった人の目に、求人サイトの、

 「英語もタイ語もできないけれど海外勤務経験で成長したい!」

 「語学留学したいけれど資金が不安、働きながら学びたい!」

 というキャッチフレーズが飛び込んできたとしたら? かつてタイを旅行した経験のある人なら、楽しかった当時の思い出が重なり、つい背中を押されてしまうのではないか。

 ただ、明確なビジョンを持って海外就職を決意したのか、あるいは日本の現実から逃げるようにして海を渡ったのか。この両者は大きく異なるように思える。これが若者ではなく中高年層ともなれば、後者の可能性は一段と高まるはずだ。そこには非正規というスパイラルから抜け出せない日本社会の現実が見え隠れする。

東洋経済オンラインの関連記事

東洋経済オンライン
東洋経済オンライン
image beaconimage beaconimage beacon