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日本人はナイキの躍進から何を学ぶべきか? 創業者フィル・ナイト氏への直撃取材を敢行

東洋経済オンライン のロゴ 東洋経済オンライン 2018/04/29 08:00 野口 修司
インタビューに応じるナイキ創業者フィル・ナイト氏(写真:NHK) © 東洋経済オンライン インタビューに応じるナイキ創業者フィル・ナイト氏(写真:NHK)

1962~80年のナイキの創業と躍進から、私たち日本人は何を学ぶべきなのか。

ナイキ創業者のフィル・ナイト氏のインタビューを柱に、関係者の証言を交え、ナイキの創業と躍進、それに日本企業との知られざる事実をひもとくNHK BS1スペシャル「ナイキを育てた男たち~“SHOE DOG”とニッポン」が4月29日、放送される(5月5日、午前7時より再放送)。本記事では、実際にナイト氏らにインタビューを行ったNHKの野口修司キャスターに、番組制作の意図と日本経済へのメッセージについて解説してもらった。

それは、「情熱」だった。いや、単なる「熱」と言ってもいい。

 1962年、大学院を卒業したばかりのフィル・ナイト氏が、ハワイを経由して日本を訪ねるところから、物語は始まる。いまや世界最大のスポーツブランドとなった「ナイキ」。その誕生と成長を、創業者のナイト氏が自叙伝的に描いたのが、『SHOE DOG(シュードッグ)』だ。

 2017年10月に販売された日本語版を読み、単なるサクセスストーリーではない、試行錯誤満載の、異様に“人間くさい”内容に引き込まれた。中学生の頃から「あこがれ」だったスポーツブランドの経営は、かくも行き当たりばったりで、これほど経営危機に陥っていたのか……。「ぜひ、彼にインタビューしてみたい」。そう思い立ったのが、NHK BS1スペシャル「ナイキを育てた男たち~“SHOE DOG”とニッポン」の取材のスタートだった。

ビーバートンの「キャンパス」

 「インタビュー時間は30分!」との約束を取り付け、往復20時間かけて、2018年2月中旬、ナイキ本社があるオレゴン州ビーバートンを訪ねた。

 東京ドーム35個分という広大な敷地には、サッカー場もあればジムもある。さらには保育所(2カ所!)もあり、「本社」ではなく、社員いわく「キャンパス」との呼び名にも納得できる。

 中心には大きな人工池があり、周囲にある大小50を超える建物には、名だたるアスリートの名前が冠されている。マイケル・ジョーダン、タイガー・ウッズ……。最も新しいビルには、セバスチャン・コー。イギリスの元五輪選手で、1500メートル金メダリスト。先のロンドン五輪では組織委員会委員長を務めた人物だ。

 ナイキが、各競技のアスリートを国籍問わず強力にサポートし、彼らの躍進、活躍によってブランド価値を上げ、製品を売ってきた「戦略」が、この「キャンパス」にも色濃く投影されている。

 この大きな敷地の中で、中心的な存在とも言えるのが、「プリフォンテーン・ホール」だ。スティーブ・プリフォンテーン。ナイキが最初にスポンサー契約をしたアメリカ陸上中長距離界のスター。1975年に24歳という若さで交通事故によって命を落とすのだが、ナイキの創成期を彩るホールには、彼の名前が最もふさわしいのだと推察した。このホールが、今回のインタビュー場所となる。午後2時すぎ、ナイト氏は現れた。長身にサングラス、とても温厚な声が印象的だった。

事前に、スメラギ氏を訪ねた

 インタビューを行うにあたって重要なのが、ナイト氏と日本とのかかわりだ。創業時のナイキ(当初はブルーリボンスポーツ社)が多くの日本企業とかかわって成長してきたという事実は、意外と知られていない。オニツカ、日商岩井、日本ゴム……(いずれも当時の名称)。まさに、「ナイキを育てた国」が日本だったわけだが、なかでも最も大きな役割を果たしたのが、総合商社の日商岩井(現・双日)だろう。

 1970年、ナイト氏が日商岩井ポートランド支店に“飛び込んだ”ところから関係は始まる。当時、日商岩井でナイキ担当となったのが、『シュードッグ』で“スメラギ”という表記で登場する、皇孝之さんだ。現在も都内で元気に暮らしておられ、アメリカに行く前の週に、私たちは皇さんを訪ね、インタビューした。

 「私たちは、夢を買ったんだと思う」と、少しカッコイイ言い方もされていたが、「当時は、世界的にはアディダスとプーマというドイツメーカーが席巻していた。アメリカではコンバースくらい。ここ(北米)でいいブランドを立ち上げられたら、勝負できるんじゃないかという感触があった」という見立てだったという。

 彼の言葉で、あわせて印象的だったのが、「当時は、100(の事業を)やって3つ成功すればいいんだ!と言われていたんだよ。まぁ、ナイキがその3つに入るかなと感触を持つには、2年くらいかかったけど……」というものだ。

 「商社金融」という言葉がある。支払いのタイミングを調節することで、事実上事業会社に対して融資することだ。日本の高度成長期における商社は、企業への資金供給源として現在よりもはるかに重要な役割を占めていたとされる。それは、銀行などと違って、数字に基づく実績(結果)重視ではなく、将来性を見定め、リスクを取って支援に乗り出す姿勢があったからだ。

 ナイト氏は著書で、そうした日本の総合商社の「プライベートバンク」的役割を当時すでに見聞きしていたと回顧している。彼がそもそも日本への好奇心が強かったという面もあっただろうが、すでにアメリカまで、日本の商社の“活躍”は聞こえていた。膨大なアスレチックシューズの在庫だけが担保、という彼の事業のやり方を地元の銀行がいぶかしく見るなかで、日本の商社がナイキ支援の「真ん中」に座るわけである。

 当時の日本は、1964年の東京オリンピックを経て、「いざなぎ景気」に沸いていた。「所得倍増計画」「三種の神器」……。まさに戦後復興の中で、失うものは何もなく、日本の企業全体が「リスクテイカー」だったのかもしれない時代だと言えよう。

日本企業の「普通のアグレッシブさ」

 「あれ、サングラス外さないの?」という思いを抱えながら、インタビューは始まった。まず彼は、『シュードッグ』の日本での売れ行きが好調なのがとてもうれしそうだった。20万部突破だと伝えると、「アメリカでは約40万部。人口を考えると、日本はすごいね。うれしくなるよ。あの本は日本で始まり、日本の話を中心にしているからね。日本で広く受け入れられているのは、すばらしい」。

 なぜ、最初に日本を目指したのか、という問いにはこう答えてくれた。

 「大学の論文で、『日本のカメラがドイツのカメラを打ち負かせるのなら、日本のアスレチックシューズだって、ドイツのアディダスやプーマを打ち負かせられるはずだ』ということを書いていた。そして見つけたのが、オニツカ。オニツカには飛び込みで行った。彼らは、私が世間知らずだと思っていたようだけど、私がシューズに詳しいことがわかって、本気のディカッションになったんだよ」

 「大学を出たばかりの私には、人生で何をしたいのか、まだはっきりしなかった。でも、アスレチックシューズを売ってまともな暮らしができるなら、それが理想だと確信していた。だから、そのビジネスを、自分や家族を支えられるところまで発展させたかったんだ」

 気になっていた「起業の原動力」は、とても純粋なものだった。冒頭に書いた「熱」を私が最初に感じたのも、この起業初期の頃についてだ。

 支援に乗り出した日商岩井について、ナイト氏は「もちろん、彼らがいたから私たちのビジネスはうまく行ったが、いずれにせよ日商岩井はアグレッシブだった」と答えた。だが、皇氏をインタビューしたときには、正直、“オラオラ感”のようなものは感じなかった。彼がすでに引退していることもあるかもしれないが、当時を回想してもらっている時も含めてそうだった。今考えると、ナイト氏の言う“アグレッシブさ”とは、当時の日本のビジネスパーソンが“普通に”持っていたものかもしれないと思った。

ウッデル氏とジョンソン氏の言葉

 ナイト氏のインタビュー実現に合わせ、私たち取材陣は、著書に出てくる創業当時からのメンバーのボブ・ウッデル氏、また「ナイキ」という名前を考えたジェフ・ジョンソン氏、それに日商岩井ポートランド支店で経理を担当していた“アイスマン・イトー”こと、伊藤忠幸氏にそれぞれインタビューすることができた。ウッデル氏やジョンソン氏には、ナイト氏が事前に電話をしてくれるという“特約付き”のインタビューだった。

 これらのインタビューを通じてにじみ出てきたものは、「ナイト氏の情熱を感じ、それに呼応する人たちの気持ちの良さ」であり、「絶対にうまくいくという強い気持ちや確信」であり、また「仲間への信頼」だった。

ナイキが巨大企業になったのは、特別なことではない

 ウッデル氏はこう言う。「ナイト氏は本当に忠義に厚い人で、スメラギ氏がナイト氏を信じてくれたことがわれわれに希望を与えた。ナイキが巨大企業になったことは別に特別なことではないよ。特別だったのは、成長期にすべてを学び、あらゆるリスクを取って、そして、楽しかったことだ」。

 ジョンソン氏は、「倒産と隣り合わせのギリギリの生活だったが、『お客さんにできるだけ尽くす』ことが第一だったので、若い自分たちにはそれほどつらいものではなかった。若い時は楽しさと恐れをひとつにできた。歳を取ると、できないやり方だけどね。楽しくて、そして怖かったよ(笑)」。

 イトー氏は、「“アイスマン”なんて書かれたけど、私は仲間だった。ナイトさんと、ナイトさんを取り巻く人たちの魅力に取り込まれてしまってね。ナイトさんって、恥ずかしそうにしゃべりますけど、本当にかわいいなと思うところがあるんですよ」(この言葉はナイト氏に伝えた)。

 今でこそ、ランニングを楽しむ多くの市民ランナーがいて、最新のシューズを履いているが、1960~70年代くらいは、「本気のランナー」しか、そうした靴を求めなかったという。ストリートファッションなども、当然まだない。

 そんな中でも、品質のいいシューズを作り、それを一人でも多くの人に履いてほしいということを、ナイト氏は「熱」を持って考えていたし、そんな彼に自身をダブらせたオニツカの創業者・鬼塚喜八郎氏も同じことを考えていた。その「情熱」が、事業を前に進めたのだ。

 ナイト氏はこうも言った。「日商岩井は、われわれの性格もよく知っていたし、われわれ経営陣のことを信用してくれていた。もっと大きな会社になると彼らが信じていたからこそ、支持してくれたのでしょう」

ナイト氏から日本へのメッセージ

 ここで冒頭の「熱」「情熱」の話に、再び戻りたい。彼らを突き動かしていたものは、今のようなデジタルな時代には青臭く聞こえてしまうかもしれないが、ものすごくアナログな「気持ち」だったり、「人とのつながり」だったりするのだ。

 もちろん、ナイキというメガ企業まで成長させた彼らが言うからこそ、カッコよく聞こえるのかもしれないが、当時、リスクを取って支援に乗り出した日商岩井の人たちも含めて、彼らが持っていた「熱」は、何か大事なものを私たちに伝えてくれているような気がする。

 限られた時間のインタビューで、いちばん聞きたかったことが、今の日本経済、日本企業、それに日本のビジネスパーソンへの「言葉」だ。『シュードッグ』からは、「昔の日本にこそベンチャー精神、起業家を育てる精神があった」ことがあふれるほどに伝わってくる。失われた20年とも言われるバブル崩壊からの日本の復活は、いまだ道半ば。リスクを取って、新たな挑戦を続けたナイト氏の姿勢こそ、今の日本に必要なものではないか。

 そう思いながら、問いを投げかけた。

 「日本経済は必ず上向くと思っているし、楽観的だ。当時、私が最も尊敬していた企業はソニーだった。幸運にも盛田昭夫さんにお会いできる機会があったが、彼のことを起業家やリスクテイカーじゃない、などと言う人はいないでしょう。すばらしいビジネスマンやリスクテイカーが、今の日本にもいることは間違いない」

どんな国にもリスクを取っていく人が必ず必要だ

 そして、「日本のビジネスパーソンや若い世代にメッセージを」というリクエストに、彼は、笑みとともにこう話した。

 「“The only time you must not fail, is the last time you try.”(最後まで挑戦し続けろ【決して失敗してはいけないのは、最後に挑むときだけだ】)」

 「これは、何十年も忘れない言葉です。かつてのアメリカもそうでした。学生の時はかつてないほど優秀なのに、社会に出るとリスクを取ることを怖がっていた。最初に失敗することを恐れていたんです。けれど、アメリカはそれを乗り越えてきました。その原動力のひとつがシリコンバレーだったかもしれないし、今は多くのリスクテイキングがなされている。どんな国も波を越えていくのだと思うし、どんな国にもリスクを取っていく人が必ず必要だ」

 今回のインタビューでは、思いがけず、ナイト氏の“涙”も見ることができた。

 その詳しいところは本編に譲るが、そのわけのようなことを彼はこう語っている。著書が1980年の株式公開で終わっている理由について話した時だ。

 「最も語りたかったのは、初期の物語です。株式公開した後のことは、皆が知っています。本当に知ってほしかったのは、ジョンソンやウッデル、それにスメラギやイトーがどんな人だったかということです。彼らのことこそ、知られるべきなんです」

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