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軍医vs文豪──森鷗外の二面性 大逆事件下「心の内」を精神科医が読む

Forbes JAPAN のロゴ Forbes JAPAN 2022/11/13 19:00 小出将則

© Forbes JAPAN 提供 ことしは森鷗外の没後100年。偉大な文豪にして軍医の「二生」を生きたひとへの、元新聞記者の精神科医による探究シリーズ第3回は、明治末期に起きた大逆事件を下敷きに小説化した鷗外の、エリート官僚としての「公の顔」と作家としての「私の顔」の葛藤について。

前回は、鷗外の後妻志げと母峰子との諍いをもとに描いた小説『半日』を紹介しつつ、明治という時代制約下での女性観について問いかけた。(第2回:森鷗外の女性遍歴と「美貌の後妻」に元新聞記者の精神科医が考えること

順調な出世街道 されど真相は複雑怪奇

鷗外が18年下の志げと再婚したのは1902(明治35)年、40歳の時期だった。2年後、日露戦争に従軍した鷗外は凱旋した1907年、医務官僚のトップである陸軍軍医総監(中将相当)および陸軍省医務局長に就いた。

津和野藩(今の島根県)で代々、典医の森家長男に生まれた鷗外にとって、立身出世がひな鳥の刷り込みに等しい達成課題だったことは第1回で述べた。鷗外なりの紆余曲折はあったものの、はた目にはすこぶる順調な出世街道に見える。医務局長就任の翌々年から、弟子で医師の木下杢太郎が後年「豊熟の時代」と呼んだ小説の量産が始まった。その最初が、前回に詳述した『半日』である。

研究家が一部指摘するように、本名の森林太郎として、公務である軍医の仕事(鷗外は「為事」と表現)で家長の役割を果たした結果、プライベートな願望、すなわち文芸表現の欲求がより頭をもたげたのだろうか。

私はそのことに同意する一方、真相はもっと複雑怪奇だったと考える。それを象徴するのが、大逆事件だった。

文学者に大きな影響を与えた大逆事件

1890(明治23)年、大日本帝国憲法が施行され、その後刑法では、天皇皇后らに危害を加えようとする者への大逆罪が適用された(戦後撤廃)。同法で訴追された4件を大逆事件と呼ぶが、その中で最初に社会主義者幸徳秋水らが処刑された「幸徳事件」を一般に「大逆事件」としている。

1910(明治43)年5月、長野県明科警察署が機械工を爆発物所持で逮捕して以来、その協力者とともに明治天皇暗殺計画を企てたとして、幸徳秋水、管野スガらが逮捕された。事件はフレームアップされ、逮捕者は直接嫌疑の無い社会主義者らに広がり、合わせて26人が起訴された。

裁判は大審院(今の最高裁判所)だけの一審制で、人定質問後の傍聴は禁止。クリスマスまでの2週間に12回の公判が開かれた。翌年1月には24人に死刑判決(特赦で12人は無期に減刑)が下り、わずか1週間で刑が執行された。

大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与えた。

石川啄木はロシアの無政府主義者クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、永井荷風は「自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた」(『花火』)と書き残している。

森鷗外は、どう関わったのか。

鷗外と大逆事件を語るとき欠かせないのが、医務官僚・森林太郎としての立場と、文学者・森鷗外としての立場の相克関係であり、その際のキーパーソンが元老山県有朋と事件の弁護人平出修だろう。

山県有朋と鷗外を結ぶ接点、オモテとウラ

明治時代の政治を実質上動かしていたのは、国会(帝国議会)や内閣ではなく、主権者たる天皇直属の元老たちだった。とりわけ、長州出身の山県有朋(1838―1922)は、尊王攘夷運動から維新後陸軍整備に関わり、内務大臣から総理大臣を2回経験。元老として、伊藤博文と並び隠然たる力を発揮した。

山県は権力への志向と同時に和歌や漢詩など文芸分野や造園に幅広く興味を示した。人物像について「面倒見がよく、一度世話した者は死ぬまで面倒をみる」(尾崎行雄)などと評された。

山県(やまがた)との出会いは、鷗外の長男於菟によると、山県の一回目の総理就任時であり、『舞姫』の登場人物「天方(あまかた)伯」を彷彿とさせる。二人をつなげたのは、これも舞姫の登場人物、相沢謙吉のモデルとなった親友の耳鼻科医、賀古鶴所だった。

賀古は山県の外遊に随行して以来の関係であり、その後、クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳紹介した鷗外が山県の目に留まった。セカンドポストの軍医監になった鷗外は、陸軍人事に絶大な影響力を持つ山県に近づくことの意味を十分に認識していた。(『評伝森鷗外』山崎國紀)。

1906(明治39)年、鷗外と賀古が発起人となって和歌の研究会「常磐会」を発足させた際、その方面に造詣のある山県を誘い、賛同を得た。前述のように翌年、鷗外は医務局長に昇進した。常磐会は1922(大正11)年までに毎月開催(185回)され、大逆事件の最中も変わりなく開かれている。

常磐会発足から9カ月後、鷗外の自宅「観潮楼」でも歌会が始まっている。メンバー構成は佐々木信綱を除いて異なっていた。観潮楼歌会は伊藤佐千夫、与謝野寛、上田敏、北原白秋、石川啄木、斎藤茂吉ら、いわばプロ集団だった

常磐会を「オモテ」とすると、鷗外と山県を結ぶ「ウラ」のラインが「永錫会」だった。

永錫会に関する情報は乏しい。これに関しては、森鷗外記念会会長・山崎一頴氏の著書『森鷗外 国家と作家の狭間で』が詳しく、以下に要約を引用する。

鷗外日記に永錫会が初めて登場するのが1910(明治43)年3月、大逆事件で最初の逮捕者が出る2カ月半前だった。賀古から鷗外宛書簡によると、山県を盟主にして「忠君愛国、法律、経済、文学」の綜合雑誌刊行をもくろんだが、事件の逮捕者が出始めると、社会主義・無政府主義者へ対抗するための理論構築へと会合の目的が変質したという。

軍医だが、驚くべき行動に

大逆事件を報じる新聞 © Forbes JAPAN 提供 大逆事件を報じる新聞

(出典:『別冊太陽森鷗外 近代文学界の傑人』)

同年10月27日に大逆事件の被告全員の起訴が決定。その2日後に永錫会が開かれた。メンバーは鷗外、賀古、山県のほか、平田東助内相、小松原英太郎文相、法律学の穂積八束教授、そして常磐会メンバーの国文学者井上通泰。マルチリンガルの鷗外は、海外からの情報を『椋(むく)鳥通信』として紹介する無署名原稿を雑誌『スバル』に連載していた。自然な流れとして、社会主義やアナーキズムについてのレクチャーを山県らに求められただろう。

こうやってみると、当然のごとく、陸軍医務官僚トップとしての「為事」を鷗外はこなしていたように見える。ところが一方で、驚くべき行動にも出ていたことが知られている。

 大逆事件の逮捕者数百人は皆つながっていたわけではなく、多くは当局による反体制派取り締まり目的の餌食になった社会主義者で、中にはそうした思想とは関係のない者も含まれていた。

弁護人のひとり、平出修(1878~1914)は文学を志向した弁護士で、1905(明治38)年、東京・神田で開業したころ与謝野鉄幹、晶子主催の短歌雑誌『明星』同人となり、石川啄木と親交を結んだ。その後、鷗外を盟主とした『スバル』創刊に出資した縁で、鷗外と繋がる。

再び、『森鷗外 国家と作家の狭間で』を参照しよう。

和歌山出身の被告2人の弁護を与謝野鉄幹の依頼で引き受けた平出は、鉄幹とともに、鷗外に社会主義や無政府主義について教えを請うた。観潮楼歌会にも参加した平出は、鷗外邸に1週間ほど通い続けたという。

同書には大逆事件に関する重要な史料も載っている。

事件では死刑判決者のうち半数の12人が特赦減刑されているが、死刑判決を受けた管野スガが「聖恩の押し売り」と訴えたように、判決自体が欺瞞だった証拠があるという。

河村金五郎宮内次官から山県有朋宛書簡(1911年1月17日付)によると、判決前にすでに枢密院議長・元老山県、渡辺千冬宮相、桂太郎首相の間で恩赦が約束されていたというのだ。

傍聴禁止の公判に鷗外が顔を出し、裁判記録を入手したという証言がある。永錫会メンバーの鷗外は、一連の経緯を熟知していたのではないか。

大逆事件さなかに発表 2つの小説を深読み

しかし、鷗外は大逆事件に関して、平出にレクチャーした事実も永錫会での議事内容も一切日記に書き残していない。そのかわり、2つの小説を発表した。日付に注目されたい。

『沈黙の塔』(1910年11月)と『食堂』(同年12月、いずれも「三田文学」)。

前者は社会主義や自然主義などの「危険な書物」を読む仲間を殺して「沈黙の塔」に運び込むParsi(パアシイ)族を揶揄する寓意小説で、文庫本13ページ分の小品である。直接の執筆動機は、幸徳秋水逮捕後に東京朝日新聞が連載した記事「危険なる洋書」であることは、読めば明らかだ。

同連載は14回(同年9月16日~10月4日)にわたり、思想書よりもむしろロシアやフランスなどの著名作家の作品を「色情的」などと貶めている。ニーチェとヴェーデキントの「春機発動小説」を紹介したとして、前年に『ヰタ・セクスアリス』で発禁処分を受けた鷗外を指弾、妻の志げも「頻りと婦人生殖器に関する新作を公にされる」とやり玉に挙げている。

山県有朋 © Forbes JAPAN 提供 山県有朋

(出典:『近代政治家評伝 山縣有朋から東條英機まで』)

深読みすれば、パアシイ族は山県を筆頭とした体制側を隠喩していると取れる。山崎國紀氏が記すように、鷗外の主張の眼目は『沈黙の塔』の以下の表記にある。

「芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。(略)因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危険に見える。(略)学問だって同じ事である。学問も因襲を破って進んで行く」

「破る」という表現が新鮮に映る。体制側が拠って立つ因習へのプロテスト(抗議)が、山県の反感を招いたことは想像に難くない。

1カ月後に掲載された『食堂』は、鷗外をモデルにした主人公の役人木村が役所の食堂で同僚たちと昼を食べながら無政府主義者について雑談する、これも文庫本12ページ分の小品である。

大逆事件公判(傍聴禁止)のさなかに発表されており、読者は事件とイメージを重ねる。どこか幻想的な『沈黙の塔』と違い、形而下的な印象を与える作品だが、結末に「ひねり」が加わっている。

木村の話し相手、山田が思い出したように「こん度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方が好いというものがあるそうだが……」と言うと、もうひとりの犬塚が「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生きをさせて遣るが好かろう」と笑う。これに対し、木村はフランスとイタリアの無政府主義者の名前を数え上げ、「随分盛んに主義の宣伝に使われているようですね」と言い足した。

劇作家の永井愛氏はこれを「正攻法では被告らを救えないと見た鷗外の、究極の変化球」と新聞に書いている。

鴎外が日記に書き残していない、3つのこと

永井氏の戯曲『鷗外の怪談』(2014年初演)は大逆事件を題材にし、鷗外の公私にわたる葛藤について、妻しげと母峰との嫁姑関係をめぐる葛藤を織り交ぜながら、ユーモアとペーソスあふれる作品に仕上がっている。

芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したこの戯曲のWeb上の宣伝文句が、今回のテーマを言い当てている。

「あの人は誰にも心の内を見せない。一緒にいればいるほどどういう人だかわからなくなる」

江戸末期に典医家系の長男として生まれ、5歳で「論語」を素読し、8歳でオランダ語を学び、15歳で東京大医学部本科生となった頭脳。維新後の文明開化・富国強兵時代をエリート軍医として過ごした時代の制約。そしてなにより、サムライの魂を持つべく母子密着で培った受動的心性。

長じては、ドイツ語を日本語と同じ感覚で読み書き話した人の「心=脳」に迫るには、同じ程度の脳力が必要だとしたら、鷗外へのアプローチは蜃気楼を追う旅人のようなものなのか。

1つのヒントを永井氏がまとめてくれている。

『鷗外の怪談』(而立書房)あとがきで「鷗外の心に終生深く漂いながら、決して日記に書かれなかったことが三つあるという」と記す。

1つが、少年期の津和野で見ただろう藩によるキリシタン殺害。

2つは、ドイツ留学時代の恋人エリーゼ・ヴィーゲルトの存在。

3つは、今回言及した大逆事件で平出修に協力し、社会主義・無政府主義の知識を授けたことと元老山県有朋の永錫会に参加し、両主義の取締り相談に乗っていたこと。

精神分析では、幼少時のトラウマ体験は成長後、無意識に押しやられて見えないが、大きなストレスに直面すると別の形で意識の水面に浮上してくるという考え方をする。この「抑圧」をどう扱うかが、私たち精神科医に求められているスキルだが、鷗外の「抑圧」されたトラウマをもう少し続けて探っていきたい。次回以降のテーマとして。

「大切なものは目に見えない」──『星の王子様』より。

連載:記者のち精神科医が照らす「心/身」の境界

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