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【逆説の日本史】時間と空間はつながっている「日本史」「世界史」の区別は無い

NEWSポストセブン のロゴ NEWSポストセブン 2022/10/20 16:15
作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ) © NEWSポストセブン 提供 作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』(イメージ)

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第九話「大日本帝国の確立V」、「国際連盟への道3 その2」をお届けする(第1357回)。

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 元老西園寺公望の人格と識見の形成に大きな影響を与えた「フランス革命史」いや「フランス近代混乱史」を続けたい。このあたりは、多くの日本人の教養の盲点にもなっているような気がする。一言で言えば、「一七八九年のフランス革命以降すんなりと共和政が確立したわけでは無い」のだ。

 一七八九年は日本では寛政元年、老中松平定信が「寛政の改革」を断行していたころだが、その後フランスでは皇帝ナポレオンが出現(第一帝政)し、その没落後には一八一四年にブルボン王朝が復活した。しかし、即位したルイ18世の政治はフランス革命の理念を無視した反動的なものであり、王位を継いだ弟のシャルル10世も態度を改めなかったので民衆の不満は高まっていった。

 シャルル10世は国民の不満をそらすため、一八三〇年にアフリカ大陸のアルジェリア侵略を始めた。この侵略は一応成功しアルジェリアはその後フランスの植民地となるのだが、それでも一度「革命の味」を覚えた市民の不満は収まらなかった。危機を感じた王は同年七月、議会を強制的に解散し、解散後の選挙では被選挙権を限定する勅令(七月勅令)を発し議会勢力を大幅に削減しようとしたが、怒ったパリ市民は同月二十七日、学生や労働者を中心に武力蜂起した。

 パリ市民は市街戦には慣れている。同月二十九日にはプロの兵隊を向こうに回して見事にルーヴル宮殿を陥落させた。そして市民は、革命に理解のあるオルレアン公ルイ・フィリップを新王に招聘した。結局シャルル10世は退位しオーストリアに亡命したため、「国民王」と自称したルイ・フィリップが王位に就き、ここにフランスは復古的絶対王政から立憲君主制の国となった。これを「フランス七月革命」と呼ぶ。

 しかし、新王ルイ・フィリップはブルジョアジーの権利は保護したが社会主義思想の普及とともに力を持ってきたプロレタリアート、つまりブルジョアのように資産は持たず自らの労働力を資本家に売って生活する労働者階級を無視した。選挙権を与えなかったのである。これに不満を抱いたプロレタリアート主体の革命が一八四八年に起こる。「二月革命(1848年のフランス革命)」である。これによりルイ・フィリップは国外逃亡し、フランスは再び王国から共和国になった。この体制は、一七八九年の最初のフランス革命後ナポレオンの第一帝政までの共和政に続くものだから、「第二共和政」と呼ぶ。

 だが、これで安定したわけでは無い。今度はブルジョアジーとプロレタリアートの争いが起こった。フランス革命の理念は「自由、平等、友愛」だが、「平等」を身分の平等だけで無く経済的平等まで推し進めると(それがいわゆる共産主義だが)、たとえば農民は革命以来ようやく自作農になれたのに所有する農地をプロレタリアートに奪われることになる。

 ちなみにフランスではこうした形の農地解放(大地主制の解体)があったために、農民は「持てる者」になり「持たざる者」である労働者階級と対立したわけだが、ロシアのように農奴解放が遅れた国や、日本のように明治維新でせっかく自作農を増やしたのに日露戦争に勝つためとはいえ松方財政で自作農を大量に小作人に転落させた国は、共産主義者の眼から見れば「狙い目」ということにもなる。

 というわけで、「ブルジョワ共和政」に不満を抱いたプロレタリアートは、一八四八年六月に体制打倒の反乱を起こす。これが成功していたら「六月革命」ということになったかもしれないが、失敗したので「六月暴動」と呼ばれた。

 こうしたなか、新しいリーダーを求める風潮のなかでさっそうと登場したのが、ナポレオン1世の甥(弟の息子)にあたるシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(通称ルイ・ナポレオン)であった。彼はまず、民主的選挙で王に代わる地位であるフランス共和国大統領に選ばれた。そして彼はナポレオン1世の根強い人気の継承者となり、クーデターを起こして独裁権力を確立。さらに上院に根回しして帝政復活提案をさせ、これを国民投票にかけて圧倒的多数を獲得、皇帝就位を宣言しナポレオン3世を名乗った。「3世」としたのは、伯父ナポレオンの息子が「2世」を名乗っていた(当時すでに死亡していた)からである。こうして一八五二年から「第二帝政」が始まった。

 ナポレオン3世は、後にカール・マルクスから「空想的社会主義」と批判されたフランス人の思想家サン・シモンの影響を強く受けていた。簡単に言えば、国家のもっとも重要な役割は産業の育成あるいはインフラの整備であり、それが進められ社会全体が豊かになれば階級間の対立もおのずと緩和されるというもので、このあたりが資本家と労働者は完全な敵対関係であるとしたマルクスから「空想的」と揶揄されたわけだ。

 しかし、ナポレオン3世はその思想にもとづき金融制度の整備や鉄道の建設、また下水道の整備などを総合的に組み入れたパリ改造計画を積極的に進めた。とくに国民の支持を得たのが、当時世界で初めて首都ロンドンで万国博覧会を開催したイギリスに続いて、一八六七年にパリ万博を開催し大成功を収めたことだ。

 この万博にはナポレオン3世と親交を深めていた江戸幕府最後の将軍徳川慶喜も招待されており、明治維新(1868年)寸前の情勢のなかで、慶喜は弟の昭武を代理として送りナポレオン3世に謁見したこと。随行の渋澤栄一らがパリの都市としての完成度を見て仰天したこと。またその万博会場において薩摩藩が五代才助(友厚)の画策によって独自のパビリオンを建て、幕府に対抗する存在であると世界にアピールしたこと。その結果幕府がフランスから受けるはずの借款が潰されてしまったこと等々は、『逆説の日本史 第二十一巻 幕末年代史編IV』に詳述したところだ。

クリミアはロシア固有の領土に非ず

 戦争に勝つことも君主としての人気を高めるためには絶対必要なことだ。そこでナポレオン3世は、イギリスと組んでロシアに対抗したクリミア戦争で勝利を収めた。クリミアは最近では二〇一四年にロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナ共和国侵略に先立って強引に併合したことで知られるようになったが、プーチン大統領の「クリミアはロシアの固有の領土」だという主張は、歴史的に見れば真実では無い。クリミアは黒海とアゾフ海に挟まれた半島だが、この地を領有すればロシアを攻略しやすくなることは事実だ。だから、モンゴル人やイスラム教徒が建てたオスマン帝国がクリミアを支配していた中世においては、ロシアの発展は阻害された。

 近代になってロシア帝国が強大化すると、オスマン帝国を排除してクリミアを支配できるようになった。そこでロシアはクリミアを軍事拠点としオスマン帝国や西ヨーロッパ方面へ進出しようとした。それに歯止めをかけたのがクリミア戦争で、ロシアの勢力拡張を嫌うイギリスがフランスと同盟しオスマン帝国を支援した。

 オスマン帝国は支配層はイスラム教徒だが、傘下のギリシア地区(独立国家では無い)などに多くのキリスト教徒がいた。きわめて大づかみに言えば、ローマ帝国が東西に分裂したあと、ローマを首都とする西ローマ帝国とコンスタンチノープル(コンスタンチノポリス)を首都とする東ローマ帝国に分裂した。その後、西ローマはフランス、イギリス、スペインといった民族国家に分裂したが、東ローマの「西半分」はオスマン帝国、「東半分」はロシア帝国となり、オスマン帝国は首都と定めたコンスタンチノープルをイスタンブールと改めた。「コンスタンチン大帝の都」が「イスラム教徒の都」になったわけだ。

 当然、東ローマの後継者を自任するロシア帝国は面白くない。そして十九世紀になるとヨーロッパ全体のなかでは「後進国」であったロシアも、アジアやアフリカの国々にくらべれば科学技術による近代化が進み、清帝国やオスマン帝国のように「百年前の武器」しか持っていない国を攻略できるようになった。こうなればしめたもので、クリミアを拠点としてオスマン帝国を攻めイスタンブールを奪回して「コンスタンチノープル」に戻すことも夢では無い。それが当時のロシア皇帝ニコライ1世の野望であり、彼は次男にコンスタンチンという名を与えていた。

 こうしてロシアは南下政策を始めたのだが、この野望が実現してしまえばロシア帝国は新たな東ローマ帝国になってしまう。そこでイギリスは歯止めをかけるため、フランスを誘ってオスマン帝国に味方した。ちなみにそれは他のヨーロッパ諸国にとっても脅威であるので、この当時まだイタリアという国は無かったが、その一角であるサルジニア王国が連合国側に加わった。きわめて珍しいと言っていいキリスト教徒とイスラム教徒の連合軍ができたのは、ロシアという共通の敵がいたからである。

 ちなみに、オスマン帝国はのちに解体縮小しイスタンブール周辺はイスラム教徒の国家トルコ共和国になるのだが、その後ソビエト連邦(現ロシア)の脅威に対抗するため西ヨーロッパ諸国が連合を組んだNATO(北大西洋条約機構)にイスラム国家として唯一トルコが参加しているのは、この伝統を踏まえたものと言えよう。

 このキリスト・イスラム連合軍に一八五五年、ロシアは敗れた。翌年パリで講和条約を締結させられ、クリミアの海とも言える黒海は中立地帯と決められ結果的にロシアは当分の間は黒海艦隊を持てなくなり、東ローマ帝国復興の夢も泡と消えた。

 しかし、ロシアはヨーロッパからアジア方面にまたがる大国である。西側の南下政策が封じられたのなら東側に力を集中すればいい。幸いにもロシアの東側にあたる東アジアには清国、朝鮮国、日本国という「遅れた国」しかない。しかし、ロシアはその地域のもっとも南に位置し、シベリア開発の補給地となり得る日本をいきなり侵略しようとは考えなかった。むしろ漂流者であった大黒屋光太夫を優遇し、日本語を学び貿易ルートを作り共存共栄の友好関係を築こうと考えた。だからこそラクスマンやプチャーチンらを派遣し、イギリスとはまったく違った形で友好親善を求めたのだが、『逆説の日本史』の「幕末年代史編」あるいは『コミック版 逆説の日本史 江戸大改革編』『同 幕末維新編』で詳述したように、「呪われた宗教」朱子学に毒された日本は結局ロシアやアメリカからの友好の申し出を頑なに拒絶し、彼らを怒らせてしまった。

 だから、その後ロシアは「朱子学中毒」の清国、朝鮮国、日本国をイギリスがアヘン戦争でやったような乱暴だが利益幅の大きい方法で植民地化すべきだと考えるようになった。ただロシアは広大な国土がウラル山脈によって分断され、東西の交流が困難という課題を抱えていた。それゆえ、その弱点をシベリア鉄道の建設で補おうとしたのである。

 おわかりだろう。「あれ、今回はずっと世界史の話か」と思っていた読者もいるだろうが、じつはこれは日本史の話でもある。『コミック版 逆説の日本史 江戸大改革編』で、「時間と空間はどこでもつながっている。本来、日本史とか世界史の区別は無い」と申し上げたとおりだ。ロシアという大国がクリミア戦争によって西側への「南下」を封じられたがゆえに、彼らは東に力を入れようと方針転換したのだ。

 それゆえ西であれ東であれロシアがこれ以上の領土拡張をすることを好まないイギリスと日本は日英同盟を結ぶことができたし、ロシアはクリミア戦争に負けたためヨーロッパ側では艦隊を維持するのにもっとも適した黒海が利用できず、外側のバルト海を本拠としたバルチック艦隊を維持強化せざるを得なかった。それゆえ、日本が日露戦争で旅順艦隊を撃滅したとき、応援に向かったバルチック艦隊はかなりの遠洋航海をして東洋へ向かわねばならなくなり、「体力」を弱める結果になった。

 歴史というものは、このように「すべてつながっている」ものなのだ。二〇一四年にロシアがクリミアを強引に併合したのは、ソビエト連邦からクリミアを受け継いだウクライナ共和国にいまのゼレンスキー政権のような西側寄りの政権が出来、ロシアが辛うじて確保していた黒海艦隊の基地セヴァストポリ軍港の租借が白紙に戻される「危険性」が出たからなのである。

 話を戻そう。西園寺公望がパリに到着したときには、第二帝政はじつは終わっていた。では、ナポレオン3世はなぜ権力を失ったのか?

(第1358号へ続く)

※週刊ポスト2022年10月28日号

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