「スケートのシーンを変えられる」小学生だった堀米雄斗の支援を早川大輔コーチが決意した2つの理由〈遠征費も自腹だった〉
「ちょうど35年です」
スケートボードと出会ってからの期間を早川大輔はこう語る。35年目となった今年、初めてオリンピック競技となったスケートボードは、選手の活躍とその魅力によりブームを巻き起こすこととなった。
早川はスケートボードで人生を形作ってきた。
「基本、スケートボードをする時間がまずあって、ほかのことをやるというスタンスです。滑っていないと何もできないというのは自分にはあります。仕事もそこからの選択ですね。仕事に限らず、人生においてもクリエイティブにしていくというのはスケートボードで培った考え方です」
19歳で初めてアメリカ・ロサンゼルスに渡り、スケートボードで生きる決意が固まった。その後も何度かアメリカに足を運んだ。やがて結婚することになり、日本でアメリカのようにかっこよくやりたい、伝えたいと考え、日本に腰を据えた。
自腹で若手選手たちの遠征費を捻出
あるとき、スケートボードの仲間が子供を連れてきた。堀米雄斗だった。早川は堀米の才能を見抜くと、サポートしようと決意する。
その一環として中学生になった堀米をアメリカに連れていった。のちに堀米とともに池田大亮、池慧野巨もアメリカに連れて行った。
「最初に雄斗を。そのうち、『うちの子も』と声をあげる親御さんがいて、雄斗に近い実力者だったから、まとめて連れて行きました」
とはいえ、早川も含め、例えば強化費や遠征費の類がどこかから出てくるというわけではない。選手の分も含め、金銭的な負担も大きかったのではなかったか。
「うーん、まあ、そのへんはありました。協会とかサポートしてくれているスポンサーに声をかけたりしたけれど、何十万もお金を出してくれるところはなかったし、メディアにも結果が出ないと記事にもできないと言われて」
最初は協力してくれる人はほとんどいなかったが、「徐々に共感する人が出てきて何回か行けるようになった」と言う。それでも、そのスタートから、持ち出した金額は小さくなかっただろう。しかも自費での負担が容易ではない事情があった。
目的は「雄斗をアメリカで成功させること」
「ブランド(HIBRID)を始める前のお店は最終的には失敗して借金も結構ありました。プロスケーターのプライドはあったけれどそんなんじゃ食べていけないから、トラックの運転手をやり、奥さんにも働いてもらって。あのときがいちばんどん底。辛かったですね」
それでも行動に駆り立てられた理由があった。
「やりたいこと、やるべきことが雄斗のおかげで明確になったので完全に突っ走っていましたね」
明確になったこととは何か。答えは一言だった。
「雄斗をアメリカで成功させること」
「スケートのシーンを大きく変えられるんじゃないかと思った」
1つには、堀米に見い出した将来性にあった。
「圧倒的に持っているスキルが違うというか、センスもよかったし経験もありました。僕らは中学校で始めたのに、雄斗は中学生の時点で7、8年のキャリアがあって大きい舞台でも力を出せるメンタルもあった。雄斗のお父さんが僕と同じくらいの年齢で見てきているシーンが一緒だし憧れたアメリカのスケーターも一緒。どのように成長していったのかを考えて、小っちゃいときにバーチカル(ハーフパイプの急斜面)をみっちりやって、体が強くなってからストリート、という順序をみんなが知らないときからやっていました。アメリカのトッププロスケーターと同じステップを踏んでいることもあって、成功するのは見えていました」
もう1つは、自身の思いとスケートボードの未来を託せるという直感だった。
「スキル不足や時代背景もあって自分の目指していた、アメリカでプロとして活躍することはなかなかかなえられなかったけれど、雄斗ならかなえられる。僕が得た知識、経験を伝えることでかなうなら見たいと思った。日本にとって逸材だし、スケートのシーンを大きく変えられるんじゃないかと思った。だからすべてを懸けました」
堀米は先行世代を受け継ぐ存在だ、とも言う。
早川が憧れた存在に、アメリカで活動し帰国後にスケートボードチーム「T19」を結成しスケートボードカルチャーを発信し続けた大瀧ひろし氏(2017年逝去)がいた。
「大瀧さんの活動を見たり知ったりしなければ、若いときにアメリカに連れていってアメリカで活躍できる目線にかえてやろう、大会に出してやろうと思わなかったと思います」
早川が刺激を受け、得てきたものを注いだ堀米は、東京五輪で金メダルを獲得。スケートボードが脚光を浴びる原動力となった。
「(オリンピック)は本質を残したままルールを作ってくれた」
スケートボードが熱狂を生んだ大会から時を経た今、早川は思う。
「おそらく競技をする団体の中にスケートボードの経験者が多く入っていて、かっこよさとか何がすごいのかという価値観がちゃんとルールに盛り込まれたことが大きかったと思います。誰もやっていないトリック、オリジナリティ、クリエイティビティ、誰が見てもすごいということを追求していれば評価されて勝てるルールになっている。自分のビデオパートで誰もやっていないことを発表するのと同じ感覚、発表する場がオリンピックだったということ。本質を残したままルールを作ってくれた。そうでなければ『これはスケートボードじゃない』と、多くのスケーターは参加しなかったと思います。メダルは、スケーターとしてかっこよさとか楽しさを表現することを求めての結果でしかないけれど、メダルを獲ったことで一般の人にスケートボードの魅力を伝えるチャンスが生まれたのが大きな成果ですね」
スケートボードを始めて35年目だからこその感慨もある。
「スケートボードは、僕らが始めた頃から今も変わらない。あの頃は煙たがられていたけれど、縦社会や団体行動が苦手で個を大事にしている人間が脚光を浴びることになったことは、すごくいい時代になったような気がします」
スケートボードは「人生そのもの」だと語る。
「僕はスケボに選ばれたと思っています。個人的には体が動かなくなるまで滑り続けたい。あとは喜びを、楽しみを感じてかっこいいと思う人が一人でも増えたらいいなと思っています」
スケートボードとともに生きる人生はこれからも続いていく。