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《野球殿堂入り》プロ5年目の“失望と転機”…山本昌(通算219勝)を救った2人の大恩人とは「名前を聞くと、今でも背筋がピンと伸びる」

Number Web のロゴ Number Web 2022/01/15 06:00 小西斗真
現役生活32年間を中日ドラゴンズ一筋で活躍した山本昌。落ちこぼれから野球殿堂へ、名投手が今でも感謝する2人の恩人とは © Number Web 提供 現役生活32年間を中日ドラゴンズ一筋で活躍した山本昌。落ちこぼれから野球殿堂へ、名投手が今でも感謝する2人の恩人とは

 今年度の野球殿堂入りの通知式が、14日、行われた。投票の結果、プレーヤー表彰で基準を満たしたのは元中日の山本昌広(山本昌)さんとヤクルトの高津臣吾監督だった。

 山本さんは史上最年長の50歳で登板した「おじさんの星」であると同時に、通算219勝を挙げた名左腕。現役最多が石川雅規(ヤクルト)の177勝で、現時点では「最後の200勝投手」でもある。一方で200勝達成者の中ではただ一人「プロ1年目に登板できなかった投手」であることでも知られている。初登板が3年目。初勝利は5年目だった。

“非エリート”の転機「フロリダで1年間、鍛えてこい」

 エリート集団の「昭和名球会」の中では異質の存在。そのまま朽ちていてもおかしくなかった野球人生の潮目が、大きく変わったのは5年目の野球留学である。1988年の中日は、フロリダ州のベロビーチで2次キャンプを行った。山本さんはそのメンバーには滑り込んだが、帰国することはできなかった。そのままフロリダにとどまり、提携していたドジャース傘下の1Aチームに合流するよう命令されたのである。

 山本さんは引退翌年、テレビ番組の「アナザースカイ」(日本テレビ系)でベロビーチを再訪。人生が激変した「留学」を振り返っていたが、当時は決して望んだことではなく、激しく落胆したという。石にかじりついてでも、という意気込みで、開幕一軍を目指していたのである。「フロリダで1年間、鍛えてこい」という命令は、非戦力と位置づけられたことを意味するからだ。

「星野仙一という名前を聞くと、今でも背筋がピンと伸びる」

 落ちこぼれから野球殿堂へ。転機となった「留学」に関わった2人は、山本さんの大恩人でもある。1人が命令の主、星野仙一監督。もう1人が現地で世話をし、指導したアイク生原(生原昭宏)さんだ。

「星野仙一という名前を聞くと、今でも背筋がピンと伸びる。叱られた、怒られた、怒鳴られた……。そんな思い出がほとんどですが、厳しくされているうちは、必ず『次』がある。選手にとって優しくても使ってくれない監督と、理不尽でも使ってくれる監督のどちらを選ぶかといえば、答えは考えるまでもないことなんです」

星野から受けた「帰ってこい」の命令

 なぜフロリダに残れと言われたのかは、星野さんが故人となった今ではわからない。期待していたといえばそうだが、本当に期待していれば5年目の選手なら連れて帰る。ただ、山本さんが闘将と呼ばれた男のすごみを感じるのは、実は「残れ」という命令ではなく「帰ってこい」という命令だ。

「僕のフロリダでの投球が良かったという報告は日本にも届いていたでしょうけど『ああ、そうか』で済ませていてもおかしくはないんです。ところが星野さんは放置せず、シーズンを切り上げて帰らせた。そして優勝争いのまっただ中で、使ったんです。あの決断力、勇気、度量は本当にすごい」

アイク氏が説いた“3つのこと”

 8月に帰国した山本さんは、残りシーズンで2完封を含む5勝(0敗)。リーグ優勝に多大な貢献をした。現地からの報告に耳を傾け、帰国させた上に投げさせた。そして、その英断を引き出した情報をもたらしたのは、間違いなくアイク生原さんだ。

 プロ野球経験はなく、亜大の監督を経て渡米。ウォルター、ピーターのオマリー会長を2代に渡って補佐した。山本さんをサポートした4年後に病没したが、存命なら大リーガー・野茂英雄も必ず支えたはずだ。山本さんが「いつ寝ているんだろう」と思ったほど、選手たちと寝食をともにし、世話をした。

「上からたたけ、前で放せ、低めに投げろ。アイクさんから口酸っぱく説かれたのがこの3つです。そして、僕は野球を辞めるその日まで、この3つを忘れることなく、肝に銘じていたんです」

「伝家の宝刀」スクリュー誕生秘話

 当時の山本さんに必要なのはスクリューボールだと見抜いたのもアイクさんだった。連れて行かれたブルペンで投げていたのがフェルナンド・バレンズエラ。スクリューボールを自在に操る、大リーグ屈指のサウスポーだった。しかし、今でいえばジェイコブ・デグロム(メッツ)のスライダーを見せて、おまえも投げろと言うようなものだ。「とても無理だ」とため息をついた山本さんだったが、その2カ月後にあっけなくスクリューボールを手に入れる。同じ1Aのチームメートで野手とキャッチボールをしていたところ、その選手がえげつない曲がり球を投げてきた。「どう握っているんだ?」。教わった通りに夜の試合で投げたところ、いきなり空振りが取れた。その変化球が、大投手へと押し上げてくれたスクリューボールだった。

 どんなに理不尽でもチャンスの扉を開放してくれていた星野さんと、どんなに疲れていても自分たちに向き合ってくれたアイクさん。2人から山本さんが受け取ったのは、とてつもない量の愛情と情熱だ。感謝の思いは、行動で示してきた。自宅の玄関にはアイクさんの写真を今も飾り、200勝を挙げたシーズンオフは1泊3日の超強行スケジュールでロサンゼルスのアイクさんの自宅に飛び、報告している。新型コロナが収束すれば、もちろん今回も渡米するつもりでいる。

2人の恩人に続いて野球殿堂入り

 山本さんの大活躍の序章だけを見て亡くなったアイクさんは2002年(特別表彰)に、現役人生を最後まで見届けた星野さんは17年に、それぞれ野球殿堂入りを果たしている。大恩人と同じように、自らのレリーフも飾られる。

 至高の瞬間。「自分の野球人生に携わってくださった方々の結晶だと思っています」という言葉は、紛れもない本心だろう。

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